長城を行く

第11回

大同・得勝堡・雲崗──長城と仏教石窟

得勝堡。遊牧地帯との最前線にある外長城に配置される兵士たちの日常の生活区。堡内は碁盤の目状に街区が整理されている

▲得勝堡。遊牧地帯との最前線にある外長城に配置される兵士たちの日常の生活区。堡内は碁盤の目状に街区が整理されている

 万里の長城を踏破する旅は、すでに内陸の山西省に達した。これからむかう得勝堡は張家口から長城にそって西行する鈍行列車の終着地、大同市の北郊50キロのところにある。
 そこから国道208号線をそのまま北進すれば数キロさきはもう内蒙古自治区で、省境の町=豊鎮に達する。あたりはなだらかな丘陵地帯で、草原には羊が放牧され、開墾された農地では雑穀が実っている。遊牧と農耕が混在し、いま、まさに中国東北地方からユーラシア大陸を横断して西アフリカまでのびる農業遊牧境域線の真上に立っているのだ、という感慨がわいてくる。

 

得勝堡

 得勝堡は一辺が100メートルほどの城壁集落で、長城を防衛する明代の軍隊が駐屯したところだ。名前の如く、勝利を得るための堡塁、という意味だろう。九辺鎮の4番目にある大同鎮に位置する。大同鎮は山西と察哈爾右翼前旗(内蒙古自治区)の省境にある鴉角山から鎮口堡(天鎮県東北)までの647里(324キロ)区間で、察哈爾の遊牧地帯から襲来する騎馬民族を撃退するために設けられた。沿線には平遠堡、威遠堡、得勝堡、新栄長城などが認められる。得勝堡は人の背丈の4~5倍もありそうな黄土の城壁で囲まれ、内部は1本のメインストリートを背骨にして碁盤目状に整頓され、土色の家々からは具足をつけた明代の屯田兵がひょっこりとあらわれそうな気分になる。

堡内に入っていくと、珍しがってたくさんの人たちが家の中から出てきた

▲堡内に入っていくと、珍しがってたくさんの人たちが家の中から出てきた

堡の北のどん詰まりにある建物。文革時代の廃屋を修復中らしい。星形のレリーフが懐かしい

◁堡の北のどん詰まりにある建物。文革時代の廃屋を修復中らしい。星形のレリーフが懐かしい

 ひと気のない小さな堡内に入ると、路地から1人またひとりと男や女、子供らがとび出してきて、なにをしているのだ、とか、どこから来たのか、南方人だろ、などと質問される。人々の視線に敵意は感じられないので、カメラを2台もぶらさげた突然の闖入者に野次馬的な興味を持ったのだろう。こちらから堡内の生活などを聞いてみると、羊の毛や皮、肉の販売とすこしばかりの農耕でやりくりしているという。日用雑貨を売る店以外に商店は見当たらないので、食料は自給自足しているみたいだ。

 堡内の1本道をまっすぐ北にむかって歩いていくと、じきに漆喰が剥げ落ちたレンガ積みの建物に突き当たった。入り口には杖を抱えた老人と素朴な顔をした2人の少女が静かに腰かけている。三角屋根にあしらった大きな星のレリーフは文革時代の名残だろう。壁にはめ込まれた毛沢東語録まで残っている。まるで時間が止まってしまっているかのようだ。こんな人里はなれた寒村にも政治の嵐は吹き荒れたのだ。村はここで終り、そのむこうには城壁が高くそびえている。

 得勝堡を中心に、その前後の長城線を東西100キロ範囲内で調べてみると、堡や関、口、台、営、屯とよばれる軍隊の駐屯地、関所、見張り台などの戦略要地が27ヵ所、約7キロに1ヵ所の割合で設置され、異常に多いことに気づかされる。この区間は全線が内蒙古と境を画し、明代には韃靼(モンゴル系)とよばれた北方民族の脅威にさらされた地域である。同時代、この地域とならんで堡、関、口などが多かったのは遼寧省を西から東に朝鮮国境まで貫いた長城線(遼東鎮)で、地図上で確認できるものだけでも87ヵ所、10キロに1ヵ所の間隔で設置されている。遼東鎮の北では女真族が活動し、長城越えを虎視眈々と狙っていた。堡、関、口などの設置数から、明朝はとくに北方の韃靼と女真族を恐怖し、警戒していたことがうかがえる。

壁にはめ込まれた毛沢東語録。手書きのものは貴重である

▲壁にはめ込まれた毛沢東語録。手書きのものは貴重である

 村の入り口をアーチ形にうがった城門にのぼってみる。門の上辺にほどこされた精緻なレリーフの囲いの中には2文字の門名があったはずなのだが、風化がすすんではっきり見えない。角度をかえて仔細にながめてみると、どうも「保陣」と書かれていたようだ。長城を防衛した軍隊の駐屯地にふさわしい名前である。

