明子の二歩あるいて三歩さがる

第08回

チベットで見たこと、思ったこと② 爆、爆、爆!

 観光スポットにバスが着くや、中国人観光客がぴょんぴょん飛び出して来る。ソーシャル用の証拠写真を撮るために。大人も子供のように走り回る。ゴミをポイ捨てする。ツバを吐く。叫ぶ。どなる。携帯スピーカーからウィーチャットに話しかけ続ける。酸素ボンベのチューブを鼻から垂らして騒いでいる人もいる。

標高4,700メートル。神秘の湖ナムツォ湖畔を駆けずり回る観光客標高4,700メートル。神秘の湖ナムツォ湖畔を駆けずり回る観光客
ラサのシンボル、ジョカン寺の屋上は大撮影大会ラサのシンボル、ジョカン寺の屋上は大撮影大会

 ホテルのバイキングでは、食べ物をごっそり皿に盛り、ごっそり残す。箸を直角に皿に突き刺し、首を低く突き出して皿に口を近づけて食べる。中国では金を払う側の人は神なのだと思う。使用人には常に乱暴な命令口調で、チップは決して払わない。エレベーターで居合わせた人同士が会釈することもなく、身を交わして人に道を譲ることもない。

 それは、ラサだけではない。思えば、ベネチアでもピサでもローマでもそうだった。サンフランシスコも、グランドキャニオンも、敦煌もそうだった。

「あの人たち、どこにでも、いる。あの人たちのいないところ、行きたい」
「次は冬、来るといいですよ。冬なら、中国人観光客、いないから」
 フランス人の観光客とチベット人ガイドがヒソヒソ話している。

「グーグル通じる?」
「ダメ。スカイプもダメ、youtubeもダメ(*1)

「クレイジー・ピープル、クレイジー・カントリー」
 アメリカ人観光客とインド人観光客も端っこの方でコソコソ話している。

(*1)2018年8月の旅行中、中国はインターネット規制によりFacebook、Google、youtube、Skype、Line、Instagramなどのプラットフォームが完全に使えなかった

 ここでは、どんな外国人もマナーの良い常識人に見えてくるから不思議だ。この国で体験する驚きを束の間、共有することで生まれる外国人同士の奇妙な連帯感。それはほかのどんな国でも持ったことのない感情だ。中国の常識は世界の常識とあまりにもちがう(逆に言うと中国以外の世界の常識は21世紀になって収斂しつつあるのかもしれない)。自分が変なのか、それとも、この国が変なのか。それを確かめるため、つい、話の通じる「同類」を探したい気分になるのだ。

中国の夏休みの空の国内便は大混乱。頻発する原因不明のフライトキャンセルと遅延に激昂する人々中国の夏休みの空の国内便は大混乱。頻発する原因不明のフライトキャンセルと遅延に激昂する人々

「だから、中国はこういう国だって、最初からわかって来てるわけだからさ」──旅行中、夫は何度もつぶやいていた。

 13億人が金を求めて動き回る忙しさ。驚異的な物質的発展のスピードとペース。そしてディストピア小説を地で行く監視国家のコワモテ感。観光地を覆い尽くす異様な熱気と消費の狂躁(そこには、楽しめる時に楽しんでおかないと、という刹那的な虚無感すら漂う)。そのユニークな組み合わせが醸し出す独特の雰囲気は、現地の空気を吸うまで、ちょっとわからない。

 わずか10年くらい前、中国を旅行した人は、「ちょうど日本の高度成長時代みたいで懐かしいよ」と言っていた。今、中国旅行して、「懐かしい」感じを持つ日本人はいないと思う。

 チベットに行く途中、上海と成都にトランジットした。中国内陸部の要、四川省の省都の成都は威風堂々たる1,500万人都市だ。超モダンな空港は早朝から大混雑。目下第二空港を建設中だという。成都の自動車保有台数は452万台で北京に次いで国内2位。すでに東京の314万台を大きく超えている、目抜き通りは緑のナンバープレートをつけたテスラの高級電気自動車がガンガン走る。フードコートも地下鉄も支払いはほぼキャッシュレス化、スマホ決済。早くもショウウィンドウに並ぶ秋物ファッションは、なぜか清朝風のレトロなチャイナドレスが目についた。

古の蜀の都、成都は想像を超えたメガ都市だった古の蜀の都、成都は想像を超えたメガ都市だった

 中国の発展のスピード、物量のスケールの凄まじさを端的に示す統計がある。なんと、1901〜2000年の100年間にアメリカが消費したセメントの量の1.4倍を中国は、2011〜2013年のたったの3年間で消費してしまったという統計だ!(中国のセメント使用量、3年間で“米国の1世紀分”超える―米メディア

 セメントは都市を作るためのものだ。この30年、約4億人の人口が農村から都市に大移動し、人々はどんどんマンションに住むようになった。中国は今日、人口100万以上の都市が142、800万以上の都市が30あるという(ちなみに日本は100万都市は11、800万都市は東京だけ)。道路が整備されてモータリゼーションが進み、全国自動車保有台数は3億台を超える。こうした抽象的な統計数字が示す現実が、実際にはどんなものか、環境負荷がどれほどのものかは、現実を目の当たりにしなければ想像が難しい。そして、農村からの人の移動が概ね終わろうとしているいまも、建設はまだ止まない! 凄まじいスピードの発展、凄まじいモノの氾濫、そして、凄まじい社会の狂騒!

