前回、戦時下、事実上評論活動を禁じられていた清沢洌が外交史研究として発表した冷静な満州事変分析を紹介した。事変発生時、清沢はアメリカに滞在していた。日米関係は、1931年9月の事変直後から関東軍よる満州全域の占領、さらに32年1月の上海事件*、3月の満州国建国へと展開する中で、緊張度を増すばかりだった。
*第一次上海事変のこと。関東軍が満州事変に対する国際社会の批判の目をそらすため、1932年1月、上海で日本人僧侶襲撃事件をでっち上げ、それを口実に3月まで中国軍と戦火を交えた。
『アメリカは日本と戦わず』を緊急出版
32年7月末帰国した清沢を待っていたのは、千倉書房からの緊急出版の注文だった。社主はすでに題も決めてあるという。「アメリカは日本と戦うか」。注文を聞いた清沢はその時の感想、疑問を序文にこう記している。
「私はお汁粉会の後で、餅菓子を強いられるような気がした。いくら流行を追ふ世の中でも、この日米戦ものの多い出版界に、も一つを加える必要があるのか」
しかし、清沢はこの注文を受けた。「浜の真砂のほど多い類書の中でアメリカが何を考へているのか、アメリカの意志は何処にあるか、それを論じたものは殆んどない。恋愛ゴッコと論争事は、片方だけ聞いては間違ふことが多い。暫らく米国に居って、満州事件と、上海事件と、戦争論とに米国輿論の空気を吸っていた私が、その印象の醒めない内に、これを書くのは、わが国民が時局を正視するのに役立ちはしないか」という出版社側の狙いに同意したのである。
こうして10月8日、題名を『アメリカは日本と戦わず』と改め、緊急出版した。350ページを超える大著である。それが出来たのも、清沢自身が「米国にある間、甚だ微力ではあるけれども、日本の立場を米人に知らしめることに全力を挙げた」と、新聞社や通信社、あるいは日本研究者を訪問して、日本の立場を説明し、対話を重ねていたからだ。
同書の構成は以下のようになっている。
序説 日米戦争はあるか
第一章 争う日本と米国
第一 日米戦争論の流行
第二 日米衝突の原因
第三 比律賓を足場に東洋へ
第四 そして満州問題が来た
第五 対日経済封鎖
第二章 米国を裏から観る
第一 海軍と文官の確執
第二 海軍拡張のから繰り
第三 米国海軍膨張史
第四 国際聯盟と米国
第五 開戦権と米国
第三章 日米外交の回顧
第一 米国の東洋政策
第二 日本に対する政策
第三 過去の『日米戦争』
結論 日米戦争なし
上 戦争なしとする理由
下 日米関係を如何にする
満州事変・上海事件で対立は本格化
全体的に言えば、緊張度を増す日米関係の現状を詳細に分析しつつ、その一方で様々な安全弁が備えられており、戦争を回避しようという努力があれば回避できるとし、その対策も提示している。
第一章の第一では、アメリカだけでなくソ連やイギリスなど世界でどのように日米戦争論が語られているかを紹介、第二では過剰人口を抱え、海外にその解決策を求める日本の事情、第三ではフィリピンを足場に太平洋進出を強めるアメリカと、様々な観点から高まる日米衝突の可能性を指摘する。そして満州事変、上海事件の発生によって、対立が決定的な局面に入っていると警告を発したのが第4の項だ。清沢は「要するに満州問題、上海事件は、日米衝突の可能性を本格的にした。移民問題、人種問題、山東問題等の前哨的衝突を経て、その重要性においても、その政策と立場の相違においても、また感情的対立においても、正に本格的日米衝突の舞台に上って来たわけである」と述べる。
