柳条湖事件から満州占領、満州国建国とその承認、上海事変へと、矢継ぎ早に日本が攻勢を強める中、中国は国際聯盟に対して提訴し、対立の舞台は外交戦に移った。日本は頑なで拙劣な外交によって孤立し、国際聯盟脱退へと突き進む。清沢洌はその過程を真っ向から批判した。
外交の禁制を侵す内田外交を批判
1932年12月、中国側の提訴によって、満州事変に関する国際聯盟特別総会審議が始まる。清沢は中央公論1933年3月号に「内田外相に問ふ」を、また日本の国際連盟脱退後の5月号には「松岡全権に与ふ」を発表し、内田外相の焦土外交で機能不全に陥った日本外交を痛烈に批判した。
まず清沢は、内田康哉外相に対して、「今までわれ等は、事外交に関するが故に、そしてわが国が重大なる国際的岐路に立つが故に、出来るだけ力を一にして、この難局を切りぬけることに務めて来た。時にあなたの政策に対して雲のやうな疑惑が沸いたことがあったけれども、その時にさへわれ等は時局の重大さに鑑みて、好意ある沈黙を守って今に到ったのです。しかしながら差し迫る国家の安危と、われ等の良心は、これ以上にわれ等をして沈黙することを許さない」と、批判の決意をあらわにした。その上で歯に衣を着せぬ論調で内田外交を切って捨てた。
「あなたの外交を通して根本的な謬りは、余りに断定的であり、余りに固着的であり、また常に最後の死線を国民に約束してしまうことであります。あなたは議会において、就任怱々、焦土となっても国権を守ると云はれました。焦土となっても国を守るのは軍人の領分であって、あなたとしては身を賭しても、さうした事態を持ち来たらしめないことを、その職能とせねばならぬ」
まるで外相に向かって、外交とは何かを、基本から講義をするような調子である。そして、具体的に満州事変をめぐる内田外交の大きな誤りとして、①リットン委員会が北京にあって、その報告書を起草中に満州国を承認してしまったこと、②ジェネバの聯盟会議に松岡洋右氏を送ったこと、を挙げる。
①に関して、清沢は「その後貴方はただ頑張り通した。『一歩も引かない』とか『最小限度の要求』とか、およそ外交辞書に発見出来る強硬文字で、あなたの口を借りないものは一つもないといってよかった」と指摘し、「それは正に絶対的な背水の陣を布くものであって、日本の外交的地位を釘づけにしたものであった」と批判する。
清沢に言わせれば「外交といふものには、二つの禁制があります。一つは『断じて』とか『常に』とかいふ断定的な言葉を使はないことであり、第二は決して結果を急がないことである。この二つの禁制に背いた外交は、過去において、長い眼でみると屹度失敗してゐます」ということになる。外交とは交渉であり、その都度妥協によって対立を解消していく。それが最初から背水の陣を布いて一切の譲歩、妥協を排してしまったら外交にならない。清沢は、「世界始まって以来、かくの如く大胆なる声明を外交開始当初になした外交官が他にあろうか」と皮肉る。
焦土外交ではなく円満無礙の外交を
だが、日本の新聞は内田外交を「日本の正義」と、賞賛する。清沢はそのことを重々知った上で「なる程、国民の輿論は貴方を支持して居り、あなたは尚人気の中心にある。……国内において外相としてその外国政策が人気のあることと、世界において日本が人気あることとは全く別です。否、事実は正反対であることは、誰に分からなくでも外相の任にある貴方には分かってゐねばならぬ。もし貴方が真に国を愛するならば——それを誰が疑ひませう——所謂国論に抗しても、不人気なる政策を行って、知己を十年——然り、十年で十分で長きを要しない——の後に求める意志はないか。これについてあなたの切実なる熟慮を求めることが、この書の目的なのです」と、批判の語気を一層強める。
