北京の胡同から

第12回

中央テレビの付属施設の火災

中央テレビの付属施設の火災「春節」という中国最大のイベントが過ぎた北京。今年の春節をめぐる最大の話題といえば、結果的には何といっても中央テレビの付属施設の火災だろう。

 筆者の家は火災現場からは距離があり、当日は消防車のサイレンが一瞬聞こえただけで、直接火事を目にすることはなかった。具体的な被害の規模、責任の所在なども、他の報道や知人の話などで間接的に知るのみだ。そのため、そういった問題は報道記者の方にお任せし、北京に住んでいる人間として、こちらの人の反応について、いくらかお話したい。

 まず何より、火事が起きたことに対し、同情の声がとても低いことは事実だといわざるを得ない。それは、「とにかくCCTVはCMでぼろ儲けしている」というイメージがこちらの一般庶民には極めて強いため。しかも、発火の元凶が、近々本格オープンする付属のホテルの宣伝を兼ねて準備された、日本円で1300万円相当の花火だとなれば、「浪費」という印象が人々の脳裏に焼きつくのも当然といっていい。

 あれだけの火災でありながら、隣の本社ビルが焼けず、死者も一人で済んだことは不幸中の幸い。もっとも、CCTVのニュース報道から感じたのは、CCTVは犠牲となった消防隊員を大英雄に祭り上げ、その殉職について大々的に報道することで、本来の責任問題をごまかそうとしているのでは、ということ。勇敢な消防士らの背後にかろうじて映っていたのは、消火後の、モクモクと煙が出ているだけのビル。原因となった花火の映像などもちろんない。一部たりとも国の予算が投入されているなら、早急にできるだけ正確に近い被害の規模や総額などを示すべきだ、と外国人の私は思ってしまうが、そこらへんもかなり曖昧だ。こういった偏った報道の仕方に、「感動的な救助活動」に重きをおいた四川大地震の報道を思い出した人も少なくないだろう。

 メディア関係の友人の話だと、新聞メディアに関しても、詳細な関連記事の一面への掲載や、ビルが燃えている写真の掲載は、一切禁止だったという。日本の大手新聞社がいずれも一面で写真入り記事を掲載したのとは対照的だ。それでも『新京報』などは、地元の新聞としての意地を見せ、火災翌日から数回にわたり、一面でこそないが1ページまたはそれに近い大きさの紙面を割いて詳細な記事を掲載した。「これは以前なら考えられなかったこと」と前出のメディア関係者は語る。確かに、中国の報道規制も少しずつゆるくなっているのかもしれない。だが、CBDのど真ん中で起きた、無視したくてもできない火災だった、ということも影響しているに違いない。

 ところで、被災を免れた本社ビルの方は、その形から、こちらの人々に「大ズボン(大褲衩)」というニックネームで呼ばれている。火災の情報が不確実だった頃、このような冗談めかした対聯がショート・メッセージで広まった。

 上聯:除夕夜捧紅小瀋陽(大晦日には小瀋陽を大フィーバーさせ)
 下聯:元宵節火焼大褲衩(元宵節には大ズボンを焼き払う)
 横額:央視不差銭(やっぱり中央テレビは「不差銭(金に不足はない)」だ)

 小瀋陽というのは、今人気が急上昇中のコメディアンで、大晦日には、ベテラン・コメディアン趙本山作とコント「不差銭」を演じて人気を博した。この「不差銭」とは、農村などの人がよく口にする言い方だ。滞納された賃金などについて交渉するさいにもよく使われる。
 この対聯では、「除夕夜」と「元宵節」が対になっているだけでなく、「捧紅(大フィーバーさせる)」と「火焼(焼き払う)」も、中国語の「火」に「人気が出て流行になる」という意味があるため、うまく呼応している。また、「小瀋陽」の「小」も「大ズボン」の「大」と対になっている。

 一方、インターネット上には、このような書き込みも見られた。

「CCTVに感謝!全国の人民が元宵節を楽しく過ごすため、昨日は価値が1億元にのぼる花火を打ち上げてくれた。あの場面は、かなり壮観だった。銅鑼や太鼓が天を騒がせ、爆竹が一斉に鳴り、警察の旗がはためき、辺りは人の海!全く『不差銭(金に不足はない)』だ!だが、それと同時に全世界に証明された。人として、あんまりCCTV的な生き方をしちゃいけない。じゃないと、元旦は越せても、元宵節は越せないってな」

 最後の一句は、借金の厳しい取立てなどで脅しのセリフとしてよく使われる常套句だ。また、同じくネット上には、

「中央テレビはやっぱり金があるなあ。普通の人は元宵節は花火を燃やすけど、あの野郎はビルを燃やしちまうんだからなあ」
 という台詞入りの一コマ漫画も登場。

 コンクリート・ジャングルの中で燃え盛る巨大ビル、というあまりにシュールな風景は、一部の若い人々の妙な創作意欲の火をもかき立てたようだ。ビルが燃える写真を、巨大な怪獣やアニメの主人公などと合成した写真も次々と作られ、ネット上で流布した。

 もっとも、批判的な視点を含むネット上の書き込みには、かなり徹底的な当局の規制が入ったようで、現在、ほとんど検索することができない。

 こういった一部の市民の風刺に対して、「人の不幸を笑いものにして」という批判的意見もないわけではない。死者と多額な損害が出た以上、その意見ももっともだ。
 だがその対象が、国営メディアの多額の「浪費」であるなら、風刺はむしろとても健全な反応だといえるだろう。仮にそれが鬱積した不満を起爆剤としていたとしても、だ。そして筆者は、そうやって花火のようにきらめく庶民のユーモアやウィットが、へたなテレビ番組よりずっと面白いのが今の中国だ、との思いを深めるのである。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、『シベリアのビートルズ──イルクーツクで暮らす』(2022年、亜紀書房刊)。訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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