どんな僻地にもビルが何十本と建ち、街が生まれ続けるどんな僻地にもビルが何十本と建ち、街が生まれ続ける

 物的発展の狂騒パワーに度肝を抜かれつつ、ようやくチベットの都、ラサに着いた。

 ラサは漢民族用の整然とした碁盤の目の新市街と、チベット人用の旧市街がくっきり二つに分かれている。旧市街は圧倒的に伝統色が濃い。建物ごとに趣向を凝らした鮮やかなチベット窓が並ぶ。隘路にはバターランプとお香の匂いが漂い、巡礼者で溢れていた。人々はチベット語を話し、伝統服を着て、マニ車を回し、五体投地している。足のない乞食が物乞いし、街角では男たちが骨董市を開き、異教徒がヤクの肉が捌いている。神の都ラサ、チベット世界のおへそは今も中世的な雰囲気が残っていた。

チベット建築は窓が美しいチベット建築は窓が美しい

 それに対し、新市街はありふれた中国の地方都市だ。ショッピングモールとスーパーには全土から届くありとあらゆる商材が溢れ、中国各地の地方料理レストラン、ファストフード店、宝飾店などが軒を並べ、延々と似たようなファッション専門店やスポーツウェアの店が続く。それらの店は、売り手も買い手も、ほぼ全員、漢民族だ。

 旧市街と新市街はまるでパラレルワールドのように並存し、口をきかず、互いに関心を持たないように見えた。新市街は中華人民共和国の他の地域と緊密なネットワークで統合された、完全に同質的な空間に見えた。その空間から見ると、チベット人は独自の信仰、衣食住を頑なに守り、差別され、抑圧され、またある時は保護される、貧しく前近代的な少数民族に見える。

 だが、一方、ひとたび平均標高4,000メートルのチベットの広大な草原に出て、その広々とした空間からチベット人と漢民族を眺めてみれば、主客が180度転倒し、主役は漢民族からチベット人にとって代わる。漢民族はヤク肉とツァンパとバター茶だけでテントに暮らすことは決してできない。チベット高原と中国本土をつなぐ物流が途切れれた途端、彼らの生活は崩壊する。雪山に囲まれた空気の薄い土地の、慎ましい自給再生産、平和な定常社会に突然、圧倒的な規模の物質がもたらされた。この高山植物が生い茂る天空に近い大地に、せっかちで拝金主義的な都会のライフスタイルや神を恐れぬ世俗的価値観を持ち込むことは、ひどい不均衡を生み、とても持続可能でないように見える。

草原やお寺など、伝統的環境の伝統服のチベット人は美しい。しかし…草原やお寺など、伝統的環境の伝統服のチベット人は美しい。しかし…
…ひとたび、中国的、都会的環境に出ると、全く同じ佇まいが途端に貧しく時代遅れに見えてしまう…ひとたび、中国的、都会的環境に出ると、全く同じ佇まいが途端に貧しく時代遅れに見えてしまう

 ラサで撮った写真は、二つのまるで違った物語を語る。

 一つは草原、僧院、旧市街などチベットの伝統的な風物の背景。そこに映るチベット人は、実に高貴で叡智に満ちて見える。街を見下ろすポタラ宮は、チベット人が高度な知性、美的感覚、技術を持つ民族で、ラサには強大な集権的統治機構があったことを物語る。もう一つは、一党独裁市場経済の今日の中国の価値観をそのまま体現した新市街の背景。そこに映るチベット人は、まるでネイティブアメリカンのように致命的に時代遅れで無力で無気力な民族に見える。つまり、この二つの背景はまるでゲシュタルトのだまし絵のようだ。

 あるいは、だまし絵はラサの街の作りのせいだけではないかもしれない。だまし絵を見たがっているのはレンズを覗くわたしの心自身なのだ、と気づいた。急速な近代化、生活様式の変化、そしてゆっくりとした衰退を経験しつつある日本。そこに生きるわたし自身が、物質と精神、前近代と近代の間で価値観が揺れ、心が葛藤し、揺れている。その結果、目の前にある景色に対し、その時々で見たいものを見ているのだ。

 チベットに対しては憧憬と憐憫に揺れ、そして、中国に対しては軽侮と恐怖に揺れる。旅のあいだ中、わたしは憧憬、憐憫、軽侮、恐怖の四極をゴトゴト激しく揺さぶられ続けたのだった。

コラムニスト
下山明子
翻訳業、ブロガー。早稲田大学、パリ政治学院卒業。格付会社、証券会社のアナリストを経て2009年より英日、仏日翻訳に携わる。チベットハウスの支援、旅行、読書を通じて、アジアの歴史を学んでいる。著書『英語で学ぶ!金融ビジネスと金融証券市場』(秀和システム)。訳書『ヒストリー・オブ・チベット』(クロード・アルピ著、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
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