▲花枝 映画「温故1942」より
みなさま、拙訳『人間の条件1942』(集広舎)について、評論家の三浦小太郎氏が二編お寄せ下さいました。(劉燕子)
『人間の条件1942』の書評
◀作者の劉震雲と監督
本書は、一九九三年に出版された中国の作家劉雲のルポルタージュ文学「人間の条件1942」と、同作品を二〇一二年に映画化した際のシナリオで構成されている。
小説は、一九四二年河南地方で起きた三〇〇万人の餓死と、同数に及ぶ飢餓難民の発生を、当時を知る人々を取材していく過程が書かれている。その中で最も印象に残るのは「飢え死にかい?そんな年はたくさんありすぎるんでね。いったいどの年のことをいっているんだい?」という老婆の、大躍進時代の数千万の餓死を示唆する言葉である。
一九四二年の餓死の原因には干ばつや蝗害だった。しかし蒋介石は事態を知っていたにもかかわらず、アメリカ人記者ホワイトの直訴と、彼の記事が「タイム」に掲載されるまでは手を打たなかった。蒋介石にとって、国際情勢や外交は重要であっても、民衆の餓死はさしたる問題ではなかった。国際的な批判を恐れて蒋介石は支援を始めるが、それは形ばかりのもので、しかも支援を横領する地方幹部が続出した。
著者は民衆を単なる被害者としては描いていない。彼らは飢餓の中でモラルを失い、人身売買が常態化し、親が子供を食うまでに至ってゆく。著者は「誰ひとり蜂起せず、ただ身内のあいだで共食いする民族には、いかなる希望も見いだせない。」と、蒋介石の専制権力を支えていたのは実は奴隷的民衆だったことを暴いてゆく。
◀ミーガン神父と安西満宣教師 映画『温故1942』より
飢餓を救ったのは、海外からの支援物資と、献身的に現場で活動した宣教師たち、そしてなんと河南の被災地区に進駐してきた日本軍の支給した軍糧食料だった。命を救われた彼らは日本軍に協力し、中国軍の武装解除まで行った。この時、日本軍の力を借りたとはいえ、彼らは奴隷的状態から脱却していたはずである。
本書あとがきによれば、本作は様々な制約下で映画化された。シナリオに散見する日本軍の残虐行為などは、その為のアリバイとして無視すればいい。一切の綺麗ごとなく飢餓難民の実態が地獄めぐりの悲喜劇のように描かれ、まるで黙示録の訪れのように戦場のシーンが登場するあたりの映画的カタルシスは、シナリオだけでも充分伝わる。
私が最も共感した登場人物は、難民となった旧地主と中国人宣教師だ。当初は特権階層だった二人は、絶望的な状況の中、逆に人間として成長していく。宣教師は教会の偽善性を悟って狂気に至り、地主はすべてを失った後、一人の少女に出会い希望を見出すのだが、一方は悲劇、他方は希望に見えて、共に正面から状況に立ち向かった人間の姿として深い感動を呼ぶ。冒頭に紹介した老婆の言葉がいかに効果的にこの映画の最後のナレーションとして使われているかは、ぜひ本書を直接当たられたい。
三浦小太郎(『正論』3月号掲載)
▲二胡をひく瞎鹿 映画『温故1942』より
▲手製の十字架を掲げる安西満 映画『温故1942』より
『人間の条件1942』を日本側の資料と比較考察し、史実として検証した拙論について
河南の飢餓難民を救った日本軍
「仮に私が河南の農夫だったら、
祖国中国の軍隊を破ろうとする日本軍に手を貸しただろう」
2016年03月06日
「人間の条件1942」(集広舎)について、翻訳者の劉燕子氏による、精緻でかつ深い論考を一部紹介します。全体は集広舎Webで読むことができますが、ぜひこの引用部分だけでも皆様に読んでいただきたく、ここに紹介させていただきました。余計な解説はつけませんので、まず、ご一読くださり、続いて集広舎Webで全文(「人間の条件1942(温故一九四二)」を読むために)を読んでくだされば幸いです。このような公正な視点と、民衆への深い愛情を持つ知識人がいること、それが中国の希望だと思います。
