ベルリンの壁が崩壊し、天安門事件のあった1989年。それは昭和天皇が崩御され、平成が始まった年だった。

わたしが大学を卒業した年でもある。

今から30年前、日経平均株価は3万8915円のピークをつけた。今はまだその6割足らずである。

大学を卒業したわたしは、とある財団の奨学金を得て、フランスに留学した。太い眉、真っ赤な口紅にソバージュ髪。小さなマッキントッシュSEが道連れだった。

1991年の仏書『日本が世界を買う』──欧米の「日本ブーム」は1980年代から10年以上続いた

1991年の仏書『日本が世界を買う』──欧米の「日本ブーム」は1980年代から10年以上続いた(画像をクリックするとAmazonへ移動します)

日本のバブルパワーはすでにフランスまで届いていた。銀行、生保、ゼネコンが黄金の三角地帯と呼ばれるパリの一等地のビルを買い占めていた。1991年には『日本人が世界を買う』という本が当地で刊行されて話題を呼んだ。

パリに来た日本人の若者はわたし一人ではなかった。女性雇用機会均等法の施行から2年。生保に総合職として入社した高校時代の女友達は、入社からわずか2年ほどで海外駐在員に抜擢されてパリに赴任してきた。彼女の独身上司の高級マンションには20代や30代の保険会社の日本人若手駐在員が集って、夜な夜などんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。よくわたしも数合わせに呼ばれた。

銀行に就職した大学の同窓生も続々と駐在員や留学生としてパリにやってきた。空前の円高、海外旅行ブームのなか、ゴールデンウィークや夏休みには親戚知人友人が忙しくパリを訪れた。

フランス社会の日本への関心もきわめて高かった。アニメや漫画ではない。エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』に描かれたような日本の社会システムそのものが憧憬の対象だった。日本に対する関心や評価の高さはわたしのフランス生活にもずいぶん役立った。

「パリに住む自分」を自尊心の砦にする日本人の心の病を描いた『パリ症候群』も1991年刊行。最近は中国人留学生がこうした病にかかるという

「パリに住む自分」を自尊心の砦にする日本人の心の病を描いた『パリ症候群』も1991年刊行。最近は中国人留学生がこうした病にかかるという

邦銀が世界の時価総額トップを独占!

わたしが通ったフランスの学校には当時すでに学生のインターン制度があった。マスコミ業界か金融業界か迷った末、わたしは日本興業銀行の証券現地法人である「パリ興銀」でインターンとして働くことになった。

信じられないことだが、当時、世界の時価総額ランキングのトップ5を邦銀が独占していた。そのなかでも数ある都市銀行を抑えて世界一だったのが「日本興業銀行(IBJ)」だった。

日本興業銀行は少数精鋭でいわゆるドブ板営業のない上品な行風で知られており、行員の毛並みの良さも際立っていた。欧州での展開は邦銀勢の先端を切っていた。

「僕たちが目指しているビジネスモデルはね、JPモルガンやパリバみたいな投資銀行なんです」——弱冠30代半ばのその証券現法のトップは鼻の穴を膨らませながらわたしに熱弁した。20人ほどのこじんまりとしたその会社は驚くほど平均年齢が若かった。日本人もフランス人も皆30歳前後だっただろうか。楽しい職場だった。「投資銀行」という言葉がキラキラ輝いて眩しかった。

「明子さん。たとえアルバイトでも、できれば現地法人じゃなくて、支店の方がいいよ。日本社会では現法より支店の方が格上だから。最初の仕事はのちの履歴書に響きますから」——保守的な友人にはそんなアドバイスをくれる人もいた。だがわたしには、格式ばった「支店」より「証券現法」の方がイケてるように感じられた。

そう。バブル時代は、万事「イケてる」「イケてない」の区分が重んじられた。

都市生活者を学歴、所属企業、家柄、住む場所、着る服、通う店で「マルビ(=貧乏な人)」「マルキン(=金持ちな人)」に分類してヘタウマの絵で表現し、アカデミックな解説をちりばめた『金魂巻』という本がベストセラーとなったのは1984年。高校生のわたしはそれを熟読していた。

バブル的二分法の世界では、あらゆる泥臭いこと、田舎臭いこと、貧乏くさいこと、一生懸命なこと、政治的なこと、そして、深く思考すること、ロジカルなことはダサいのだった。

