廃黄河を行く

第05回

徐州──廃黄河と項羽の故郷

nakamura0501

◀汴泗交匯の碑。徐州市街を流れる廃黄河の迎春橋のたもとに屹立する

 商丘の駅裏にある長途汽車站(長距離バスターミナル)から発して徐州に向かうバスは、途中で休憩しながら砿山、黄口、䔥県などの小鎮をたどってゆく。河南、安徽、江蘇の3省にまたがる殺伐とした農村風景が車窓に映る。路程は120キロ、中国の地理感覚からいえば、ちょっとお隣の街までというほどの距離だが、その行程は悪路もあるので思いのほか遠い。隣に座った田舎の学生風が心配そうに何度もなんども、徐州はまだですか、と聴いてくる。バスはやがて徐州西郊の廃黄河橋を渡り、混沌とした市街の喧噪の中に突入した。

汴河と泗水が邂逅する街

 近代以前の中国において揚子江と黄河(廃黄河)を南北に繋ぐ物流手段の確保は、政権の盛衰を左右するほどの重要な政治課題だった。国庫を潤す税糧あるいは辺境防衛軍などの軍隊を養う兵糧としての米穀は、揚子江沿岸の穀倉地帯、すなわち江南から調達しなければならなかったからである。

 大陸の地図を俯瞰すればわかるように、この国の河川は概ね西高東低の大地を西から東に流れている。そのため大雑把に言えば、江南と北の京師(首都)をつなぐ南北水運には不向きだった。また、揚子江と黄河の間をやはり西から東に流れている中小河川が南北の進軍を阻み、中国の南北統一を著しく困難にしたことも歴代政権を悩ませた。そのふたつの難題に挑んだのが隋の煬帝だった。春秋戦国時代に始まったとされる南北運河の整備に加え、現在も京杭大運河としてその名を知られる人工水路、通済渠(黄河〜淮水)と江南運河(揚子江〜杭州)の開削に着手したのだ。

市街を西から東へカギ型に流れる廃黄河。徐州市でいちばん大きな河川

▲市街を西から東へカギ型に流れる廃黄河。徐州市でいちばん大きな河川

 商丘の北郊に天沐湖を形成して南流する廃黄河は徐州の西郊外から市内へ流れ込み、繁華な市街をカギ型に貫いて東南郊外から宿遷にむかう。現在の徐州は黄河故道(廃黄河)の流れにそって発展した街なのである。長距離バスターミナル(徐州駅南側)から大通りを西に入ると、そこはすでに廃黄河の河岸である。迎春橋のたもとに「汴泗交匯」の四文字を刻した大きな石碑が屹立している。

 汴泗交匯の「汴」は隋代に開削が始まった通濟渠、唐代の広濟渠、そして宋代の開封を流れた汴河のことであろう。隋、唐、宋と首都が洛陽、長安、開封と変遷するにつれ、運河の河道もそれにともなって移動した。

地図:現在の黄河と廃黄河、および徐州の位置

◀地図:現在の黄河と廃黄河、および徐州の位置(NIKKEI GALLERY101号より転載)

 「泗」は泗水(泗河)のことだ。山東省に源を発する泗水は現在、徐州の北に展開する南陽湖に流れ込んでいる。ところが元代以前の歴史地図を開いてみると南陽湖やその南に連なる昭陽湖、微山湖などはまだ存在せず、そこには茫々たる平原にただ通濟渠が流れているだけだった。つまり元代以前の泗水は通濟渠と合流していた。明、清時代の数百年間、その通濟渠に近辺の中小河川が流れ込んで河水が滞留し、南陽湖、昭陽湖、微山湖の三湖を形成した。

 迎春橋の下には、古来、商丘から徐州に達した廃黄河(汴河)が流れている。そこに徐州郊外を潤す大運河の支流が引き込まれた。橋のたもとに建つ「汴泗交匯」という石碑は、ここで廃黄河と大運河が邂逅したことを私たちに教えている。そのことはすでに唐の時代、白居易が「汴水流,泗水流,流到瓜洲古渡頭」(汴河は流れ、泗水も動き、やがて瓜洲の古渡頭に至る)と詠み、韓愈もまた「汴泗交流郡城角」(汴河と泗水は郡城の一角で交わる)と詠っていた。瓜洲も郡城も徐州の古名である。