②の過ち、松岡全権の派遣も大衆受けするものであった。しかし、清沢は全く状況認識ができていないと、内田をこう批判する。
「考へて見て下さい。日本は満州における自衛的行動から、世界から無類の侵略国のやうに見られていた時です。その上に内田外相が焦土外交を叫んでゐたのです。この時に日本が世界の舞台であるジェネバでなすべき外交は、円満無礙の外交——すなわち平和的空気を示す外交であるべくして、××として炸裂する外交であってはならぬ筈です。日本が世界から侵略国の汚名を受けてゐればゐるだけ、せめてその外交は臆病なほど平和的でなければならぬ。それが日本を窮地から救ひ、世界の諒解と同情を集むる所以である」
実際、松岡全権のやったことは、「あなたの焦土外交の感化を受けて、常に背水の陣をしき、……如何なる場合にも、まづ持ち出したのはオブストラクションの手であり」、日本を孤立に追い込むばかりだった。
清沢の分析では「元来、聯盟の決議に不満足なのは日本ばかりでなく、支那も亦然りである。支那がその決議をその儘受け入るやは疑問であった。然るに今のところ、日本のみが聯盟の和協努力を妨げてゐるかの如き印象を世界に与へてゐるのは何故であらうか。私はあなたに、国策あって外交なき結果であることを信ぜざるを得ません」とまで言い切る。
この論文にはいくつもの伏字があり、検閲も厳しかったはずだが、危機感から出発した批判の舌鋒は鋭いものがあった。さらに、清沢の批判は、新聞や大衆世論にも及ぶ。
「私の解するところによれば、わが国民は誤まれる教育のために、外交を戦争と心得てゐます。かれ等の重大なる関心事は勝つか敗るかであって、国家百年のために幸福か、不幸であるかではない」
日本が孤立状態に陥っていることに、「幼稚なる日本の新聞の社説などが手伝ひます。近頃国際問題を論じる新聞の社説などは、まるで論理になっていません」と新聞批判も忘れない。だが、清沢は「私の貴方に対する不満は、この国民の弱点を是正しないで却って利用していることである。強硬でさへあれば喝采する国民の心理を乱用して、焦土外交をいひ、向ふ見ずの自立外交を主張している点である。そしてそこに何等の目標と、抱負と、政策なくして、ただ猪突して、日本を全く孤立に陥れた」と指摘してやまない。そして結論に至る。
「私は国家の前途を、心から憂えるものとして貴方に祈願する。あなたはこの重大岐路に立つ日本を救ふために、日本の輿論に背を向ける意志はないか。大外交家が日本で人気よかった試しはない。今こそ大外交家といはれる小村外相は、ポーツマスで平和条約を結んだがために、東京の焼打と国民的反感の標的となったではないか。私は貴方がせめては小村侯の決意と見識とを持たれることを祈るものなのです。もし貴方にこの決心がなかったら、私は国家のために貴方が辞職さるることを要望する」
誠に小気味よい内田批判だが、それは敗戦後の今だからそう感じられるのであって、内田外交は大衆や新聞の喝采を浴びていたのだ。その中での清沢の内田批判は刮目に値する。
大衆大歓迎の国際聯盟脱退への皮肉
続く「松岡全権に与ふ」は、すでに国際連盟を脱退し、松岡洋右が帰途、アメリカに立ち寄っている段階での評論だ。書き出しから痛烈な皮肉と批判で始まる。
「なによりもまず貴下が大任を果たして無事に帰朝されたことをお祝い申上げます。この文を書いている時に、あなたはまだ米国におられましたが、あなたが横浜、東京に入り込む時の光景が、今から想像されて胸の踊るのを禁じえません。上は廟堂の顕官から、下は都下数万の小学生までが、沿道人牆を造って、いかに感激と誠意を以てこの時代の英雄を迎えるでありましょうか。あなたの古い友人として、われらは自分事のように誇りと喜びを感じます」