いまから思えば、当時の「マルビ」と「マルキン」の格差は今日の階層格差のような深刻な分断とはまるでちがっていた。だからこそ、そんな二分法がゲーム感覚で流行ったのだ。たとえば、文系は「ネアカ」、理系は「ネクラ」。「ジャズダンス」はイケているが、「ヨガ」はイケていない。バブル時代は田中康夫や泉麻人などによる感覚的で軽妙な『考現学』と呼ばれるジャンルが隆盛を極めていた。

思い返せば、わたしはそんな日本の空気が嫌いでパリに逃げたのだろう。だが、嫌いだということはそこからまったく自由でなかったということでもある。

そしてバブルは終わった

刊行から30年以上を経た今、『金魂巻』の内容はすっかり世間で忘れ去られている。読み返すのはバブル時代の研究者や好事家だけ。当時バイブル代わりに読みふけった若者も、どんな内容だったか思い出せないだろう。

1984年刊行。35年前の「マルキン」の生活ぶりはまさにバブリーそのもの

1984年刊行。35年前の「マルキン」の生活ぶりはまさにバブリーそのもの

最近、わたしは『金魂巻』に図書館で再会した。

借りてきて、黄ばんだページをめくってみた。だが、5ページほどでため息をついて本を閉じた。

横から覗きこんでいた高校生の息子が叫んだ——「お母さん、ホントにこんな本、好きだったの? 信じられない! 無意味! バブル時代ってクズ!」。

はい、クズね…。

バブルはやがて、ゆっくり、ゆっくりとしぼんでいった。

瞬間風速で世界を支配した邦銀は、90年代半ばになると不良債権の圧力に耐えかねて呻吟の声を上げるようになった。ジャパンプレミアムに野心を刈り取られて海外事業はジェットコースターのように急上昇から直滑降に転じた。国内でも非中核事業は二束三文で外資勢に売り払われた。三洋、山一、拓銀、日債銀、長銀が潰れ、ほかの金融機関も統合や合併が相次いだ。「和製JPモルガン」を目指していた日本興業銀行も他行と統合。パリ興銀は消滅した。

バブル以降、日本の金融機関の社内留学制度や駐在員の派遣の規模はぐっと小さくなり、その派遣先も欧米よりアジアが増えていった。

将来の幹部候補生の若者が企業に入ってからゆっくり異文化を学べるような悠長な時代は永遠に終わった。今日の企業にすでにハイスペックなスキルを持ち、異文化体験も豊富な「グローバル人材」だけを求めるようになっている。

パリで夜な夜なパーティーを繰り広げていたバブル時代の海外駐在員はその後の環境変化で幾多の苦渋を嘗めた。その多くはいま、先細りの日本市場で比較的地味な仕事をしながらキャリアの終盤を迎えている。

時代から逃れられる人はいない

「お母さん、人生やり直せるとしたらどうする?」

「うーん。数学とかプログラミングとか、もっと真面目に地道にやってたかな…。あと一度はアメリカで生活したかったな。それに中国語もできたらよかったね」

息子にそう言うや、わたしは自分の欺瞞に気づく。そんなの嘘だ。「後出しじゃんけん」に過ぎない。

数学、プログラミング、中国。それらが時代のキーワードになったのは、すべて21世紀になってからだ。

バブル時代の社会のリアリティは今とまるでちがうところにあった。それを思い出すには『金魂巻』を読み直せばいい。

良きにせよ、悪きにせよ、人は時代の空気という縦糸と個人の夢という横糸の交錯のなかにしか人生を紡ぐことができない。

時代の空気に順応するにせよ、抗うにせよ、恩恵を受けるにせよ、犠牲になるにせよ、1967年生まれのわたしがバブル時代のあの高揚した空気とその後の日本の長い停滞から自由であることはどうしたって不可能だった。

「投資銀行」、「パリ興銀」──わたしは久しぶりに小さくつぶやいてみた。その響きが自分のなかにもうどんな高揚感ももたらさないことに驚く。「ロワイヤル通り」、「ロチェスターホテル」、「北海道」「ひぐま」「京子」——懐かしいパリの馴染みの場所や店の名を次々につぶやいてみた。それでも心は平らなままだった。「ええと、あのパーティーにいたあの人。なんていう名前だっけ…」──さらに克明に辿ろうとして、途中で止めた。

そしていつもどおり、小さな台所で夕食の準備を始めた。