 話がすこし複雑になってしまった。要は歴代政権が江南から税糧や兵糧としての米穀を北方に運ぶため、如何にして揚子江と黄河を有機的に接続しようと苦心し、その成果として大運河が開削され、徐州で汴河と泗水が邂逅した古代の風景を想像してもらえればそれでよい。

西楚覇王の地

 徐州は江蘇と河南、山東、安徽の4省をつなぐ交通の要衝である。地理的には河南、山東、安徽の各省が接壌する地域に江蘇省が無理に頭を突っ込んだような風情を呈している。この頭の部分の全体が徐州市であり、市街地はいわば脳幹のあたりに位置している。遠く紀元前の秦の時代には隣の宿遷一帯も含めて「下相」とよばれた楚の国の中心であり、この茫漠とした平原の地に項羽(項籍)が生をうけた。父母を早くに亡くした項羽は、叔父の項梁に育てられた。司馬遷が著した『史記』の項羽本紀によれば、「項籍少時、学書不成、去学剣、又不成」。項梁怒之。籍曰「書足以記名姓而已。剣一人敵、不足学、学萬人敵」と嘯いたのだという。つまり、項羽は少年のころ書を学んでも、剣を鍛錬しても成らず、これを育て親の項梁が詰ったところ「書は姓名が書ければそれでよいではないか。剣は1人の敵しか倒せないので学ぶに足りない。自分は万の敵に対抗する技を学びたいのだ」と訴えたので、叔父は項羽に兵法を教えた、ということらしい。司馬遷の記述である。

迎春橋のたもとは路上広告の天下でもある

▲迎春橋のたもとは路上広告の天下でもある

 こうして項羽は万の敵を相手にする楚の武将となり、野望を抱いて関中平野(現在、西安を中核となす平原地帯)の平定に乗り出す。倒秦を企てた楚の懐王が、関中を最初に平らげた者をそこの王に任ずると約束したからだ。このとき、劉邦(沛公)は南の武関(現在の陝西省商洛市丹鳳県近辺)から攻めて函谷関を陥し、項羽の機先を制した。しかし、項羽はその優秀な軍勢を動員して劉邦への反撃を出る。このとき劉邦に風雲を告げて鴻門の会に導いたのが客将の張良だった。鴻門は咸陽郊外、すなわち現在の西安市臨潼にある。臨潼は1936年12月、督戦中の蒋介石が張学良に軟禁され、周恩来から抗日に加わるよう説得された西安事変のきっかけになった場所としても有名である。鴻門の会で倒秦軍の中核となった項羽は、平定した関中平野の咸陽ではなく故郷の彭城(徐州)に奠都して西楚の覇王を称した。ここ徐州、そして次に向かう宿遷は、戦国の武将項羽の故郷でもあったのだ。

廃黄河と黄楼

 徐州市の面積は約1万1千キロ平米で、ちょうど日本の秋田県の広さに匹敵する。5区2県級市と4県を直轄し、人口は約930万人と神奈川県よりも多い。この旅でたどってきた河南省の鄭州や商丘とおなじように、鉄路の主要幹線が東西南北に交差し、高速鉄道が停車する重要都市でもある。徐州の高速鉄道駅は市街地から路線バスで30分ほどの東郊外にあり、そこから上海の虹橋駅までは南京経由で約2時間半、ひとむかし前の中国の交通感覚でいえば最高速度が時速305キロの夢の超特急だ。

廃黄河の河岸に建つ黄楼。近代以前における抗洪事業の象徴

◀廃黄河の河岸に建つ黄楼。近代以前における抗洪事業の象徴

 在来線が発着する繁華で混乱した駅前から市街地に進入すると、そこには黄河路、夾河路、河清路など黄河(=廃黄河)にまつわる街路名が多い。大通りからひと筋西に入るとそこにはもう迎春橋の下に廃黄河が流れ、徐州の大動脈のようにゆったりと水面を横たえている。