上海事件を受け、アメリカ国内では日本製品ボイコット運動や対日経済封鎖の提案の動きが活発化する。これを論じたのが第五だ。経済封鎖をめぐってはそれが結局戦争を招くという反対論のあることも紹介する。結果的にこの時期には、経済封鎖はアメリカのみならず国際的に採択されなかったが、清沢は食糧や武器、弾薬の製造に必要な鉱物に対する経済封鎖の影響を、具体的に数字を挙げ説明している。日米は戦争となれば5年くらいの長期戦になるだろうとも予測し、アメリカとの貿易が途絶すれば「(日本は)生糸輸出の対価で綿花と機械、油と鉄を買入れている。この収入がなくなり、またこれ等が買へなくなる」と指摘する。だが、結論は「これが国民生活にどう響くかだ。少なくとも、これを全然異なった状態にアジャストするまではどうなるかだ」と清沢らしくないあいまいな表現に押さえている。長期戦となれば日本は持たない、だから戦争などないと書けば「敗北主義」として出版できなくなる恐れがあるから、事実だけに止めたのであろう。
膨張する米海軍
本論の第1回で、「われ等が率直にその感想を書くと予期しない。危害と圧迫がわれ等の上に見舞うだろう」と、清沢が友人から警告を受けていたと書いたが、この『アメリカは日本と戦わず』の序文からの引用だった。第五の経済封鎖の分析も慎重な言い回しに終始し、結論は、「産業が発達して、経済的機構の複雑化した国において深刻であるのは説くを要しない」と書いているが、日本がそこに含まれているかどうか、明確にしていない。だが、これは言わずもがなであろう。清沢は経済封鎖の深刻な影響を詳しく説くことで、日米決戦などという威勢の良い議論を戒めたのだ。
第2章の第一から第三では、日米の戦争となれば当然、太平洋を舞台とする海戦が勝敗を分けると見ているからか、清沢は、歴代多くの大統領が海軍の膨張に反対だったにもかかわらず、米海軍はその膨張を重ね、「大英帝国に代って世界一の海軍国になる意志を固めた」とその歴史を詳しく紹介している。その結論として「米国海軍の平時支出は、本世紀の初め即ち約二十ヶ年以前に比し実に五倍に達したのである。その急激なる発展の様を見るべきではないか。之と同時に、われ等はこの海軍の別動隊としての米国の商船の発展も見なければならぬ」とも述べている。米海軍の膨張の大きさを見れば、日本軍も容易に戦争を起こせないと清沢は言いたいのだろう。
アメリカの対日抗議の妙
第四の「国際聯盟と米国」では、国際聯盟に加入していない米国が、満州事変後、対日圧力として聯盟加盟国と連携して対立の拡大を穏便に収めようしていることを明らかにしている。
米国政府は事変の翌年1月「九ヶ国条約及び不戦条約の誓約に違反して、日支両国政府間に取極めたる如何なる事態、条約乃至は協定をも承認せず」との通牒を日支両国政府に発した。と同時に「もし他国政府が米国と同様の決意をなし、同様の立場をとって領土の如き行為に対し、警告を発すれば圧迫又は条約違反によって獲得せんとする如何なる権益の、合法性をも今後有効に阻止すると我々は信ずるものである」と聯盟加盟国にも賛同を呼び掛けた。
その結果、3月に国際聯盟は、日本と支那との当事国を除く総会において満場一致で、国際聯盟規約第10条とパリ平和協定に違反して獲得した「領土的独立権と政治的独立の変更は認めない旨を決議した」。一見、一致した強い姿勢と感じるが、国際聯盟と連携した米国の狙いについての清沢の解説が興味深い。
「東洋に関する問題については、直接に日本と交渉し、乃至は特別的会議を招集することは日本との正面衝突を惹起する恐れがあるので、聯盟の陰にかくれ、或は聯盟を道連れとするであろうことは明らかである。しかし二つが全然独立して行動するが故に、却って相制して過激な方法に出ない作用をなすことは世界のために幸福である。たとえば連盟側から対日ボーイコットの説が出た時に直ちにこれを否定したのは米国であり、また一方一本気のスチムソン氏が昂奮した時に、これに熱さましの役を演じたのは聯盟側の大国であった。日本はこの二つの間に立って、外交をなすことが出来る筈である」
