連載の第1回では清沢の中国論の基盤となる彼の自由主義の原点を紹介した。第2回は、さらにこの自由主義から生まれる清沢の外交論、経済と政治に対する基本的な考え方、また大衆世論とメディア(新聞)の関係に対する見方を紹介する。いずれも次回からの清沢の中国論の基盤になっている。
日本外交の特徴
清沢は自由主義の立場に立って、軍国主義や日本の世相を切り、日米関係や日中関係、外交問題を論じてきた。彼の議論は帝国大学出の知識人の難解な議論ではなく、卑近な例を挙げ、わかりやすく展開する。まず日本外交に関する清沢の指摘を紹介しよう。清沢は外交にも「物理的原則が働く」という。
国の外交は、時に飛躍することもあるし、時に退嬰的なこともある。だがあまり飛躍しすぎても、あまり退嬰すぎても、結局は物理的原則により水平なところまで帰って来る・そしてその水平は、厳にその国の実力の線に沿うのである(『日本外交史』1942年)
その上で、清沢は明治以降の日本の外交の特徴の一つとして、民間の輿論が常に強硬で、政府の政策が常に慎重だったと回顧する。
絶えざる膨張を目がけながら、しかも国力がこれを支持出来ぬような線へ逸脱しないことを心がけるのが指導者の任務だ。この点で日本は、殊に明治年間において誠実にして聡明なる政治家に恵まれていた。彼らは一方に無責任なる輿論に叩かれながら、そして時々に暗殺の危険に面しながら——実際また凶手に斃れた者が多かった――冒険に赴くことを拒絶した。彼らはその態度において極めて真面目であった。
清沢が高く評価した明治の外交家は、日清戦争、日露戦争の終戦交渉に当たった陸奥宗光、小村寿太郎だ。彼らは日清、日露戦争の勝利で過大な賠償を期待する大衆世論から激しい非難を受けながら、日本の国力に適った条件で交渉を行ったと清沢は言う。この評価の裏には、大衆世論に媚び、焦土外交を唱え、昭和の外交を誤導した内田康哉、松岡洋右への批判が込められている。内田、松岡外交に対する清沢の批判は、中国に関わることなので、次回以降のテーマとなる。
外交と軍事
さて、清沢はこの外交と軍事の関係について、当時の国際情勢に沿って、彼独特の見方を披露する。まず基本認識として、清沢は「国家が安心をするためには二つの道があって、一つは軍備を備えて相手が乱暴をするようなことがあった時には、これを防備するということ、今ひとつはそれと並行して条約を作ってお互いの不安を除去することであります」(『混迷時代の生活態度』)と述べる。
しかし、この本が出された1935年当時、日本は満州事変をきっかけに国際聯盟から脱退した時期だった。条約は無視され、機能しない状況にあった。
近頃は国際聯盟が微力になったり、条約が尊重されなくなって以来、その条約に対する信頼というものが非常に薄くなったのであります。今まで両方の脚で立っておったところが、その一方の脚の条約というものがなくなった。そこで軍備だけで立たなくちゃならぬということになった。
となると、多くの知識人は直接、軍事依存の危険性を訴えることになるだろうが、清沢は軍部批判を巧みにかわしながら議論を進める。「政治家なら内閣が旨く行かなければ、他の人に政権をやってもいいのでありますけれども、軍人は最後まで自分の国を守る責任を他の人に負わせられないのである。自分がやらなくちゃならない。従ってそこには責任もあるから軍費を余計取りたいと主張することは、この人々の立場として無理のないことであります」と軍にも一応理解を示す。
その上で、「私どもの責任としましては、その一度無力になった条約の信用を取り返す、その方面に今少し力瘤を入れることなのであります」と外交の重要性を訴える。なぜなら「軍備というものは消極的な存在でありますから、積極的に手を伸ばして親善関係を結ぶということは困難だ」と、軍備優先の時代をやんわりと批判する。
国際主義と国家主義
そして、外交と軍事の比較を、国際主義と国家主義の比較へと議論を展開させていく。
相手を敵と見る場合にはこれを喧嘩しなくちゃならないのでありますが、相手を商売相手だとみる場合には、これは仲よくして栄えていかなくては困る。国家主義と国際主義というものの相違はそこなのです。国家主義は大体に相手を敵と見る対立関係を常に考える。支那が偉くなっちゃ困る。何故ならばいつ攻めて来るか判らぬ。また日本が自由に権力を振るえないから困る。ところが国際主義者はいわば共存共栄、商売的なのです。だから自分の方もよくならなくちゃならないが、同じように相手もよくならなくちゃならない。この相互が栄えることが即ち私ども自身が幸福になることである。これが国際主義と国家主義の相違なのであります。