清沢の予想通り、松岡は歓呼の声で迎えられた。しかし、松岡の心中はそれほど穏やかでないことを、清沢は見抜いていた。この引用文は「松岡さん、あなたまさか、大衆の歓迎を手放しで喜んでいるわけではないしょう」との皮肉が込められた文章なのだ。
松岡の随員として総会に出席していた陸軍の土屋勇逸中佐は、戦後書いた「国際聯盟脱退管見」(現代史資料11『続満州事変』みすず書房所収)の中で、松岡が帰途米国に寄った理由を「事志とチガッて、日本に帰っても顔向けはなるまい。ままよ暫くアメリカに姿をクラマシて、ホトボリがさめるのを待とうと決心した松岡さんが、私共にも同行を求めた」と証言している。
日本の聯盟脱退は、松岡の「日本政府はいまや日支紛争に関し聯盟と協力する努力の限界に達した」との演説と会場からの退場のシーンがあまりにも鮮烈で、脱退は松岡の主導であるかの印象を与えるが、実際は異なっていた。清沢は脱退に至る舞台裏の情報を得ており、「松岡全権に与ふ」の中で明らかにしている。
脱退劇の舞台裏を明かす
清沢は会議の最終局面で「日本にとって相当に有利に回転していた」、「殊に最後のドラモンド杉村案の如きは最も難関である満州不承認問題を、単に議長の宣言によることにし、日本はこれに承服せざることを堂々と声明して決着をつけるものであった」と明かした上で、次のように述べる。
「私が聞くところに謬りなければ、あなたはこれを承認したい意向のようであって、政府に対しても右の旨請訓したと聞いています。その頃、あなたは親しい人と好きな散歩に出られて、ジェネバ湖の水に見入りながら染々と話された──『おれはこうして譲ったことに対して国に帰ったら真先に国民に陳謝する。おれに力なくして日本の主張を全部通せなかったことについては、心から責任を感じているんだ』」
さらに清沢は松岡が受け入れようとした妥協案が拒絶された経緯も暴露する。
「ここで不幸なことは、あなたには頑強、石のような長官があった。これも、もし私の聞くところに間違いがなければ始めから終りまでかれのみ一人頑張った。強硬を以て世間に見られているある方面でさえも承認したこの案をかれのみがただ横に首を振ったというのです」
ここでいう「石のような長官」とは内田外相であり、「強硬を以て世間に……」とは軍を指すことはいうまでもない。加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(新書)は、『松岡洋右 その人と生涯』(講談社 1974年)収録の内田宛の松岡の電報を引用して、松岡が脱退は日本のためにならないと内田を懸命に説得していたことを確認している。清沢は外務省にしっかりとした情報源をもちながら評論していたことがわかる。
松岡をめぐる歴史修正主義
ちなみに『松岡洋右 その人と生涯』は、松岡の義理の甥にあたる佐藤栄作元首相の肝いりで刊行され、松岡に関する膨大な資料、証言に基づいて描かれた松岡伝である。1200ページを超える大著だが、幸い国立国会図書館のデジタルコレクションに収められており、ざっと読む機会が得られた。私の感想は、膨大な資料を盛りながら、都合の悪いものを掲載せず、多分に歴史修正主義のにおいがふんぷんとするということだ。
