猫と楽器と本と人間

第11回

マレーシア音楽の可能性

ファズィール・アフマッド氏

▲マレーシア国立伝統音楽院で筆者の為に弦楽器ガンブース弾き語りで、叙情詩「ガザル」を歌ってくれる師匠、ファズィール・アフマッド氏。

チャンプールな魅力

 筆者がマレーシアの主都クアラ・ルンプール(KL)の二大音楽院に研修に赴いたのは、かれこれ20年前になる。が、驚くことに、新しい音楽に関してはこの20年大して変わっていないのだ。逆に、伝統音楽は、二大音楽院の存在があるにもかかわらず、かなり厳しいものがあると言わざるを得ない。
 マレーシアには、世界に類を見ない素晴らしい融合音楽があるにもかかわらず、マレーシア人自身がその価値に気付いていないようなのだ。隣国インドネシアの「クロンチョン音楽」と共に、何故に「ユネスコ無形文化遺産」に登録されていないのか疑問であるが、やはり現地の人間がその価値に気付かず、従って現代に活かすことがなければ、(遺跡などの文化遺産は、ほどよく手入れをして、余計な活用はしない方が良いのだろうけれど)継承された伝統とは認定し難いのだろうか。

 マレーシア(及び分離前のインドネシアを含む)は、古くは、古代インド仏教、後にヒンドゥー教の洗礼を受けた。「マレー」は、現地では「ムラーユ」(ムとメの中間の発音)だが、その語源はサンスクリット語と言われている。中世初期には、すでにアラブ貿易船が行き来しており、15世紀には、イスラム教がマラッカ王国の国教に制定される。ところが16世紀にはポルトガルの侵攻を受け植民地となり、17世紀には宗主国がオランダに取って代わった。18世紀には、インド亜大陸を手中に納めたイギリスが介在し、オランダと領有権を争う。19世紀には英蘭協定でオランダが領有権を継続する東部(マラッカ海峡からは西)がインドネシアとなり、西部(海峡からは東)はイギリス支配下となりマレーシアとなった。マラッカ・イスラム王朝は、16世紀に半島南部に逃れジョホール王朝を継続し、イギリス支配下を経て今日でもスルタンが存在する。
 更に、マラッカ海峡を行き来し、東南アジアの物産(主に香辛料)をアラブ、地中海に運んだアラブ貿易船には、アフリカ人船員も多かった。その後のポルトガル貿易船も同様であると共に、ポルトガルは、インドのゴア、スリランカのコロンボも貿易拠点として支配下に置いていた。マレー半島に程近いペナン島は有数の貿易港で、港の盛り場は、さぞかし人種のるつぼであったのだろう。マレーシア現地の伝承でもアラブ音楽、アフリカ音楽が演奏されていたと言い、その痕跡は充分過ぎる程、その融合音楽に残されている。

 このように幾重にも重ねられた異なる文化があるマレーシア及び隣国インドネシアであるが、時代の時間差があって重ねられた文化の多くは、新しいものに上書きされてしまいかねないが、このムラーユ二国に関しては、上書きされ見えなくなってしまう部分が少なく、言わば全てがまだら模様の様に存在し続けている。
 沖縄の有名な郷土料理に「チャンプルー」があるが、その語源の有力な説が、ムラーユ語の「チャンプール」であり、意味は「ごちゃ混ぜ」だ。正にムラーユ二国(以下便宜上「ムラーユ」とする)の文化は「チャンプール」であると言える。

異種交配の音楽には二種類在る

 今日では差別的であると言う人もいるのだろう「混血」という言葉だが、おかしな話、昔の方が差別的で、今では羨ましがられているのでは? と思う。これを喩えに持って来るのは若干語弊がないわけでもないが、確かに昔(高度経済成長期前から成長期初頭頃)は、特異なものに対する日本人の悪いクセで差別的に見られ、当人も、自分がどちらのテリトリーからも異端扱いされることを痛感したであろう。しかし、ムラーユの場合、全てが「チャンプール(交雑)」な状態なのだから、「混血(以下、人間に限らないので、失礼ながら交雑種とする)」が日陰者の土壌ではない。ところがマレーシアの場合、このせっかくの土壌が、華僑、印僑によって大分雰囲気が変わってしまったように思える。
 