 迎春橋から流れに逆らってゆっくり北に歩いてゆく。河岸の小枝に鳥籠をかけて囀(さえず)りを楽しむ老人たちがいた。自慢の鳥を共鳴させて、お互いに誇っているのだ。そのなかの1人が幾台もカメラをさげているわたくしの姿を見て、趣味とはいえ大層なことだ、とからかってきた。河岸にある劉邦の客将だった張良の墓碑などを見ながら歩いていくと、前方に基部を黄色く塗った楼閣が見えてきた。遊覧図で調べると黄楼とある。

 北宋の詩人であり政治家であった蘇軾(1037-1101年)が徐州府の知事だった1077年に黄河が決壊して、氾濫した河水が彭城(徐州)を襲った。翌年に実施された防洪対策は陰陽五行思想にある「土克水」(土は水に克つ)の考え方に基づいて進められ、黄が土を代表する色なので、黄河の河畔に黄色く塗った楼閣を築いて洪水に立ちむかう象徴としたのである。この顛末は、蘇軾やその弟子の秦観、蘇轍(蘇軾の兄)らが撰した『黄楼賦』によって現在に伝えられている。黄楼は黄河が決壊した翌年の1078年、防洪対策の一環として黄河河畔に建立された。現在の建物は900年後の前世紀1988年に修復されたものである。

旧市街の馬市街は静かで、古い家並みが心地よい

▲旧市街の馬市街は静かで、古い家並みが心地よい

 牌楼の周辺で中国将棋などをさしている数人の老人に旧市街の所在を訊いてみた。口々に、それは馬市街だ、という。その街をめざして解放路をひたすら南下する。1時間ほど歩くと、途中からどこをどう来たのか判らなくなってしまったが、東西に走る建国路を渡って露天商が集まっている雑踏に足を踏み入れたとたん、馬市街の路標が眼の前に現れた。徐州の古名、彭城の残り香に満ちた街景に心を奪われる。ひなびた味わいのある小さな路地に吸い込まれていく。

馬市街の庶民料理

 この小路が馬市街らしい。奥の方に何軒かの大衆食堂があったので、「小小特色酒館」という看板を掲げた店を選んで客となる。夫婦でやっているらしい小さな菜館である。テーブルに就いて徐州の庶民が好んで食べる安い料理はなにか、とたずねると、「地鍋鶏」だという。それともう一品、なにかさっぱりした料理をと注文する。地元のビールを飲みながら待っていると、まず「賈汪素火腿」という前菜のような料理が運ばれてきた。湯葉にネギ、香菜、赤唐辛子などを加えて黒酢であえてある。素朴な料理だが、身体が疲労しているので酸味が胃の腑に沁みて美味だ。賈汪とは徐州の北郊外にある小さな村の名前らしい。素は精進、火腿はハムだから、賈汪村の素(精進)火腿(ハム)ということになる。高価なハムの代役をしているのが湯葉にちがいない。

徐州庶民の味「賈汪素火腿」は酸味がきいた健康食

◀徐州庶民の味「賈汪素火腿」は酸味がきいた健康食

 賈汪素火腿を食べ終わったころ、地鍋鶏が運ばれてきた。黒い鶏を餅、生姜、ニンニク、ネギ、唐辛子などと煮込んである。八角の香りが漂う。これにも香菜がふりかけてある。濃厚な地鶏の味が多いに食欲を促す。

 食堂を出て、馬市街を奥の方に進んで行くと突き当たりに長い階段があった。丘の上の方には静かな散策路、そして古い家並みが連なっている。登ると鉢巻き状の道が丘の天辺あたりをぐるりとめぐり、全方位から徐州の街並みをながめることができる。この丘は南山という景勝地らしい。鉢巻きの道には状元街という道標が立っている。両側には歴史的な建造物が軒を並べ、静かな雰囲気が心地よい。

初出『NIKKEI GALLERY』101号の内容を加筆再構成

〔参考文献〕

岑仲勉『黄河変遷史』(人民出版社、1957年)
司馬遷『史記』紀〔一〕(中華書局、1959年)

コラムニスト
中村達雄
1954年、東京生まれ。北九州大学外国語学部中国学科卒業。横浜市立大学大学院国際文化研究科単位取得満期退学。横浜市立大学博士(学術)。ラジオペキン、オリンパス、博報堂などを経て、現在、フリーランス、明治大学商学部、東京慈恵会医科大学で非常勤講師。専攻は中国台湾近現代史、比較文化。