それは佐藤の書いた序文からもうかがえる。満鉄総裁としての大陸経営、首席全権としての満州問題に関する国際聯盟会議の出席、第2次近衛内閣の外相として、日独伊三国同盟、日ソ中立条約の締結などの実績を挙げ、「軍の仏印進駐に強硬に反対して戦争を未然に防止しようとした」「日米交渉に骨身を削った」と称賛する。だが、「これらに関して時に彼の素志と違った結果になり、そのために閣内の不統一を来したり、国民の批判を受ける目になったこともある」と認める。佐藤はそのうえで「松岡の言行は根本的に国を愛し、国運を打開したいという一念に発し、平和のために万全の策を樹てて傾倒したことに正しい理解を」を求める。
だが政治家にはその心情以上に、その結果責任が求められるのではないだろうか。心情が正しくとも、その手段、方法を誤り、結果を出せなければ責任を問われるのは当然だ。松岡の場合、独断的、独善的で、相手の話を聞かない。対米交渉では、アメリカ流の交渉術を心得ていると自負し、強硬一点張りで相手の疑念を増幅させ、交渉を困難にするばかりだった。
松岡は日米開戦の当日、病の床で「三国同盟の締結は僕の一生の不覚だった。……事ことごとく志とちがい、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと死んでも死にきれぬ」と涙したという。だが、この本では、この涙も天皇への忠節心の現れと、美談として扱われてしまう。
松岡批判の念押し
さて国際聯盟脱退後の傷心の旅に話を戻そう。この旅も『松岡洋右 その人と生涯』によれば、アメリカの新聞王、ロイ・ハワードの招請を受け、日本の立場をアメリカ国民に理解してもらう旅になったという。松岡はニューヨーク、ワシントン、シカゴ、デトロイト、サンフランシスコなどを回った。その際の講演会やラジオでの演説、ルーズベルト大統領への非公式訪問などの模様が同書に詳しく記録されている。そこには傷心、悔悟の言葉などまるで出てこない。松岡は強靭な精神の持ち主だからすぐリカバリーして、次のミッションを自ら見出していったのだろう。
それは彼の長所でもあり、短所でもある。だから清沢は松岡に対する評論で、日本の大衆から歓呼の声で迎えられても慢心してはいけないと、冒頭からクギを刺したのだ。
その上で清沢は最後に脱退後の日本の進むべき道について松岡の責任を問う。
「日本は明治維新以来始めて世界に孤立したのであります。従って国際日本の再発足については、貴方は何人よりも責任があり、抱負もあるであろう。外務省の希望に反してまで、特に米国を通過して帰朝されたのも、これがためではないでしょうか」
清沢が、その上で課題の一番目に挙げるのは満州国の建設だ。「もし満州国が無事に成長し、立派な国家にさえなれば、聯盟の不承認決議などは実際問題として失くなってしまいます」という。そのためには満州国の安定的な環境が必要であり、必要な事として、①日本が全面を露出している米国と平和を確保すべき、②満州国が全面を露出しているソヴィエト・ロシアと、不侵略条約を結ぶべき、③満州国が長城をへだてて相接する支那との関係を改善する──ことの3点を挙げた。
ただ清沢は最後に、日本の根本方針は、一部において伝えられる「西洋と全然縁を断ち、全力を東洋に向ける」のではないと念を押す。「懼れ多きこと」と清沢は断りながら、脱退後の天皇の「今ヤ聯盟ト手ヲ分チ帝国ノ所信ニ是レ従フト雖固ヨリ東亜ニ偏シテ友邦ノ誼ミヲ疎カニスルモノニアラズ。愈信ヲ国際ニ篤クシ大義ヲ宇内ニ顕揚スルハ夙夜朕ガ念トスル所ナリ」の詔書を引いて、松岡に国際関係の再建を訴えた。
その7年後松岡は満鉄総裁を経て近衛第二次内閣で外相に就任、日本外交を一手に担うようになる。すでに述べたように日独伊三国同盟にソ連を加えた四か国同盟構想で米英に対抗し、その譲歩を引き出し、消耗戦に入った日中戦争の打開をも図ろうとする。だがかえって米英を敵に回し、太平洋戦争とその敗戦の遠因を作った。清沢の松岡批判と警告を読めば、近年の松岡をめぐる歴史修正の動きがいかに空しいものか、わかろうというものだ。