 「交雑種」や「異種交配」という言葉には、実のところ確かな定義がないように思う。何故ならば、次の子孫を生むことが出来る同系統の種の「交雑・異種交配(ハイブリッドとも言う)」と、出来ない場合のものを明確に区別していないからである。生物学や生態学では、「遺伝的隔離」つまり、種の近さ遠さの様な話になってしまい、隔離の有無を区別する呼称がない様子だ。
 筆者は、民族音楽ライブスポットを20年の節目で閉店した後、邦楽修行などやり残した思いがあるものをがむしゃらにやったが、同時に、子どもの頃に止めさせられた昆虫飼育にも没頭した。なので、人工交配の「F1~F2……」などの呼称はお馴染みとなった。その感覚で言うと、「ハイブリッド」は、「遺伝的隔離」があり、「F2」以降を生み出せないものだけを指す認識でいる。実際、世界中の音楽に於いても、これは顕著に見られ、奇をてらった「ハイブリッド」は、後続を生み出せず、一代限りで飽きられて消えて行く。が、何らかの血統、即ちその基盤に伝統的なものを据えている場合、新たな異種的な要素を取り入れたとしても、F2以降の次世代を派生させることは大いにあると共に、その種自身も継承されていく。
 例えば、北米の黒人が作り出した「ブルース」という音楽は、西欧のマーチやスクエアーダンスなどの管楽と異種交配を為して「ジャズ」を生んだ。同時に、ブルース自体も継承される内に、ジャズとの再交配の「ジャンプ・ブルース」や「ブギウギ」などの派生を経由して「ロックンロール」が派生した。そして、「ロックンロール」は、東海岸の欧州民謡の継承音楽である「ヒルビリー」と交配し「ロカビリー」も生まれている。これらは、ブルースの「三つのコードの循環、12小節、微分音のブルーノート」の基本があればこその見事な「異種交配」ぶりである。
 ちなみにそもそも「ブルース」は、西アフリカ民族音楽と、北アフリカ経由のアラブ音楽の交配種であり、これにスペイン音楽が加わると、カリブ海のラテン音楽となる。 

 「ロックンロール」も後に、「ブルース」との再交配の後の「ハードロック」やクラッシックとの再交配の「プログレシヴロック」などを生んでいるが、未だ「日本のロックはコピーばかりで、オリジナルは全く駄目だ」と言われていた頃に、和太鼓を用いたりしたものは、F2を生み出さなかっただけでなく、それ自体も消えた。昨今流行の「コラボ」の類いは言うまでもない。それらの音楽を筆者は、「ハイブリッド」と呼んでいる。一見「良い所集め」で良さげに見せても後が続かない。そればかりか、本道本筋の伝統が掻き回されたり、汚されその価値を下げさせられた挙げ句、継続力を弱めることさえあることを大いに問題にしているのだ。

パ・ハルン師に宮廷楽器レバーブを習う

◀マレーシア二大音楽院のもうひとつ、石油会社が運営する音楽院で、パ・ハルン(ハルン父さんの愛称)師に宮廷楽器レバーブを習う。パ・ハルンは、間違いなく人間国宝的存在であるのに、休日を返上し学院に来てくれた。しかも、スクーターを自分で運転してだった。あのクレイジーなKLの交通ラッシュの中に消えて行く師匠の後ろ姿を見送りながら、他人の国ながら恨めしく悔しい想いに駆られた。

マレーシア民族音楽にはインドネシア音楽の様な活力が無い

 マレーシアとインドネシア、即ち、ムラーユ二国の伝統民族音楽で最も有名なものが「ガムラン音楽」だ。このガムランの起源については、意外にも諸説入り乱れ、確定していないと言う。宮廷ガムランとしての記述は、意外に遅く8世紀であるとか、9世紀であるとか、なんと近世の18世紀であるなど釈然としない。が、筆者は、その基本はかなり古いと思っている。
 しかし、その歴史の古さよりも注目すべきことは、近年になっても未だ、外国音楽の影響を直接受けずとも、受けたとしてもハイブリッドではなく、ムラーユ音楽が進化し続けている点だ。例えば、西ジャワの音楽は、小編成ガムランから様々な音楽が派生し、更には、伝統民謡にその根っこを持つ民衆音楽とも結びつき、印僑の音楽センスも拝借しながら、ダンドゥットなる新しい音楽さえも作り出した。バリ島のヒンドゥー・ガムランに至っては、20世紀後半になって、古いガムランを溶かし新しい調律で作り直したほどだ。1990年代に日本でもファンが多かった竹筒木琴大合奏にしても、現代の音楽家が復元し、アレンジしたものと言われる。
 マレーシアにも素晴らしい「交配音楽」が幾つもある。が、マレーシアでは、前述の様に、華僑印僑の存在の所為か、イスラムの「歌舞音曲好ましからず」の不文律の所為か、及び、地方(州)によってその好みや継承度が異なる為か、インドネシアの様な生命力を見せてくれないのだ。