つまり清沢の見立てでは、アメリカと国際聯盟加盟国は共同で、対日抗議の表明というメンツを保ちつつ、経済制裁や武力行使といった具体的な強硬策を回避したということになる。
このあたりにも、清沢が日米戦争はないと見る根拠の一つが見えてくる。しかし、その結論である「日本はこの二つの間に立って、外交をなすことが出来る筈」という清沢の忠告は、本連載の次回で見るように、内田・松岡の強硬外交によって全く無視されることになる。
開戦権は依然として議会に
第五の「開戦権と米国」では、憲法で開戦権は大統領ではなく議会にあるが、開戦権をめぐる大統領と議会の歴代の攻防を紹介しながら、「大統領の権限が著しく拡大されたのは事実であるけれども、然し一等国との戦争が米国議会の承認、従って輿論の忌憚なき批判なくして開かるべしとは信じることができない。そして問題が輿論の批判に立つことにならば、大胆なる論議は比較的に米人の特長であるから、今回の上海事件に関し非常な排日感情が勃発し乍ら大勢は対日経済断交に反対したやうに反対するに至るだろうと思ふ」と舞台裏を明らかにしている。開戦権が大統領個人の感情によって行使されないということを日本の読者に示した。
門戸開放策は武力行使に至らず
第三章の「日米外交の回顧」は主にアメリカのアジア政策を論じている。清沢はペリーの来航までさかのぼりアメリカのアジア政策が、その進出が遅れたこともあり、一部の軍人を除いて植民地拡大ではなく、終始、門戸開放政策であると指摘する。
「米国は今後もなほ門戸開放政策に終始して、これに反対するいかなる国に対しても反抗するであろうが、これは必ずしも戦争を意味しないことである。米国の対支政策——門戸開放政策の支持は積極的にあらずして、常に消極的である。一定の期限を切るものでなくて、啼くまで時鳥を待つ家康の悠長な政策である」
「米国が東洋政策を行ふのに、日本と戦争してまで、断行する意志があるとは、われ等の信じ得ざるところである。現に今回の満州問題についても、国務長官スチムソンが過当なる言語を弄して、日本政府がその真意を確かめんとする場合、常に苦しい弁明をして、正面衝突を避けんとしつつあるが如きがそれである」
こうして最終章の「結論 日米戦争なし」ということになる。最終章でも、日米危機の状況や要因について繰り返し説明する。例えば上海事件の後のアメリカ国内での反響について「米国全土の対日感情は、その時最悪に達し、日本大使館、日本総領事館、日本字新聞等に手紙、電話が雨のやうに降って来たのである。われ等は当時紐育にあって地下鉄線その他で、憎々しげにわれ等を睨む幾つもの眼に打突かったのを、今でも忘れないでいる。もしこの時に上海において、日米の軍人でも衝突するか、或は両者の衝突により軍艦で撃沈でもするやうな事件が突発した場合には……果して戦争なくしてやむであろうかを私は心ひそかに憂へていた」という。しかし、清沢はその後、「行き過ぎを感じた米国の輿論には、今、その反動を見つつある」と、米国の雑誌や新聞に載せられた市民の投書や社説を紹介している。
独特の戦争観
「戦争はない」とする最終章で注目されるのは、清沢独特の戦争観や満州国の将来構想である。
まず独特の戦争観について言うと、「私は戦争といふものが太陽の廻るが如く廻って、人力を以て避け得ざる自然法の一つだとは信じない」と言い切る。それは資本主義の行く末は戦争というマルクス主義を批判するものでもある。その上で「戦争は必ずしも目前の危険を取り去るために起るものばかりではない。そこには侵略的な戦争もあれば、また日米戦争のやうな場合には、一国が他国に対し実害を与へたといふよりも、寧ろ将来実害を与ふるであろうことの恐怖から戦争行為に訴ふると見るべきである。そして国民をしてこの行動に出でしめるためには、相方共、宣伝によって他方の邪悪なることを国民の頭に注入するのである。従って国民が戦争の声に応ずるのは敵に対してでなくて、寧ろ国内の宣伝の唱導するところに応ずることが歴史的事実である」と清沢らしい見方を披露する。
