バウルの便り

第12回

「外」から見た日本

バウルの唄

「本物の愛という宝を、誰もが手に入れることが出来るかい?
もし、それを見分けることができなければ……。

バザールは、とんでもない状態だ
「本物」だと言って「偽物」を売る

その目で、まだ、「金(きん)」というものを見たことがない者
ただ、耳で聞いたことがあるだけだ
だから、「金」を見ても、分かりやしない
「銀の色に目がくらんでしまうのさ。

 3月12日、あちこちから電話が入る。「日本のご自宅のほうは大丈夫ですか?」「日本のご家族の方はご無事でしょうか?」
 テレビも無ければ新聞も取っていない……そんなアシュラム生活をしている私が、今回の東日本大地震と津波のことを知ったのは、ニュースを見た村人からの知らせを受けたからでした。
 そしてその夜、突然、あるテレビ局からニュース番組の電話インタビューに出てほしいと依頼がありました。「ベンガルにいる私には何の情報もなく、日本で一体何が起こっているのかわからないというのにインタビューで何を答えるのだ。」……と思っている暇もなく、次に鳴った電話に出たら番組の真っ最中、ニュースを報じるけたたましい女性アナウンサーの声でした。ニュースを読むそのままの口調で質問されながら、1分ほどがあっけなく終わりました。
 ここ何年かのインドのメディアの発展は凄まじく「象の歩み」のインドはどこへ行ってしまったのかと思わせるほどなのですが、次の日には、すでに、朝からテレビ局や新聞社が取材に来ていました。「今の心境を聞かせてほしい」と。
 インドのメディアの発達がいくら急速に進んでいるとはいえ、これは何か大変なことが起こっている。これはただの地震や津波ではない……とその時改めて感じました。

 そして、次の反応……ベンガルの田舎の素朴な人々の次の反応は、「どうして?」……でした。

 自然災害に対して人間は何もできません。それは、自然の前では人間が無力であるというより、人間も自然の一部であるということだと思います。けれども、人間が自然に対立するかたちで、人間の「傲慢さ」と「欲」によって起こった災害というのは、たとえ原因が地震であろうと津波であろうと「人災」と言えるでしょう。今起こっている「原発」の事故がそうです。なぜなら、ひとたび事故があれば地球全体を危険にさらすようなものを人間が計画し、人間が造り、「安全」イメージと甘言、巧言で無理やり設置し、結局、地震に対処出来ずに事故を起こしてしまったからです。
放射線の被害のことについては、日本人は誰よりもよく知っているはずです。ベンガルの人も、「放射能の被害は二度とごめんだ。」という気持ちを、世界のどこの国よりも強く持っているのが日本人だと思っているのです。それは、実際にそうでしょう。すべての日本人がそう思っているはずなのです。でも、にもかかわらず……です。

 だから、「どうして?」という疑問がベンガル人に起こるのです。

 殆どの人が私に聞きます。
「あんなに危ないものが、日本のような小さい国に54基もどうしてあるの?」 そして、「日本のような地震の多い国に、どうして?」……と。

 私がベンガルに住みだした20年ほど前のこと、日本人である私に、殆どの人が真っ先にする質問は、「ヒロシマ、ナガサキは今どうなっているの?」という質問でした。そして、その質問をする人々の心の底に流れているのは、「戦争も、核兵器もあってはいけない」という思いであったはずです。そして、「原発」は、その核兵器と同じ原理の核分裂を利用していて、事故が起これば、とてつもない放射線による被害を及ぼす危険を孕んでいるので、当然「なぜ?」「どうして?」という疑問が発せられるのです。

 ベンガルの田舎の人々にとって、日本はまだ、「アジアの星」であり、「美しく、素晴らしい国」です。自然は絵に描いたように美しく、人々は誠実で勤勉……。そんな風に日本を見る素朴な人々の「なぜ?」という質問に、私は答えるのが恥ずかしくなります。

 去年8月、6年ぶりに日本に帰国しました。前回の帰国も5年ぶりだったので、私にとって、「日本」と接するのはこの10年あまり無かったも同然でした。
 厳しいベンガルの自然に比べ、あまりにも静かな日本の景色。絵のように動かず、無言で存在しているように見えます。山々、そして数少なくなりましたが、紅葉した雑木の里山は、まるでお伽の国であるかのような色合いを見せ、あたたかく手を差し伸べる母の懐のように思えました。
 あの日本が、汚染されていく、海と海に生きる命、土と土に生きる命、空気が、川が、水が……、そしてそれは地球を廻る。もはや日本は、原爆を投下された国ではなく、放射能を世界に向けて垂れ流している国になってしまったのです。