 例えば、1990年代初頭に日本でも話題になったマレー人女性歌手のシーラ・マジッドなどは、完全な洋楽だ。近年のラヒム・マーロットは、デビュー当時はムラーユ民族音楽を取り入れて個性を売ったようだが、最近では洋楽に徹しているように思える。比較的新しいズィー・アヴィーは、ボルネオ島サラワク州出身であるが、欧米でも評価が高い異色女流歌手で、ボルネオ固有の民族楽器「サペ」(名称は古代インド楽器に源流がある)なども起用しているが、明らかに話題・イメージ作りであり、故郷の民族音楽を伝えたいという感じではない。そもそも「サペ」は、襖一枚隔てた隣部屋ではもう聴こえないほどの音量の楽器で、それをエレクトリックで聴かせたところで、何が伝わるのか? というものだ。
 そもそもマレーシアのみならず、インドネシア、タイ、フィリピンの近年のポピュラーミュージックは、韓国も同様だが、皆J-Popの物真似と言うが、(J-Pop自体、1990年代のアジアンPopsに触発され方向性が定まったとも言えるのだが) 完全なる洋楽なのだが、その根っこにブルースもラテンも西洋クラッシックも感じない。即ち、欧米のポピュラーミュージックにはない個性がもてはやされているに過ぎない。それは正に日本の歌謡曲のカラーだ。不思議なことに、日本の歌謡曲には、上記した欧米ポップスには見られる根っこが感じられない。つまり、三味線音楽や民謡を感じない。さりとて西洋音楽でもない。恐らくは、大正昭和初期に創り出された明るい「四七抜き調」の唱歌童謡と平行して生まれた、言わば短調版の「大正演歌」などから発し、植民化していた中国、満州などで育まれた基本があるのだろう。故に、アジアに於いての評判も上々で当然であるし、アジアンポップスとも相性が良いはずだ。

期待の伝統的だが新しい音楽

 では、マレーシアのどの様な音楽であったなら、子孫も派生も残せる上にそれ自体も進化しながら継承され得る音楽であるのか? 
 その条件は、伝統的であること、既にチャンプール音楽であること、新しい要素を取り込んでもブレない大きな懐があること、今の時代先の時代の心情を歌い込む詩を付けることが出来ること、などであるが、その為には、確固たる論理的構造を持ってなければならない。実は、マレーシアには見事なそれがある。それは「アラブ叙情詩」をムラーユ化させた「ガザル」だ。
 ムラーユ・ガザル(ガザル・ムラーユ)は、インドネシアにもあり、その伴奏の主力にアラブ弦楽器「ウード」を古名「ガンブース」として用いることから、ジャンル名を「ガンブース」と呼んだり、「ガンブース」というジャンルには、別なアラブ詩「カスィーダ系」も含ませるという解釈もある。
 アンサンブルは、「ガンブース」の他に、印僑が持ち込んだ胡座演奏用に足踏みを取り外したオルガンの「ハルモニウム」、マレーシア人が大好きなタンバリンとギター、そして、インド音楽の有名な太鼓「タブラー」などである。もうこれだけでもかなりの「チャンプール」なのだが、クロンチョン音楽の主力であった「ヴァイオリン」を加えることもあれば、フルートも可能だろう。
 一昔二昔前のガザル・ムラーユは、アフガニスタン北部のガザルやトルコの器楽独奏タクスィームを上回るほどの緩急自在であった。もうほとんど失速しそうなほどオフビートになって朗々と歌い、再び楽団がビートを刻みながら次の展開が入るところは外国人にも興奮を覚えさせるだろう。が、その流れはよほど惚れ込んで聴き慣れないと把握しづらいものがあった。ところが、最近では、1980年代のアフガニスタン同様に、基本ビートが一定になって凄く聴き易くなっている。

 もうひとつのジャンルが、「ジョゲッ」だ。ジョゲッは、マラッカ海峡のペナン島などの貿易港で、前述の人種のるつぼの中で生まれた。その基本は、アフリカ系のビートで、四分の三と八分の六が交錯するヘミオラ・リズムで、八分の三から2ビートも抽出出来るため、かなりのポリ・リズム感が味わえる。マラッカでは、「チャクンチャク」と呼ばれる郷土芸能だ。
 基本的には男女ペアの舞踊音楽なのだが、複数の男女でも踊られ、恐らく今でも毎晩ジョゲッを見せたり、観光客も引き入れて盛り上がるバイキングレストランがあるはずだ。 
 ジョゲッは、その他の論理的な構造はなく、「ガザル」同様の二行連句だが、「ガザル」のような「テーマ」と「展開部」の二重構造さえもなく、もっぱら「テーマ」の部分を変えて歌われる。この単調さが、実に柔軟であるとともに、あらゆるジャンルを巻き込む可能性がある。逆に、飽きられたらおしまいだが。
 アンサンブルには特に決まりがなく、マレーシア人お好みのギター弾き語りとタンバリンだけでも成り立つのだ。ただ理想を言えば(必須かも知れない)、直径60cm程の枠太鼓「レバナ」があるとよい。
 このジョゲッの音楽にも、アラブ系の弦楽器「ガンブース」を導入することがあったが、それを現代にも活かしヒット曲も出しているのが筆者の「ガンブース」の師匠ファズィール・アフマッド師だ。今でもYou Tubeでも幾つも観ることが出来る。
 