また「日本の熱烈なる愛国運動があればあるほど、米国はこれに備えることになるし、米国が備えれば備えるほど、これに対して日本も準備する。それはこだまの返す如くに必死の相互的勢いである。そしてこの勢いが容易に戦争に導くこともまた歴史の示すところである」とも述べる。つまり戦争を煽るマスコミの論調やそれによって喚起される愛国主義こそが戦争へと導くというのが清沢の戦争観の胆だ。
日米戦争が起こる場合には「アメリカと日本のもしくはその内の一国の行政、立法の機関が、完全に戦争を欲するグルップの手に落ちた場合である。戦争は国民の心理状態であるから政府機関を手に入れたこのグルップは、必らず宣伝をして、大々的に敵愾心を煽るであろう。新聞と、学校と、団体と、公共機関は無論戦争を国民に売る役目を引き受くるであろう。この場合このグルップは、国民の感情的怒涛にのって、容易にその平素抱懐する主義によって戦争に赴くことが出来るわけで、事ここに至れば、開戦の理由が如きは、海辺に小石を拾うが如くに容易である」と語る。まるで9数年後の日米戦争下の日本を見る思いがある。
そこに至らないためにもと、清沢は「ロンドン会議の時に日米両国間に不戦条約乃至は不侵協定のようなものを作るべしと主張し、全権にも説き、当時雑誌にも発表した。私の意はかくすることにより、安全感なき両国の国民に道徳的な安心を与うることが出来ると考えた」という。さらに「それと同時に、日米両国政府はその機関なり、あるいは新設さるべき機関によって対手国の事情を紹介することに努力すべきである。たとえば日本の外務省は、ただ外交事務に没頭していて、外交をなすに必須である国際心――外交及び対手国に関する知識を少しも国民に知らすことにつとめない。……かくの如くして如何にして大衆を率いることが出来ようか。もし近来、外務省が為さんとすることをなし得ず、形影相弔うところの惨めな存在であるとすれば、それは外務省自身の怠慢の罪に外ならないのである」と提言する。これは戦後、世界的に平和維持の政策の一つとして採択された「ソフトパワー」に他ならない。
独特の満州構想
清沢が日本として取るべき二つの策を示す。
「一つは日本は南支那において、出来るだけ支部と列国とに協調を計るべきである。すでに落着したはずである。日本の生命線といわれる満州国を承認した以上は、今後は内部的に健全な生長を待つばかりであって一応外部関係の問題は落着したはずである。……このためには充分支那に譲るべきは譲って、協調するがいいと思う。機を見て治外法権を支那にかえすのもいいだろうし、専管居留地を明け渡すのも差し支えない。日本は出来るだけ支那に対する誠意を示すべきである」
「第二には満州において、将来、外国人に対して出来るだけ寛量なる態度をとることである。満州は産業的に開発されねばならぬ途上にあるから、ソヴィエト・ロシアがその技術者を米国、英国、ドイツ、日本から招いたように外国、殊に米国辺から招くべく、また投資を歓迎すべきである」
二つの策は満州国建国を前提にした、中国や米、英の反発を和らげるだけの消極策であり、満州事変の黙認につながる提案とも読める。清沢研究者、山本義彦は『清沢洌の政治経済思想』の中で、「この書が熱狂的な植民地「満州」支配の正当化が行われていた一九三二年一〇月という時期に発刊されたことを考慮すれば、一定の工夫が施された政治論といえないわけでもない。しかし一九三一年九月二六日と一〇月一〇日号の『東洋経済新報』社説「満蒙問題解決の根本方針如何」で、同時代人として石橋湛山は満蒙放棄論を展開していたことを考慮するならば、清沢の論理はなお不徹底な部分を含むものと言えよう」と批判する。