清沢の議論にはしばしば「商売相手」といった功利主義の一面が顔をのぞかせる。外交面で強硬な姿勢を取る大衆を説得するには損得勘定を示すのが効果的だ。拙著『民族自決と非戦』で取り上げた福沢諭吉や石橋湛山にもそうした功利的な議論が登場した。それは後に詳述するとして、まず国際主義と国家主義の問題を解決しよう。
相互信頼の醸成に努めよ
国際主義を貫くには何といっても国家間の信頼関係が大切だ。清沢は『黒潮に聴く』(1928年)の中で、アメリカとカナダは国境線を接しているのに、不安が生じないのに、「四千マイル隔てた日本に対しては、いずれも疑心暗鬼にかられて、絶えずその国防足らんざらんことを懼れているのな何故か」と問い、「それは国防というものが地理的関係で生まれるものであるよりは、その国民が他国民に対する信不信の心的境地から生まれる警戒の念に発するが故」であると述べる。
その上で、「国防が全く相対的なものであること、そして国防この国防方針はその時の国際的事情及び相手国に対する観察の如何によって異なってくるものであるとすれば、この国防方針の樹立は軍人と言う衝突した場合における軍事的技術家、そして多くの場合、それだけしかわからない人々に委すべきではものではなくて、絶えず国際状態と外国の事情を研究している国際問題研究家の領分であることを知ることができるはずである。私は日本の不幸、そして各国の不幸は、国防のことをあまりに軍事的技術家に任せすぎたことにあると思う。今こそ、彼らの手から経済的に産業的に最も重要であるこれらの問題を取り上げて、改めて限られたる技術的方面のみを彼等に託すべきである」と、主張する。
清沢の議論を、日本の昨今の外交、防衛の状況に当てはめて考えてみると、アメリカの軍事専門のシンクタンクが描いた台湾有事のシナリオに、日本外交が余りにも強く動かされていることに気づくであろう。最悪の事態を想定して、それに対応する防衛戦略を描くことは当然大事なことだが、その一方で信頼関係を醸成する外交的な努力によって、最悪のシナリオを回避することがより重要であり、また可能でもある。ところが、日本の動きは、防衛力の強化を図る一方で、外交的には中国との直接交渉を避け、周辺国に中国包囲網の形成を呼びかけるばかりで、中国側の警戒心を招くだけの結果となり、相互不信を高めている。
清沢はさらに同じ『黒潮に聴く』の中で、当時イギリスとアメリカがそれぞれ、民族自決に覚醒した中国とメキシコで、居留する自国民が暴力の脅威にさらされても、圧倒的な軍事力を行使できない状態にあることを例に挙げ、「国民的に自覚する国家の前に、他国の管理乃至領土占領の如きが到底可能なるものにあらざるが故である」と指摘する。そうした発想から清沢は日本の大陸への軍事的な進出に反対した。
経済と政治、軍事のバランス
さて、清沢の功利主義あるいは経済に関する見方に議論を戻そう。
清沢がこの問題に関し、専門的に論じた著書はないが、これも横断的に読んでいくと、清沢らしいユニークな見方が見えてくる。清沢は『現代日本論』(1935年)の中で、「総ての原因を経済の一元に帰するのは事実に遠いものだ」とマルクス主義を批判しつつも、「従来の歴史観が人的要素のみを重視したのに対しマルキシズムが経済的必然の重大性を指摘したのは確かにでありました」と経済分析の有用性を強調する。以下の引用は経済そのものを論じた場面ではないが、「人間には自然法というものがありまして、そう極端に行くことを許さない。その反動が社会のために非常に怖いのであります」と述べ、自然法という概念を持ち出し、経済そのものや、経済と政治、軍事などの間のバランスある健全な発展を強調する。マルクス主義の経済決定論に反対するが、清沢は国際情勢や日本外交のあり方を論じる時、経済分析を基本に置いて、政治や軍事、外交の行き過ぎを批判した。
1929年に刊行した『転換期の日本』で、清沢は経済の基本的な考え方として、「国富というもの造るものではななくて生まれるものである。国家が混乱を押えれば資本は自然に生まれ、文化はそこから自然に芽生える」と述べる。そして、第3編第2章で「日本はどんな国か?」との議論は、まさに日本の国情を日本の置かれた経済の基本的状況から説き起こす。
- 日本は産出するものだけでは衣食住に不足する。
- 衣食住だけでなく、産業の原料や機械なども外国に仰がなくてはならない。
- 日本は工業国というが、まだ一人歩きできず、日本を背負っているのは、(農業産品の)生糸の輸出である。
- 人口は増加の一途をたどっており、その衣食住と雇用の増加に迫られている。