 

遊牧民族が築いた仏教石窟

 大同市の西北郊外にある武周山の南斜面に東西1キロにわたって雲崗の石窟群が広がる。洛陽の龍門、敦煌の莫高窟とあわせ中国三大石窟のひとつとして数えられ、ユネスコの世界文化遺産にも登録されている。北方遊牧民族であった鮮卑族の拓跋氏がモンゴル高原から南下して農業遊牧境域地帯に位置する平城(大同)に北魏(386〜534年)を興し、漢民族との融和を狙って仏教に帰依した文成帝の西暦460年(和平1年)から石窟の開鑿が始まった。北魏は494年(太和18年)、洛陽に遷都して龍門石窟も彫った。雲崗と龍門はおなじ北魏の拓跋氏がつくった姉妹窟だったのである。

雲崗石窟の外景(第20窟)。雲崗と龍門はおなじ北魏の拓跋氏がつくった姉妹窟だった

▲雲崗石窟の外景(第20窟)。雲崗と龍門はおなじ北魏の拓跋氏がつくった姉妹窟だった

 中国という国は歴代の統一王朝によってその統治領域が大きくふくれたり、小さくしぼんだりして膨張や収縮をくりかえしてきた。そのいくつかの例をふりかえってみると、鮮卑族などが支配した唐は大きくふくれ、漢族支配の宋はしぼみ、モンゴル族の元でふたたび膨張したかと思うと、漢族が統治した明は小さくなり、女真族の清でまた大きく風船のようにふくれた。現在の中国は、清から版図を継承した中華民国の領土を受けついだので、ふくらんだままになっている。

雲崗第9窟。西域からの影響がうかがえるデザインで、当時の大同(平城)がすでに国際都市であったことがわかる

▲雲崗第9窟。西域からの影響がうかがえるデザインで、当時の大同(平城)がすでに国際都市であったことがわかる

 上の例から、歴代王朝の膨張と収縮には規則性があることがわかる。つまり、漢族以外の北方民族が政権をとったときに国土は大きく膨張し、漢族が政権をにぎると収縮するのだ。それにともなって国都の位置も変わり、膨張したときは漢族居住地域の周縁にあたる長安や北京に政権の中枢が置かれ、収縮したときは漢族内奥の南京や開封、臨安(杭州)に首都が設置された。歴史に照らせば、現在、漢族が統治する中共独裁政権の版図は小さくならなければおかしい。

 

雲崗石窟

雲崗第5窟後室主仏。清順治八年(1651)に掘られた比較的新しい窟である。雲崗石窟最大の座仏で、現在も黄金色に輝いている

◁雲崗第5窟後室主仏。清順治八年(1651)に掘られた比較的新しい窟である。雲崗石窟最大の座仏で、現在も黄金色に輝いている

 大同市街から路線バスに乗って、新栄区にある雲崗の石窟に向かう。新栄は内蒙古自治区と境を接する大同の北西郊外で、なだらかな丘陵地帯を万里の長城と烽火台が遊牧世界(夷界)と農耕世界(漢界)を画し、雲崗石窟はそこの農耕地帯に屹立する岩山に築かれた。

 雲崗の石窟がある武周山は粗い砂岩質に覆われているために開鑿が比較的容易で、大仏の規模は雄大である。これに対して洛陽の龍門は岩質が硬く、雲崗のように大きな石窟を彫刻することはできなかった。雲崗は岩質が軟らかいため、名作の誉れ高い第20窟座仏の石室前壁が遼代(契丹、916〜1125年)以前に崩落した。このため座高13.7メートルを誇る巨大な仏像が外側に露出して雄景を演出し、石窟の外景は龍門や敦煌などよりもはるかに精緻で美しい。

新栄の土長城。周辺は農業遊牧境域地帯のど真ん中で、広大な放牧地や田畑がひろがっている

▲新栄の土長城。周辺は農業遊牧境域地帯のど真ん中で、広大な放牧地や田畑がひろがっている

 この石窟は涼州(甘粛)の高僧曇曜によって開鑿が始められた。現在までに53窟が確認され、そこに彫られた仏像は5万体を超える。彫刻美術の圧巻は第9窟の絢爛な前室と後室で、壁面には無数の飛天や仏像が色鮮やかに彫刻され、1千数百年の時間を超えて現代に伝えられている。また第5窟の後室にある座高17メートルの主仏は今もくすんだ黄金色を放ち、その偉容は見る者を圧倒する。いずれの窟も中国仏教彫刻史上に一時代を画した優美な作品で満ちている。