しかし、清沢は言論弾圧をかわすために是非をあいまいにする表現はしても、大衆世論に媚びるような議論は展開したことはない。石橋の満蒙放棄論に対し、清沢の議論が不徹底との評価も、石橋の議論をあくまで正当とする山本の評価から来るもので、清沢の議論を理解する上でかえってマイナスである。
リアリスト清沢の論理
評価より前に清沢の議論をよく理解することが大切だ。私は、前回晩年に書いた『日本外交史』の「満州事変」の部分をまず紹介した。そこでは、清沢は冷静に、客観的に農村の疲弊や経済恐慌の波に現れた日本の国情から満州事変を起きるべくして起きた事件として捉えていた。そう考えると、満州事変が起き、満州国が建国されてしまった以上、「満蒙放棄論」では事態の改善策にはならない。だから清沢は平和的な満州開発論を唱えた。
実際、清沢は『アメリカは日本と戦わず』の時点でこう述べている。
「われわれは今、満州問題を前にしている。満州問題はfait accompli(既定事実)である。リアリストにとっては、それは生るべき充分な理由があって、昔しに遡のぼる必要はない。この事実を前にして、今後如何にするかが重大な問題である。満州問題の故に、支那が一層日本に離れたのは事実であるし、国際関係において日本が孤立したのも隠すにはあまりに顕著な事実である」
その上で、「日本は元より生存する権利がある。日本は生きるために何人に対しても弁解する必要はない」と現実を認めつつ、「ただここに一応注意すべきことは、日本はその行動について自己の利益において善処せねばならぬことである。……しかもなお問題になることは、日本の行動が最終的に日本の利益になるや如何の考慮である」とし、「日本の行動が経済的に利益であるか。日本の行動はまた政治的に、社会的に、国際的に利益であるか、それは民福を招致するか。日本の孤立は最終的に日本に利益を齎すか、それとも損害であるか。日本は如何にすることが、百年の将来のために幸福であるか——即ち日本の行動の自由を認めた後で、これらのことは絶対に念頭を去るべからざるものである」と、現実を直視し課題を見据える重要性も指摘する。
結果は当たらずも議論は的確
その上で、先に紹介したように、南支那で中国と協調し、満州での外国、とりわけ米国の投資を歓迎すべきという二つの政策を提言したのだ。満州事変、上海事件で緊張度を増した日米、日中関係も、決して、一直線に日中戦争へと突き進んだわけではない。例えば34年、ベーブルースをはじめとする米大リーグの選抜チームが来日し、全国を回って大きなブームを巻き起こしている。二つの融和政策が長期的に継続、定着すれば、軟化の兆しが見えるに違いないというのが、同書における清沢の見立てだった。それは日本の時流に合わせた「政治論」でもなんでもない、リベラリストであるだけでなく、リアリストでもある清沢本音の議論ではなかったか。36年に満州国にわたった岸信介(戦後日本の総理)は、同国の計画経済・統制経済で辣腕をふるったが、一時期、アメリカ資本の満州誘致に尽力したが、関東軍の反対で実現しなかった。
ちなみに次回紹介する事変直後の内田外交批判では、リットン報告書が起草中にもかかわらず、満州国を承認した内田外相を厳しく批判している。起きてしまった現実、危機に対して、それを批判するだけでなく、どう対処し、打開するかを提言するのが、清沢のスタイルであると言えよう。
周知の如く、清沢の提言も虚しく、日本は戦火を中国全土、インドシナ半島へと拡大し、アメリカとの開戦に至る。結果的に清沢の「戦わず」は外れた。だが、清沢が示した戦争回避策は、全て無視され、開戦へ展開したわけだから、清沢の議論が間違っていたとは言えないのではないか。






