外相時代の松岡に関する清沢の評論はない。もはや自由な評論が禁じられていたからだ。数少ない言及は外交史研究の中にあった。『日本外交史 第6篇大東亜戦争の外交』の中で、三国同盟や日ソ中立条約の締結について、「松岡の功績として喝采された」「この松岡の人気はヒトラー、ムソリーニ、スターリンといふ如き巨頭と意気投合したといふ如き劇的場面に対する、わが国民の英雄主義的趣味にもよるが、また南進の姿勢が整へられたことに対する安堵の表現とも観るべきであった」と、まずは松岡外交に対する国民の反応を紹介する。ここでは清沢のコメントはないが、この記述からも国際聯盟脱退時同様、大衆受けを狙う松岡外交への批判の目を感じる。清沢のアドバイスにも関わらず、松岡外交のスタイルは何も変わっていなかった。
その上で「然るにここに二つの事実が問題を複雑化した」と指摘する。一つは「ドイツが突如としてソ連に対し宣戦を布告したこと」、もう一つは「英米の経済圧迫が加重され、物資問題が身近に感ぜられてきたこと」だ。
前者は日独伊ソの4か国体制で米英を牽制するという「平和工作としてのバランス・オブ・パワー政策は第一次大戦においても、……今回の場合も同様であることが、久しからずして証拠だてられた」と清沢はその失敗を断言する。後者は、米英の経済制裁強化から国内経済の統制が進んだが、「不馴れと官僚的革新主義に過ぎるといふ批難との二つから……民間実業界から抜かれて商工大臣になった小林一三が、事務当局との縺れが嵩じて辞職した」という。
この結果、事実上の松岡解任となる第3次近衛内閣がスタートしたが、日米決戦への流れは止まることはなかった。
国際ペン倶楽部で松岡の二の舞
「松岡全権に与ふ」以降、中国問題や中国をめぐる日米関係や日中関係についての清沢の評論はほとんどない。ただ1937年11月にロンドンで開催の国際」ペン倶楽部理事会に出席した際、「国際ペン倶楽部苦戦記」(『現代世界通信』所収、1938年)という一風変わった体験記を残している。日本のペン倶楽部の草創期で、丁度日中戦争のさなかで、恐らくこの問題が提起されるだろうということで、純粋な文学者ではなく、「さういふ問題を研究している者がよかろう」と推薦を受けて出席した。
案の定「支那は最初に国際ペン倶楽部をして日本の行動を弾劾させようとその決議文の通過を要請した」という。ペン倶楽部は政治問題に触れないのが原則であり、さすがにこの決議は採択されなかった。そこで中国側は「手を変え、日本が支那における大学や病院などを破壊しているが、文化人としてこれに抗議せよという要求を出した」。もともと清沢には「支那があらゆる機会をつかんで対外的宣伝をしてゐる」との警戒心もあって、「どこの国の馬鹿者がさういふ文化施設を特に破壊するものか」と反対論を展開する。理事会側は清沢をなだめ、妥協策を出し、最終的に「日本政府に対し、軍事行動の際、破壊される危険にある文化的記念物、設備を尊重する総ゆる適当の努力をなすこと祈願する」とした上で、さらに「軍事行動の場所が日本に移されたる如きの場合には、支那政府に対し、同一の祈願をなすこと明らかにせん」との案をまとめた。日本非難ではなく、日本への希望の表明に留めたのだ。
それでも清沢は、最終案も政治性を含んでいる、日本政府も軍も文化施設を尊重すると何度も声明してきたなどと譲らない。理事会側は「あなたも文化施設が破壊されることには反対だろう。せめて棄権にしては」と説得されたが、反対を貫いた。日本のみ「反対一」の結果は、皮肉にも松岡の国際聯盟脱退時と同じだった。
「日本人にリベラリストはいない」か?