(前略)「人間の条件1942」では外国人の救援活動について述べている。特に、ホワイトが蒋介石に悲惨な写真を突きつけて動かしたことが転換点となった。ところが腐敗した政府は様々な名目で義援金や救援物資を搾取し、難民に届くのはごくわずかであった。
それでも、神父や宣教師が炊き出しや孤児の保護を行うが、それはまさに「焼け石に水」であった。神父は「人間らしく死なせてやりたかった」と言うしかなかった〔小説の第六章〕。ただし、絶望的な状況においても人間性を保とうとする努力は極めて極めて尊い。しかし、事態は打開されず、大飢饉はいつまでも続くかのようであった。
その時、日本軍が「河南の被災地区に入り、わがふる里の人々の命を救った」〔小説の第七章〕。軍糧放出による難民救援である。
ここで見過ごしてはならないのは、日本軍は軍糧に余裕があったわけではなかったことである。今吉は、戦闘が続き、携帯した二日分の米は食べ尽くしても、「歩兵の快進撃」に補給は「ついてこられず心細い限り」で、残された二日分の乾パンをお粥にして「飢餓をしのいだ」と記している〔前掲「河南作戦 洛陽攻略」三頁〕。ここから、自軍の補給をある程度は遅らせ、最前線の兵隊に忍耐させても、被災民への配給を行ったことがうかがえる。(中略)
何故、共産党は難民を救援しなかったという問題が出てくる。官製の「抗日」の歴史認識では、中国共産党は日本軍に抗して民衆を守ったはずであり、この大飢饉において救援したのであれば、まさに大々的に宣伝できるが、それはない。史実は日本軍の軍糧放出しかない。(中略)
確かに「人間の条件1942」で述べられているように、日本軍は「大量殺戮を犯した侵略者」であり、「日本が軍糧を放出した動機は断じて良くなかった。それは良心からではなく、戦略的な意図、政治的な陰謀があった」という側面もあった〔日本語訳、一一三頁〕。ただし、その日本軍が「たくさんの軍糧を放出」し、「われわれは皇軍の軍糧を食べて命をとりとめ、元気を取りもどし」、「多くの人命を救った」とも述べられている。また、中国側(共産党も含む)の救援は最後まで書かれず、先に引用したとおり「誰からも可愛いがられず、愛されず、かまってもらえ」ずに生死の境をさまよう民衆が、このような国よりも、生きるために日本を「選択」したことを「結論」として提出している。
軍事行動であるからには、難民救援でも「陰謀」があるという点は否めないが、これを理由に全否定することは一面的である。劉震雲は「われわれの政府(中国政府)は、われわれ被災者にたいして戦略的な意図や政治的な陰謀はなかったか?」と問うている〔小説の第七章〕。
しかも、難民救援はこれに限らない。これ以前、日本軍は上海戦ではフランス側の避難民区(上海・南市)に協力し、南京戦でも独自に避難民区(ラーベたちの国際安全区とは別)を設け〔南京陥落直後の一九三七年一二月二五日付「大阪朝日」では「わが軍衛生班の診療=避難民区にて」の写真とともに「平和の光を讃えて支那人教会から漏れてくる賛美歌=寧海路にて」の写真も掲載されている。上海の難民救援についても、一九三七年一一月一四日付「東京朝日新聞」等で報道されている。この時点は戦況悪化の前で、情報統制もそれほど厳しくなく、日本のプロパガンダと全否定すべきではない〕、先述した黄河決壊でも被災民を救助した。つまり難民救援は河南作戦だけではないのである。