 「ガザル」も「ジョゲッ」も、芯がしっかりした音楽なので、様々なものを取り込むことが可能であるし、歌詞をどんどん新しくすることが出来る。トラッドな編成でもアラブ、ムラーユ、インド、アフリカがチャンプールになっているのも色々一度に楽しめて嬉しい。
 ところが、この「色々一度に」というのが、どうも日本人には向かないようで、「あれもこれも、総花的で良くない」と決めつける。日本の民族紹介の第一人者の教授や音楽雑誌編集長(いずれも故人となったが)も、「マレーシアは様々な音楽の寄せ集めで個性が無い」と本末転倒なことをおっしゃった。
 「ハイブリッド」が後が続かず、ヒステリックに新しいものを追い掛けるだけである、ということを言う以前に、所詮は若者層の音楽なのだ。この「ガザル」や「ジョゲッ」のような老若男女が楽しめる音楽で、若者の心情を歌ったら良かろうにと思う。世代を超えて聴いてもらえるに違いない。(だと意味がないと思うのかも知れないが)
 そして、「ガザル」と「ジョゲッ」のもうひとつの、しかも最も価値のある魅力は、これらから新たな音楽が生み出される可能性以上に、これらから、その源流の音楽、アラブ詩「カスィーダ」や、アラブ音楽、そしてアフリカ音楽やポルトガルの田舎の民謡、インド・ゴアの音楽や、スリランカ・コロンボのバイア音楽などを手繰って行けることだ。「温故知新」とか「懐古主義」ではなく、「ルーツ探訪」だ。

コラムニスト
若林 忠宏
1956年、文学座俳優(当時、後に演出家)の父、ピアノ教師の母の下、東京に生まれる。1971年、中学二、三年の頃に、世界の民族音楽と出逢い。翌年、日本初の民族音楽プロミュージシャンとしてデヴューする。十代後半は、推理小説家としてデヴュー前の島田荘司氏のロックバンドにインド楽器で加入。テクノバンドとしてプロデヴュー前のヒカシューに民族楽器で加入。二十歳そこそこの1978年から20年間、都下吉祥寺で日本初の民族音楽ライブスポットを経営。日本初の民族音楽教室の主宰、同じく日本初の民族楽器専門店も経営し。在日大使館、友好協会、国際理解教室など、伸べ千数百回の演奏を経験する。新聞、雑誌、TVなどの取材も多く、「タモリ倶楽部」「題名の無い音楽会」には数回出演、「開 運なんでも鑑定団」では、特別鑑定士でもある。 著書に「アジアを翔ぶシターリスト」(大陸書房:絶版)、「民族楽器大博物館」(京都書院:絶版)、「民族音楽を楽しもう」、「世界の師匠は十人十色」、「アラブの風と音楽」(以上ヤマハ出版)、「もっと知りたい世界の民族音楽」、「民族音楽辞典」(日本初)」(以上東京堂出版)、「スローミュージックで行こう」(岩波書店)、「民族楽器を演奏しよう」(明治書院:学びやぶっく、2009年6月)、「まるごと民族楽器徹底ガイド」(YAMAHA、2010年2月新刊)の他、共著も多い。「民族音楽紀行:アジア巡礼編」(2008年春)、「アフリカ編」(2009年秋)、「カリブ・中南米編」(2010年9月)の15から16回を「西日本新聞」文化面に連載。2005年からの九州・福岡と東京の通いの頃から、保護猫活動を行 い。2007年には「福岡猫の会」を立ち上げ、2010年に大量の捨て子猫、野良子猫を引き受けて以後、何らかの疾患によって容易く里子に出せなくなった為、新たな引き受けを中断し、看病経験を研鑽することとなる。2013年には、西洋化学対処療法の限界に突き当たり、中医・漢方、西洋生薬(Herb)、様々なサプリメント、ヴィタミン・ミネラル療法などのホリスティック(全身的)療法、及び自然療法を懸命に学び、50頭に及ぶ保護猫の世話に活用。猫エイズなどの不治の病の哀しい看取りなども含め、経験を積む。集広舎サイトにも、インド人作家、グルチャラン・ダースの著書「インド 解き放たれた賢い象」の若林氏の書評がある。 及び、氏は、闘病中の保護猫の世話の為にも在宅で出来る執筆業に重きを移行したいところであり、新聞、雑誌、Webマガジンなどのコラム、エッセイの依頼を求めている。専門的な経験はもとより。引き出しの豊かさと視座のユニークさは、斬新且つ適所なものをお届け出来る底力を持っていると推薦したい。連絡をとってみたいと思われる方はご気軽に当集広舎迄ご連絡頂きたい。
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