したがって、原材料の輸入先であり、生糸の輸出先であるアメリカと戦えば、たちまち衣食住や資源の調達に事欠き、工業の運営もおぼつかなくなるという。中国に手を出しても、中国の国民だけでなく、欧米列国の反発を招くとも指摘する。日本の将来は、自由貿易の拡大によって、産業立国に道を歩むべきであり、そのためには、弱い中国ではなく、強い中国の方が望ましいと述べる。これも次回以降のテーマとなる。
ところが日本の現状はどうかといえば、同書で「算盤にのらぬ愛国心」として、「愛国心の悲劇」について語る。当時の田中義一内閣の山東出兵をその典型として取り上げ、「愛国心から出発した国策」の出兵の経済的損失を、数字を挙げて指摘し、愛国心が日本の苦境を招くと批判した。
満蒙の問題にしても、その重要性はさることながら、これを守るために一切他を顧みないという態度が日本の国策としてとるべきであろうか。『特殊権益』から来る利益が前述したように仮に五千万円あるとして、その額は日本の対支貿易の約十億円の五分にしか当たらない。……この額(貿易額)は支那の統一がなり、購買力が進むに従って、急速にかつ無尽蔵に増加するのである。
日本は人口の急増という問題を抱え、産業立国と言っても、産業基盤はまだまだ弱く、長期的な経済発展戦略を考えなくてはならない。移民体験のある清沢はアラスカ、パプアニューギニアなど未開発な地域への移民も日本の経済問題の解決策の一つとさえ提案している。ところが、現状は大陸への軍事的な進出ばかりが前面に出ているというのが清沢の批判だ。山東出兵、満蒙侵略の批判の詳細は、次回以降に改めて紹介したい。
強硬な大衆世論とメディア
清沢はアメリカで記者修行を積み、邦字紙のオーナーの紹介で、帰国後、1920年(大正9年)中外商業新報に入社し、その後、朝日新聞を経て評論家として独立する。その経験を踏まえて「現代ジャーナリズム批判」という日本の新聞とそれによって育まれる大衆世論に対する鋭い批判(講演、1934年、岩波文庫『清沢洌評論集』所収)を残している。
まず清沢は人間の精神的方面を、「一つは第一思念、感情、伝統、それから習慣というようなもの、第二思念とは理性、即ち教育と訓練の結果、そこに生ま得る反省的、批判的なもの」の二つに分ける。そして「新聞はかつてその第二思念を狙った時がございました。……ところがその新聞が非常におおげさになりまして、読者を広く日本の各層から漁らなければならないという時代になりますと、どうしてもその新聞は社会のあらゆる層を目がける必要があるのであります」と、新聞は発行部数が10万部超え、100万部をうかがう大衆新聞時代になって、全く変質したと批判する。その結果、「多くの読者を漁るために、どうしても国民が持っており、国民が考えておる傾向を裏書し、喜ばせるような記事でみたされなくちゃならんということになるのであります」という。
その裏返しでもあるが、日本の新聞の特色の一つは「非常に国家主義の色彩が濃厚である」と指摘する。そして「この結果第一に最近の新聞を観て感じますることは外交に対する批判がないということであります。外交というものはご存知の通りに相手国と交渉することであります。一人で外交が出来ないのは一人で角力がとれないが如し。然し日本精神の立場からいえば、相手にも五分の理屈があるというふうなことを認めるということは、これは国を売る者見たように考えられるのが普通であります。外国との交渉の場合には百%理屈がこちらにあって、相手は全然嘘であるか、全悪であるという風に解釈しないというと、それは国を愛する者ではないという風に解されてようであります」とも指摘する。
すでに冒頭、日本の外交の特徴の一つは民間の意見が強硬と清沢の見解を紹介したが、その世論が新聞というメディアによって、拡散、拡大していくことになる。この時期、厳しい言論統制が敷かれていたが、それは政府や軍を批判する議論を抑える統制であって、国家主義や軍国主義を煽る統制ではない。軍や大衆に迎合する強硬論は新聞自身の社業拡大の必要性から出発し、国を挙げての戦争礼讃の世論へと盛り上げた。それは、次回以降取り上げる日本の大陸侵略を、後戻りできない状態に追い込んだ。
清沢の代表作『暗黒日記』は、戦後の徹底した戦争批判を行なうための記録という目的もあった。そこには、今となっては空虚なスローガンと陳腐な論理で戦争を煽る新聞記事が多数添付されている。清沢は、『暗黒日記』に見られる国家主義・軍国主義批判にとどまらず、当時の日本社会の抱える問題を、病理から明らかにしたと言えよう。北岡伸一は「彼が痛烈に批判した現象の多くは、日本社会が長く培ってきた病理的傾向の最も凝縮した姿であり、その批判は、現在の日本を考えるに際して極めて示唆に富んでいる」(ちくま学芸文庫版『暗黒日記3』解説)と述べている。