鼓楼。ここを中心に旧市街が形成されている。大同のランドマークだ

▲鼓楼。ここを中心に旧市街が形成されている。大同のランドマークだ

 雲崗石窟から20キロほど北行すれば、そこはもう内蒙古につらなる草原地帯だ。省境にそって巨竜のような万里の長城が東から西にのたうつ。大同に北魏が興る以前、この長城は北方遊牧民族の南下を阻止する強固な人工の壁だった。鮮卑族の拓跋氏もこの東西にどこまでも延びる長城に幾度も阻まれたはずである。夷界の遊牧民族による漢界への進入は歴代この地域でもっとも頻繁に行われ、このため省境を走る長城にはおよそ7キロおきに得勝堡とか殺虎口など「堡」とか「口」と呼ばれる軍隊の駐屯地や戦略要地が置かれて辺境の防衛が慎重に行われていた。
 雲崗から市内へ帰る路線バスは混んでいた。中国人乗客が床に大きな黄色い痰を吐いた。それを見ていた欧米の若い観光客がとっさに顔を背けた。

旧市街は露天商、大衆食堂、生活用品を売る商店などでにぎわう。最奥に鼓楼が望まれる

▲旧市街は露天商、大衆食堂、生活用品を売る商店などでにぎわう。最奥に鼓楼が望まれる

 

新栄長城

 大同市内にもどって休憩し、30キロほど北西にある新栄長城にむかう。なだらかな丘陵地の北側には放牧地が展開し、南側には樹林と農地が広がる。その遊牧と農耕の境を烽火台と土長城が平行してアップダウンしながら地平線までのびている。西に傾いた太陽が草原に斜光を放ち、あちこちに点在する羊たちがながい影をつくって移動していく。その影のむこうから、韃靼の騎馬戦士が長城めがけて疾走してくるような錯覚にとらわれた。

 夕刻、旧市街に屹立する鼓楼に斜光が射して美しく浮かび上がっている。繁華街の大西街や大南街は再開発され、民族色豊かな建築物が街路を飾っている。商店に電飾が灯るころになると着飾った男女が三々五々湧くように現われ、「迪吧」のネオンが点滅するビルに吸い込まれていく。つられて入ってゆくと、「迪吧」とはディスコバーの中国語であることがわかった。ミラーボールから反射したレーザー光が大きなフロアを縦横にスキャンしていく。お立ち台にはギャルの代わりに公安警察が陣取ってフロアの治安維持に務めている。奔放な男女が水面に広がる波紋のように揺れながら、大同の夜を踊り狂う。一緒に踊る。公安警察も治安維持を忘れて制服のままに身体を揺すっている。そう、そうでなくちゃあね。ディスコビルの外では地方都市の夜が更け、あちこちに怪しげな電飾が灯り、誘惑の扉が手招きをする。昼間、タクシーの運転手が教えてくれた大同名物の兎の頭の煮込みを売る屋台が「老張兎頭」の看板を掲げている。一皿とってみた。ちょっと癖のある味の肉片がグロテスクな頭蓋骨に張り付き、食欲は湧いてこなかった。あるいは頭をかち割って、脳みそをほじくり出して喰うのかもしれない。

兎の頭は庶民料理の代表、大同の名物である。夜の屋台で市民に供される

▲兎の頭は庶民料理の代表、大同の名物である。夜の屋台で市民に供される

 

無人の三岔駅

 翌朝、大同駅7時15分発の神木(陜西省)行き鈍行列車に乗る。数日前、張家口から乗ってきた列車とおなじように凄まじく古い。朔州までは中国鉄路の管轄だが、その先は民営になるという。山西省北西部の眠くなるような景色のなかを2時間半ほど走って、朔州に着いた。炭鉱の町らしい。列車はすぐに発車した。民営区間になっても車両を乗り換えるわけではなく、車内はずっと国営の中国鉄路のままである。このまま乗り続ければ神木長城のある神木駅に行くことができるはずだが、その前に長城が黄河を渡る偏関にむかうのだ。そのためには途中の三岔という小駅で降りなければならない。午前11時、列車は三岔駅に着いた。ホームだけがある平原の無人駅である。駅舎もなければ、賑わいもない。もちろんバスやタクシーも見当たらない。とりあえず、人の棲む集落を見つけなければ動きがとれない。

〔参考文献〕
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)

景愛『中国長城史』(上海人民出版社、2006年)
山西省地図編纂委員会『山西省地図册』(中国地図出版社、2002年)
陜西省地図編纂委員会『陜西省地図册』(中国地図出版社、2001年)
妹尾達彦『長安の都市計画』(講談社選書メチエ、2001年)

コラムニスト
中村達雄
1954年、東京生まれ。北九州大学外国語学部中国学科卒業。横浜市立大学大学院国際文化研究科単位取得満期退学。横浜市立大学博士(学術)。ラジオペキン、オリンパス、博報堂などを経て、現在、フリーランス、明治大学商学部、東京慈恵会医科大学で非常勤講師。専攻は中国台湾近現代史、比較文化。