バウルの唄
傍に居る人を、
どうして、大声で呼んでいるんだい?
お前が居るところに、その人も居るんだよ。
一体、誰を探し回っているのかね。
手の届くところに居る人を
ダッカへ、デリーへと探しに行く
いったい何の真似だい?
お前のような哀れな人間は
この世にいないさ。
稲光りが眼を眩ませ魅了するように、
時々、この快楽の館に、
閃光を放つ
いつもその傍に居るというのに、
眼に入らないのさ。
部屋の中に、もうひとつの部屋。
そこに誰が住んでいるのか
どうして見つけようとしないのだ。
師、シラジ・シャインは 言う、
愚かなラロンよ、
それはお前のその姿と
同じ姿をしているのだよ……と。
ベンガルはもうすっかり寒季に入りました。毎年ベンガルの暦のカルティック(10月後半から11月後半)頃から朝夕冷えるようになりますが、このカルティック月に敬虔なボイシュノブ派の信仰者は早朝、クリシュナ神の御名を唱えながら村を廻ります。
吐く息が白く、まだ晴れぬ霧とまじわりながら、素足で歩く信者の後方に流れて行きます。頭からすっぽりショールを巻き、手には小さなシンバル(鐃鉞)を持ちリズムを打ちながら、体中の力をこめた大きな声で神の名を唱え唄います。そして夜明けを知らせる鳥たちのさえずりは、まるでその祈りの声に合わせて唄っているか、合いの手を入れて応援しているように聞こえるものです。
それにしても、ベンガルの初冬の象徴のようだったこの朝のナーム(神の名を唱えること)も、今年は心倣しか寂しく響きます。長閑だった私の住む村でも制限付の外出禁止令が出され村の中心部が機動隊で溢れるなど、共産党政権の存続が揺さぶられている今、トゥリノムル・コングレスの勢力が増し西ベンガル中のあちこちで紛争が絶えません。しかも、機動隊の暴行で瀕死の重傷を負っているのは村の共産党幹部たちという有様です。
そんな情勢の中、バングラデシュに行く機会がありました。こちらの人たちは東ベンガルとも呼びますが、本来一つであった西ベンガルとバングラデシュ。同じ言葉を話し、ほぼ同じと言える自然環境、同じような顔、背格好。けれども、国境を越えるともおうこの「ナーム」を聞くことはありません。国境に向かうまで、まるで見送ってくれているかのように道路沿いのあちこちに立っていたヒンドゥー教の女神たちの象も姿を消します。陸路で国境を越えたせいもありますが、”ああ、そうだイスラム教区だったんだ”と、あらためて思い起こさねばならないほど、私は西ベンガルとバングラデュの間に宗教的な差異があるということを、ベンガル──ベンガル語を話す人たち──という共通項があることによって度外視してしまっていたようです。そもそも、東パキスタンとして分割されたのが、イスラム教徒が多い地区であると言う理由からであったにも拘らずです。
そして、何日か滞在するうちに、今度は、”同じベンガル人なのに宗教がかわるとこんなにも習慣が違うのか”と思うようになりました。けれども、よく考えてみればヒンドゥー教ほど細かい作法の取り決めがある宗教はほかにないのであないでしょうか。「浄」、「不浄」の区別がはっきりしていて、例えば、食されているもの、食べ残し、食事の後の食器は不浄なものとしてそれらに触れたものはすべて不浄となります。左手は不浄で食事の際など右手しか使わないのはよく知られていることですが、だからと言って食事中の右手で何かを触るとそれは不浄なものとなってしまい、触られたものがもし食べ物だったりすると大変なことになります。ですから私が住むような田舎では、お菓子のようなものでもお皿に盛られたものをみんなで一緒に食べるというようなことはありません。皆でつつく日本の鍋料理や、食事中のお茶碗を持っておひつからご飯をよそうなどというのはヒンドゥーの人たちにとっては不浄の極まりない光景で、見てしまったら最後、ご飯がのどを通らないはずです。
御飯をよそう時、しゃもじをお茶碗に接触させずによそうことは出来ません。けれども、食べている最中のお茶碗に接触させたしゃもじをまた、おひつの中に戻すということは、それはヒンドゥーの人にとって、もうおひつの御飯全部が食べられないものになってしまうということなのです。敬虔なヒンドゥー教徒は料理中に味見をすることもありません。調理中のお玉で味見するなどというのは言語道断ですが、調理された食べ物を先ず神に捧げ、そのお下がりとしてそれを戴くと考えれば、味見する行為そのものが供物を穢してしまうことになるのです。
そしてまた、ベンガルのヒンドゥー教徒は、用を足した後、その時に着ていたものは全て洗って清めます。小用の場合は足だけ洗います。こんなことはあげれば限りがありません。
