バウルの便り

第06回

「好い」と「悪い」の真ん中に「あるがまま」が極めて秘密裏に存在する

 ベンガルの人々が「虎」と呼ぶ今の季節の太陽。その虎が牙をむき出しにする前、わずかな朝の涼しい時間に仕事を済ませようと、村では夜が明ける前から人々が動きだします。今年は雨の日がほとんど無く、例年であれば5月頃からベンガルに流れてくる熱風が、今年はすでに4月の半ばから猛威をふるい炎暑が続いています。バス道路に面した木々たちは、乾いた土埃を被り息苦しそうに雨を待っているように見えます。人々もまた雨を待ちます。夕方になると少しでも風のある場所を見つけてどこからともなく人が集まり、涼みながら空を仰ぎ雲の様子を窺います。雨だけがもたらしてくれることの出来る涼しい風は、人間にも、動物にも、木々にも、ひと時の安らぎを与えてくれるのです。枝にぶら下がる若いマンゴーたちもまた雨を待ちます。果実は雨後、大地から蒸発した水蒸気のために蒸し風呂のようになった暑さの中で熟れていきます。

 ベンガルの村のバザールでは、2,3軒ある薬局が交代で店を開ける以外、昼間12時から4時まで全ての店が閉まってしまいます。これは1年を通してのことですが、特に、猛暑となる4月、5月の日中はバザールに人影もなく、シャッターの下ろされた店の前で野良犬たちがぐったり寝そべっているだけという様子が見られます。そして一昔前なら、炎天下を托鉢から戻るバウルの姿がきっと見られたことでしょう。朝夕の賑わいとは対照的なこの昼間の光景には、とても深い静けさを感じるものです。「欲しいもの」「食べたいもの」「必要なもの」「子供のために」「家族のために」とバザールを巡る人々、儲けのためにあらゆるごまかし、まやかしの妙技を競う者たち、様々な人の様々な期待と充たされない想いが交錯する朝夕の犇きに比較して、人のいないバザールには言葉による主張をしない自然があるだけです。そこには何の言葉も想念もありません。ただ、太陽と、その炎熱にさらされた道があるだけです。存在のみがあり、それに対する分析、考察はありません。そこには何の試みも企てもありません。抑圧もなければ抵抗も屈従もない、受け入れることのみが行われています。けれども、ここで言う“受け入れること”というのは決して服従することを意味するのではありません。あるがままを知るとでも言えばいいでしょうか。起こることを起こらせておく事です。それはものぐさでも臆病でもないのです。なぜなら、あるがままを拒むのはいつも「私」の「心」だからです。「私」のことを考える「心」です。「私」のために都合の好いことを欲する「私」の「心」です。ですからその「私」に、「心」に、自己正当化させないのはとても勇気のいることです。誰も自分の非は認めたくないからです。「愛」があるところに「私」はありません。「あなた」があるだけです。そうでなければ、すべての存在が「私」です。そして「愛」のあるところには知恵があるのです。暴力でなく知恵があるのです。起こることを起こらせておくことは容易ではありません。

 それは完全に自由となった人だけに出来ることです。自分の「心」から自由になった人にそれが出来るのです。
 とは言え、「私」を完全な悪者にしてしまう必要はありません。受け入れることを心に強制した結果として理想の姿に一致させようとする自分とそうでない自分とが分裂してしまったりすると、理想は強迫観念に変わり、心は抑圧され「心」から自由になるどころか足掻けば足掻くほどのめりこむ底なし沼に陥ったようになってしまうでしょう。見方を変えれば、この「私」に「神」が宿り、この「私」がそれを味わうのです。この「私」が人を愛し、この「私」が人を思い遣るのです。すべて同じ「私」です。「私」がいなければ、愛の対象である「あなた」を認識することは出来ないでしょう。これはバクティの道の美しさです。
ですから、バウルは無理な禁欲を否定し、戒律に縛られないのです。欲望を追うこともなく、又、切り捨てることもなく……。気楽に、気取らず、飾らず、自然に。人間は素晴らしいのです。
昼があるように、夜があります。「好い」もあれば「悪い」もあります。見つめるのはその間です。

バウルの唄

 喜びのバザールに行こう
 バザールに棲み、真我に心を楽しませなさい

 “あるがまま”の喜びのバザール
 “あるがまま”を見る眼が開いたものにとって
 ”あるがまま”はあなたの胸の内にあり
 それを見つめ、3つの苦悩を癒しなさい

 “好い”と“悪い”の真ん中に、
 “あるがまま”が極めて秘密裏に存在する
 人知れず、大いなる絶対と、
 惹きあうことに心を酔わせなさい

 さて、喜びのバザールは一体どこにあるとバウルは言っているのでしょうか?

コラムニスト
かずみ まき
1959年大阪に生まれる。1991年、日本でバウルの公演を見て衝撃を受け3ヵ月後に渡印。その後、師のもとで西ベンガルで生活を送り現在に至る。1992年、タゴール大学の祭りで外国人であることを理由に開催者側の委員長から唄をうたう事を拒否されるが、それを契機として新聞紙上で賛否両論が巻き起こる。しかし、もともとカーストや宗教宗派による人間の差別、対立を認めないバウルに外国人だからなれないというのは開催者側の誤りであるという意見が圧倒的大多数を占め、以後多くの人々に支援されベンガルの村々を巡り唄をうたう。現在は演奏活動を控えひっそりとアシュラム暮らしをしている。