清沢は帰途、ワシントンに立ち寄り、「英米に筆陣を張って、殆ど四十年近く祖国のために英文を以て弁護の任に当たっている有名なる日本人論客」を訪問した。ロンドンでの体験を話題にしたのだろう。すると、この論客は「日本人はほんとにリベラリズムに徹底することが出来るだろうか」とうめくように語り、「正を正とし、謬りを謬りと主張することがほんとに国家のためなんだ。ところが僕は何か事件が起ると、一から十までを全部日本のために弁護してしまうんだ」と清沢に同感する。その上で「かうして努力しても、時に非愛国者のやうにいはれるんだ。ほんと嫌になるよ」と論客は嘆いたという。
ロンドン、ワシントンでの体験を、清沢は「この四面に『敵』を受けて、日本人として更に祖国に石を投じることがどうして可能であろうか。民族意識は三千年の血と流れて、殊に外国人に対して燃えたつのである。だから、海外にある日本人ほど、熱烈なる愛国者、国民主義者は少ない」とまとめる。
これまで紹介してきたように、清沢はリベラリストの立場から非理性的な愛国主義、国家主義を批判してきた。しかし、海外に出ると、とくに中国の宣伝戦に直面すると、清沢でさえ感情的に愛国主義に陥ってしまうと正直に告白している。ただそれは日本人にリベラリストはいないではなく、リベラリストも愛国主義者であるということではないだろうか。この論客もいうように、「正を正とし、謬りを謬りと主張することがほんとに国家のためなんだ」とリベラリストは考えるなら、それは愛国主義者であろう。愛国主義は国家主義者や軍国主義者の専売特許ではない。リベラリストも人間だから、時に感情的になり、リベラリズムから離れることもある。
空虚な精神主義を批判した『暗黒日記』
清沢の戦中日記である『暗黒日記』では、徳富蘇峰など神がかりの国家主義者、軍国主義者、空虚な精神主義者を批判する場面がしばしばある。これらの人々が本当に愛国主義から出発して議論しているのか、権力欲、名誉欲からなのか、大いに疑問の残るところだ。
『暗黒日記』は1942年12月9日、「近頃のことを書き残したい気持ちから、また日記を書く」から始まる。もはや自由な評論は許されないから、日記という形で日々の想いと資料、記録を残し、戦後に備えたのだ。冒頭から国家主義、軍国主義への批判とメディア及びメディア政策批判が展開される。
「昨日は大東亜戦争記念日(大詔奉戴日)だった。ラジオは朝の賀屋(興宣)大蔵大臣の放送に始めて、まるで感情的叫喚であ った。米国は鬼畜で英国は悪魔でといった放送で、家人でさえもラジオを切ったそうだ。かく感情に訴えなければ戦争は完遂できぬか。奥村(喜和男)情報局次長は先頃、米英に敵愾心を持てと次官会議で提議した。その現れだ」
「英米は自由主義で、個人主義で起てないはずだった。いま我指導者たちは英米の決意を語っている」
「大東亜戦争一周年において誰もいったことは、国民の戦争意識昂揚が足らぬということだった。これ以上、どうして戦争意識昂揚が可能か。総て役人本位だ。役人のために政治が行われている」
それから約2年の1945年1月1日。
「昨夜から今暁に三回空襲警報なる。焼夷弾を落としたとこ
ろもある。一晩中眠られない有様だ。……日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だとかいって戦争を賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由からだった。……当分は戦争を嫌う気持ちが起ろうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることもひつようだ」
時はすでに本土空襲から本土決戦さえささやかれる時期に差し掛かっていた。だが、戦争指導者はもちろん新聞も、これを好機として国民が一致団結して反撃しようと号令した。清沢が民間第一の戦争責任者と批判してきた徳富蘇峰が元旦の毎日新聞に「一億英雄たれ」と書いたと、その記事を『暗黒日記』に貼り付けている。蘇峰は半年前にある内閣顧問に「これまで我ら言論人も声を限りに叫び来った。しかし微力にして寸効なし。この上はいずれ遠からず帝都の真中に敵の爆弾が落下するであろうから、その時を待つほかあるまい」と見通しを語ったが、「今や半ヶ年を距ててそれが実現せられた。我らもまた皇民の一人である。敵の爆弾を歓迎すべき理由はない。しかし来るものは来た。これを好機とし、これを好潮合、これを一大転機として、我が一億皇民の心構えを一回転せずんば、将いずれの時を期すべきぞ」と相変わらず気炎を上げた。