習慣というのは、それに従っている人にとってはそれが当たり前のことです。日本人の私でさえ、長年この作法に従っているうちにこれが当たり前となり、日本に行くと逆カルチャーショックを受けてしまう程です。今回のバングラデシュ訪問でも、同行した西ベンガルのヒンドゥー教徒の人たちの中で食事が出来なくなった人がいました。この”当り前”はすべての人にそれぞれの基準を作り出しているようです。環境や、習慣、性質が違う一人一人の基準は、到底すべてに当てはまることは出来ません。それは極めて曖昧なものです。
一定の行動様式を反復しているうちにそれに慣れていくということは、それ以外の様式に違和感を感じさせるという面を持っています。この違和感は差異を認識している状態だと思いますが、何かの理由でこの差異を受け容れられなくなった時、嫌悪が生まれます。そして嫌悪によって些細な生活習慣の違いも、民族間、人種間、国家間の差別、敵対心を生み出す根拠となり、更にそれは分断支配に利用されていくというのは歴史の語るところです。 そしてよく見ると、その根っこは私たちの日常的な心の在り方に簡単に見い出すことが出来ます。

ラロン・フォキール廊
インドの賢者たちは「心」の性質を”常に願望と疑念。確信と不確実性の間をさ迷う”と定義しました。「これをしよう」と思えば、今度は「だめなのではいか」という想いがやって来る、「これは確かだ」と思えば「そうでないかもしれない」という想いがやって来るというように。ですから「心」は次から次へと疑惑を生み、いつも「不満足」です。それは絶えず打ち寄せる波の様で「安心」することがありません。そして「不満足」の解消となるはけ口が”与えられたならば”、「心」は溜まった事をそこに出し続けるのです。
悲しいことに人間は、いつも、自分よりも低いものを作り上げて安心していたいようです。妬む心は対象を蔑視し、人は噂話に我を忘れます。
それにも拘わらず、「心」はいつも「私」の正当性を主張します。正当性は、家族、親族、カーストの正当性につながり、それは国家の正当性、民族の正当性、イデオロギーの正当性と、帰属意識の関る範囲で広がります。
私たちひとりひとりの帰属意識が、宇宙とまでは言わなくても、せめて地球レベルの広がりを持ち、同じ人間としてお互いを尊敬し生きていくようになるためには、やはり、まず一人一人が自分自身の「心」を見つめていくことから始めることが大切だと思います。
心は完全に自由であるべきです。あらゆる拘り、偏見、嫉み、競争から自由であるべきです。とらわれる心に愛はありません。
異質なものが様々に存在するからこの世は美しいのです。
世界中の人が私と同じ顔をし、私と同じ声をし、私と同じことを考えているようであれば、それはまるでロボットの世界です。
庭に咲くバラの花と、コスモスの花とどちらが美しいか決めることが出来るでしょうか。それはあくまで好みの問題です。好みは基準にはなりません。
すべてが、そのままで美しい……優劣をつけ競争する人間の癖は、いつになれば直るのでしょうか‥‥‥心の中のこの問いに対して、バングラデシュの若者たちの中に、私は希望的でポジティブな答えを見たような気がしました。

今回のバングラデシュの旅で印象に残ったのは、若者たちの愛国心でした。独立以前、ウルドゥー語の強制により母国語であるベンガル語を奪われていた歴史を持つ彼らは、ベンガルの自然を、歴史を熱心に語ります。
そして、私が出会った若者たちは、冒頭にあげた詩の作者であるバウル‥‥ラロン・フォキールを愛する人々でしたが、その中でも、今、若者たちの間で絶対人気のバンドの女性歌手アヌーシェは、「ラロンは私たちの世代の新しいアイデンティティよ。」と熱っぽく語ってくれました。
ラロン・フォキール(1774〜1813?)は、イスラム教の偏向や、正統派ヒンドゥーを徹底的に批判し、宗教、宗派、カーストを認めず、「愛の道」を歩むバウル修行者でした。
絶えず、不安定な政治的情勢を経験してきたバングラデシュの若者たちは、どの政治的党派にも、どの宗教宗派にも期待せず、一人のバウルの残した二千篇とも言われる唄の中に、自分達の未来を導く哲学と教えを見出そうとしているように見えました。「愛」を知るものなら「愛」のあり方を学び、宇宙的規模の愛の獲得を目指す若者たちが存在するということは素晴らしいことではありませんか。
「お前が居るところに、その人も居るんだよ」
「それは、お前のその姿と同じ姿をしているのだよ」
ラロンは、何度も何度も、”自分自身が何であるか知ることが出来れば、「その人」──「神」──を、「宇宙」を知ることが出来るのだ”と繰り返し伝え続けたのでした。
※フォキール
ヒンドゥー教系のバウルの道の修行者をバウル、イスラム教系の修行者をフォキールと呼びます。