そして「人間の条件1942」の小説ではアメリカ人やイタリア人の神父の救援活動しか述べられていないが、脚本ではクリスチャンの茅野中佐も登場している(先述)。この神父と日本軍人の組み合わせは、上海・南市の避難民区においてなされた史実がある〔フランス人のジャキノ神父。彼と日本との関係はラーベの日記でも記されている。平野卿子訳『南京の真実』講談社、一九九七年、七七~七八頁〕。
従って、映画版は極めて重要であり、これを踏まえて小説を熟読玩味し、映画をじっくりと鑑賞すれば、やはり歴史が多面的重層的に奥深く描かれていることが分かる。(六)軍紀の徹底──難民救援の基盤
難民救援が「陰謀」だけではないのは、河南作戦では軍紀が徹底されていたところからも説明できる。これは難民救援の基盤となっていたと捉えられる。
『河南の会戦』「あとがき」では、結論の六番目に「本作戦の前後を通じ、軍の上下をあげての対民衆軍紀確立の努力と成果は、著しいものがあった。/今次作戦の開始にあたり、方面軍司令官岡村大将は、『本作戦間、絶対に三悪の追放(焼くな、犯すな、殺すな)』を要望し、特にその徹底に努めた」と述べられている〔前掲『河南の会戦』六二〇~六二一頁〕。岡村が司令官着任時に“滅共愛民”の理念から三悪追放の“三戒”順守の訓示をしたことはよく知られている。また「岡村寧次大将陣中感想録」では「倒蒋愛民」と記されている〔「岡村寧次大将陣中感想録」厚生省引揚援護局、一九五四年六月、一頁。この表紙右上に「一切転載並公表を禁ず/特別資料/戦史資料其の三」と印刷され、右下に平成十年九月二六日、原四郎氏、寄贈と記されている〕。
その中の「焼くな」について言えば、それ以上に、日本軍は史蹟などの保存に努めた。即ち、戦闘中でも、中嶽廟の保護保全〔『河南の会戦』三三七頁〕や洛陽の史蹟、古蹟の保全〔同前、四九一頁、五〇三頁〕に努めた。
これらは、岡村大将が、昭和十六年七月着任以来「方面軍の基本任務である占拠地域の安定確保、特に対共治安の維持向上に、大きな関心を寄せていた」〔同前、七四頁。及び『蟻の兵隊』(二〇〇六年七月二十日発行、同名の映画上映に合わせて作成されたパンフレット)十二頁。奥村和一、酒井誠『私は「蟻の兵隊」だった-中国に残された日本兵-』岩波ジュニア新書、二〇〇六年、池谷薰『蟻の兵隊-日本兵二六〇〇人山西省残留の真相-』新潮文庫、二〇一〇年など参照〕という記述を裏付ける具体的な根拠となる。それ故、難民救援は単に作戦のためだけはないと言える(中略)(七)日本軍に「協力」した河南の民衆
小説でも脚本版でも、日本軍が来る前に、飢えた民衆が地主を襲撃したことが描かれている〔小説では第二章や第四章、脚本では第八場以降〕。これは、生きるために日本軍を「選択」したことの伏線として読め、また観ることができる。
そして、小説「人間の条件1942」の結びに向かうところでは、「資料」からの引用として「すべての農村において武装暴動が起きている」と述べられている〔小説の第七章〕。
ただし、民衆の日本軍「協力」は、具体的には描かれていない。そこで、日本側の資料を取りあげると、次の記録がある。
五月二三日発信の方面軍参謀長(「コ」参二電第一四七号)の電報報告では、次のように記されている〔前掲『河南の会戦』五〇〇頁〕。「現地住民の我が方に対する態度は目下の所協力的にして特に鉄道建設に積極的に協力し又各地に於る治安維持会も我が占領後迅速に結成せられ治安の回復を見つつ在りて未だ敵の後方攪乱等の認むべき事例なし」
さらに、二四日、洛陽東站付近のトーチカ軍陣地では、次のような状況であった〔『河南の会戦』五〇八-五〇九頁〕。