「何が大切なのか」ということを考えることを、長い間、日本人は忘れていたのではないでしょうか?
 様々な命の住む土の、生き生きしたでこぼこの土地を、機械で均して平らにしコンクリートで固めるように、テレビや新聞によって均質化された人々は、このとてつもない「爆弾」を持たされていることにも気付かなかったのですから……。「安全です。安全です。」という「大本営発表」を聞き続けてきたのです。

バウルの唄 

  バザールは、とんでもない状態だ
  「本物」だと言って「偽物」を売る

  偉大なる賢者たちは、とても大切に、
  何層もの「金」を陳列する
  でも、誰として見向きもしない
  心はすっかり「偽物」に魅了されているよ。

  ラダシャーム・ダスは言う
  誠実な宝石商の恩恵が無ければ……と
  ぼんやりしか見えない眼では、わかりはしない
  「金」だと思って「銅」を買うのさ

 どうやら、「偽物」のほうが、よく見えるようにできているようです。だとすれば、真実を知るのはとても大変です。
 そして人間一人ひとりもまたそうです。
 時代は変わりつつあります。「きれいごと」や「口先だけ」は、もはや「宇宙」が求めていないのだと私は思います。本当の意味での「誠実さ」が求められているのです。

 まず、自分自身から始めましょう。自分を見つめましょう。自分の「内」と「外」が一つであるように努めたいです。自分自身の中に「大いなる源」は存在するのです。それは必ず私たちを「在りのまま」の場所に導いてくれるでしょう。そうすれば「何が大切なのか」を知ることになるでしょう。

「私」が、「私のため」ではなく、「あなたのため」に祈れることができますように……。
「欲」が「欲」を生み、競争と収奪によってばらばらになった社会から、「愛」が「愛」を生み繋がっていく社会になるように、まず、自分自身から見つめなおすことが大切なのではないでしょうか。何か特別なことをしなければいけないと強迫観念にとらわれることはありません。身の回りに出来ることはたくさんあります。そこから始めれば、するべきことは自ずと現れるでしょう。

 少し自分が動き出すと、周りのなにもかもが動き出すものです。人というのは、人と人との関係の中で、それぞれの行為により種をまき、実を刈り取ります。それぞれの想いが場をつくり人を引き寄せれば、「縁」というものが、新たな行為を生む機会を提供し、その実を受け取る環境を与えられることとなるでしょう。

 数日前の夕方、こんなメッセージが、親しくしている修行者のニレシュワラナンダさんから届きました。

 If you take care of nature、it will surely take care of us.

追記
 長い間、執筆が中断していたことを、この場を借りてお詫びいたします。そして、昨年の日本ツアーを手伝ってくださった方々、また、バウルの唄を聴きに来ていただいた方々にも心から感謝申し上げたいと思います。
 あたたかく、あたたかく、様々な人々に迎え入れられ、本当に感謝の気持ちいっぱいでベンガルに戻ってきました。
 20年前に会った人も、15年前の知人も、アシュラムに訪ねてきてくれた人々とも、すべての人と、同じで、同じで出会えたことは、私にとって最高の贈り物でありました。
 そして、新しい出会いはまた、「在りのまま」の空間を共有できる場の広がりにつながっていくことを、心から祈っております。

コラムニスト
かずみ まき
1959年大阪に生まれる。1991年、日本でバウルの公演を見て衝撃を受け3ヵ月後に渡印。その後、師のもとで西ベンガルで生活を送り現在に至る。1992年、タゴール大学の祭りで外国人であることを理由に開催者側の委員長から唄をうたう事を拒否されるが、それを契機として新聞紙上で賛否両論が巻き起こる。しかし、もともとカーストや宗教宗派による人間の差別、対立を認めないバウルに外国人だからなれないというのは開催者側の誤りであるという意見が圧倒的大多数を占め、以後多くの人々に支援されベンガルの村々を巡り唄をうたう。現在は演奏活動を控えひっそりとアシュラム暮らしをしている。
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