清沢は蘇峰の記事について「その意は日本人が覚醒しないから、『帝都の真中に敵弾を落して覚醒せしめる外はない』といった意味に解される。かくの如き無責任な言があろうか。徳富は戦争開始の責任者でありながら、その罪を国民にきせているのである」と批判している。
終戦を語るのは非国民か
このころから清沢は終戦や戦後について仲間と議論を重ねている。三月六日の日記では「昨夜、植原悦二郎氏(清沢と同郷で米国移民体験もあり、戦前衆議院副議長務めた政治家ーー高井)が話したいとのことにて、正午、山王ホテルで会見す。同氏の話しによれば、同氏は戦争終了について重臣方面に話しをしている。若槻(礼次郎)とも逢い、岡田啓介とも会談。幣原とも逢ったが、幣原は対外的なことばかり考えていてーーすなわちあくまで抵抗すべしとのみ考えて、内政的なことを考えていないから僕に機会があったら話してくれというのである。岡田も小磯が駄目であることを知り、これを何とかせねばならぬといっている。……植原氏は無条件降伏はそれ自身恐ろしくないではないか。その上で当方から条件をだすこともできるのだといっていた。植原氏はやはり愛国者である」と記している。
四月一日には、斎藤内閣で商工大臣を務めた松本丞治氏が来宅し、時局談となったと、その内容を箇条書きしている。
一.松本氏は戦争終結として日支事変以前の状態に復帰する程度でよからんといった。僕は、とてもそんな程度ではすむまいといった。
二.憲法に手を触れなくてはなるまいが、宣戦講和について議会の協賛を経ることを必要とする項目を加える程度を以て足れりとするだろうといった。これまた楽観的である。
三.沖縄島方面で、敵に大打撃を与え、それで和平の時機を狙うのがいいといった。僕はそのことは望ましいが、敵が和平を望むに至る程打撃を与え得るかは疑問だといった。ただし日本国民をして「駒」はすでに無しという事実を認識せしめることは必要だと僕は同じだ。
四.松本氏は戦争は今秋ぐらいまでで、それ以上は続くまいという。僕は、もう少し長くなるだろうといった。関東方面で上陸敵兵と激戦を交えるようなことはあるまいという点では一致した。その頃には当方に、それほどな戦力はあるまいというのである。
五.松本氏は、日本人は優しい国民であるから、大した乱暴はしないという。僕は日本人は優しくないという。支那その他における日本人の行動が、それを示すといった。
六.戦争責任者として東条、近衛、松岡、木戸の四人は免れぬと松本博士はいう。
おおむね厳しい見方をする清沢の方が正しい結果となった。ちなみに松本は戦後の幣原内閣で憲法改正担当大臣として、改正草案を作成した。だが内容が保守的だとGHQから却下された。
五月二日には、「坂本氏のところに寄る。また、たまたま鳩山一郎氏あり。ティータイムにごちそうになりながら、ここでは極めて愉快に話す」とある。「坂本氏」とは満鉄参与を務め、国連脱退時の松岡洋右全権の随員の一人であった坂本直道。鳩山は言うまでもなく戦後の総理。二人は軽井沢の別荘が隣合わせで親交あった。この席では鈴木貫太郎内閣誕生が話題にのぼり、坂本、鳩山は「赤」嫌いで、外相に就任した東郷重徳が坂本との立ち話で「ソ連を仲介とした和平」を口にしたことに批判的だった。これに対して、清沢は「僕は兎に角、戦争を終末せしめる必要がある。それがためには、(一)無条件降伏、(二)ソ連を仲介に立てるか、(三)蒋介石を立てるか、(四)米国あたりにいい出すか(これはソ連の例にみて駄目だが)だが、いずれの道でも、目的を達すれば、それをとるべきだといった、と書いている。
これより前の四月二十三日には興味深い記載があった。
「赤軍、ベルリンに突入す。最後までナチは踏み止まり玉砕。斯かる戦争方法が賞賛さるべきか。……日本においては、この前例は恐らく「日本精神」の模範たるべし。問題は皇室が日本に在り、ナチス戦術は必ずしも上層階級の支持を受けざらん」
日本精神なら一億玉砕となろうが、皇統の存続を考えればそうはいくまいと清沢は見ていたのだ。一億玉砕を叫ぶことが愛国主義で、終戦を語ることが非国民か。歴史を紐解けば言わずもがなであることを、暗黒日記は教えてくれる。残念ながら、終戦を待たず清沢は急死する。戦後も清沢が存命であれば、終戦を語り合った人々の顔ぶれを見ても、戦争責任の追及のあり様はもっと姿を変えていたに違いない






