「俘虜として重慶軍幹部以下一,〇〇〇余名と兵器、弾薬、器材など多数、特に糧秣数万俵を鹵獲した。この方面では白米や食塩を陣地の胸墻や障害物に利用していたようであった。福永中佐は、大隊に相当の損害、減耗を生じている状況にかんがみ一小隊を残置してその警戒にあたらせ、俘虜、鹵獲品の整理一切は俘虜の司令を信頼して行わせた。またかれらに中国人浴場まで開放使用させたところ、自発的に隠匿の兵器、弾薬、物資を発掘して供出し、逃亡者を見ないばかりか、さきに逃亡した者まで帰来集結するという好結果を生じた。」
その上、戦闘が一時的に終息すると、次のような状況となった〔『河南の会戦』六一八頁〕。
「師団は七月上旬警備態勢に移行するや、陣地構築とともに厳正な対民衆軍紀のもと、昼夜を分かたぬ地区内の粛正討伐およびわが無徴軍政を実施した。また強力な帰来民衆工作の展開により、八月中旬にはその大部分が帰来し生業は次第に復旧した。かくて『兵団軍政施策要綱』に基づく治安維持会の設立、郷村自衛団の設置整訓などの諸施策は順調に進展し、地方遊撃隊は次第に接敵地区に撃退され、民衆は日本軍を信頼し、その協力と相まって管内の治安は急速に回復するに至った。」
また、ホワイトは次のように述べている〔セオドア・ホワイト/堀たお子訳『歴史の探求──個人的冒険の回想』上下、サイマル出版会、一九八一年、上巻二〇一頁。これは前掲『一九四二 河南大飢荒』三五頁で引用されており、これを考慮し日本語訳は一部変えている。また、ホワイトの記録の評価に関しては、ソ連の派遣したウラジミロフが、一九四四年初にホワイトが延安を訪れて『ライフ』に寄稿した記事を「私が手に入れることのできた外国人記者の延安ルポのうち、もっとも示唆に富んだ文章である」と述べたことは重要である(ピョートル・ウラジミロフ/高橋正訳『延安日記』上下、サイマル出版会、一九七三年、引用は上巻、三一七頁の二月七日の日記)。『歴史の探求』では第二部第五章で延安について述べられている〕。
「仮に私が河南の農夫だったら、あれから一年後の河南の農民と同じように、祖国中国の軍隊を破ろうとする日本軍に手を貸しただろう。あるいは、一九四八年の河南農民のように、征服しつつある共産党側に寝返っただろう。中国共産党がどれほど残酷になれるか、私は知っている。だが、河南の飢饉ほど残酷なものはない。また、共産主義思想と、それを理念とした政府が、どんな種類のものであれ、仁政を施せば、私を育んでくれた慈悲や自由と衝突することなどない。」
ホワイトは中国側の立場で、日本には反対であり、黄河決壊事件については日本軍の侵略を理由に挙げている〔同前『歴史の探求』上巻、一九七頁〕。このようなホワイトでさえ、自分が「河南の農民だったら(略)日本軍に手を貸しただろう」という記しているのである。(以下略)
実は先日、ある配給会社の方に、この映画の日本上映ができないだろうかと相談したのですが、やはり難しいとのこと。何よりも、今の中国の大作映画はかなりの値段が付き、よほどの資金がないと日本上映は難しいらしい。中国版「クロッシング」(北朝鮮難民を描いた韓国の名作映画)と思うのですが残念。誰か映画関係の方、考えていただけないだろうか。
三浦小太郎
▲パーティ会場のホワイト 映画『温故1942』より
▲一粒で飢えを凌げるという救荒丸薬 映画『温故1942』より
このように評してくださった三浦氏は『渡辺京二』 (言視舎 評伝選) を公刊されました。重厚なテーマを明快に論じています。その観点は、上記2編と共通します。三浦氏が深くかつ鋭い思索をもって書評を書かれたことが分かります。(劉燕子)