清沢洌と中国

第03回

移民体験がにじみ出る中国論

 いよいよ今回から清沢の中国論に入る。
 清沢は大正13年(1924年)6月から三か月にわたって朝鮮、満州、中国本土を旅行した。大正14年にもシベリア視察団に加わり、途中、京城、平壌、奉天(現瀋陽)、大連、ハルビンに寄っている。当時、米邦字紙のオーナーの紹介で中外商業新報(現日本経済新聞)の外報部長となっていた。この時の印象に基づいて、翌年に刊行した『黒潮に聴く』及び翌々年出版した『転換期の日本』で独特の中国論を展開している。

「免疫性の中国」

北伐を率いる蒋介石北伐を率いる蒋介石

『黒潮に聴く』の「免疫性の支那」という一章は、まず済南から天津に向うため、深夜人力車に乗って駅に行く途中の目撃談から始まる。通りの両側に大きな包みがごろごろ転がっている。何だろうと伸びあがって見ると、包みがムクムクと起き上がった。その正体は布袋にくるまって寝ていた人力車夫や荷物運びの人足だったという。この話を天津でアメリカ留学帰りのエリート中国人にすると、「もし外国の人がそうした生活をしていれば直ぐ病気になってしまう。しかし極めて悪質な病毒も、支那に来ると支那人を冒し得ないものが多い。即ち支那人は伝染病に対して免疫になっている。思想問題でもそうである」という答えが返って来た。

 ここから清沢は、中国政治の「免疫性」について議論を展開していく。当時の中国は、辛亥革命によって清王朝は倒れ、各地で軍閥が割拠する一方、孫文の後継者、蒋介石による統一を目ざす北伐が進行中だった。これに対し、清沢は二つの見方があると指摘する。一つは民主主義や共産主義などの新しい組織が国民性を征服していく、一つは国民性は永遠で、新しい組織は一時的なものとする見方だ。清沢は現状について、免疫性の強い中国は当面後者を辿るとの見方を取る。

「民主政体が共和政体になると、その翌る日から闇から陽が出るように、国体が改まると信じた支那権威者の言は、15年後の今日から見て、滑稽そのもの空想そのものではないか。大総統は1人も変わり、国務総理は万里の長城の石のように沢山出たけれども、その作った内閣は、その政治とは果たして民衆を土台としたものだったろうか」

 清沢の中国政治に対する見方は、私が『民族自決と非戦』で取り上げた「大正デモクラシー中国論」の流れではなく、むしろ中国停滞論者に近い。ただこんな見方もさりげなくはさんでいる。

「もし組織というものが勝つ(革命の勝利)ならば労農ロシアから移った委員制度は、支那全体に広がって支那はために何らかの形において安定するであろう」

 蒋介石率いる北伐に悲観的な清沢は、もし統一となると共産党による革命の形を取るだろうと見ていたことになる。ちなみに現在の中華人民共和国においては、外資系企業であっても、NGO団体であっても、いかなる組織も党委員会を設けなければ非合法となる。ソ連の党委員制度は、現在の中国政治の安定的基礎となっている。

経済の可能性に期待

 ただ清沢は、「国民運動でも、共産運動でも私の失望すべきものの中から除外されては居らない」とし、「私の希望はかかって、『免疫性の支那』『将来の支那』にある」とする点だ。ここでいう「免疫性の支那」とは混乱する政治の下でもしたたかに生きている民衆を見ている。そこが停滞論者と違う点でもある。

「私が支那人に感心するのは、古い文明を有するからではありませぬ。その国民が如何にも勤勉な点であります。……一国の盛衰は結局その国民が多く生産するかせぬか、即ち労働するかせぬかによって決するものであるからであります」

 その上で、第2回で紹介したように経済の要素を見る重要性を以下のように解説する。

「政治の支那を見れば支那は真っ暗闇です。このぐらい大げさに賄賂横行して、現代の学理と離れた国はないでしょう。日本人の支那観は多く、この政治的立場から見るがゆえに悲観的な観察で満ちているけれども、目を転じて支那を経済的に見るときに、支那にはいずれの国にも劣らない未来があると思う。そして私の考えでも、将来世界は政治と経済との間の幅がますます狭くなっていくべき運命にあるのに顧みて支那は、遠い将来において、教育の発達とともに、この方面から光明が来るのではないかと思います」

 その中国に日本はどう対処するか。『転換期の日本』で清沢は二つの方法、アプローチがあると述べる。一つは「支那をなるべく弱くしておいて、これに対して強国として臨む」か、もう一つは「支那をできるだけ強く、統一せしめて隣邦として臨む」かだという。
 清沢は前者を「強国主義」「農業主義的(領土)政策」と呼び、後者を「貿易主義」「産業主義的(商売)政策」と呼ぶ。同書ではどちらを選択すべきか明言していないが、以下のくだりを読めば、後者を推奨していることは明らかだろう。

「もし支那を混乱と悲惨な状態におけば、日本はいつでも強国を以てこれに臨みうる。また支那における『勢力範囲』を維持するというような観点からすれば、支那の混乱をすら希望しうる。併しこの政策は必然的に支那の国民主義を刺激して日本と日本人を排斥する感情を惹起するのは、田中(義一)内閣時代の外交を実際にみて明らかである」
「その反抗心を挑発するだけではない。それは相手の購買力や消費力を押さえつけておくことになる。商売―貿易が繁盛ならんがためには、その相手をなるべく統一されて富んで来るのを必要とする。支那は国民政府に統一されただけで、国民の購買力は非常に増加して来ておる」

対中国関係は大衆を目がけよ

貧しい子女を支援するため、日本人牧師、清水安三によって北京に設立された崇貞学園貧しい子女を支援するため、日本人牧師、清水安三によって北京に設立された崇貞学園

 清沢は昭和10年(1935年)にも華南を旅行している。その視察談が『現代日本論』(1935年)に掲載されているが、そこでも「免疫性の中国」論を展開し、「支那の軍閥政権ははかない存在」だが、「支那の社会は永遠から永遠に存在する」と指摘した上で「日本の対支政策は常に中華民国の大衆を目がくべきであって、軍閥乃至は時の政府に余りな重要性をおくべきではない」と警告している。これは満州事変以降、中国各地で軍閥を傀儡化して支配しようとして、民衆の反日意識を高める結果となっている日本の中国政策を批判したものだ。その上で清沢は国家間の感情の問題を強調してこう語る。

「日支関係について、私は常に一つを考えている。それはわれ等は後世の国民のために、両国間の対立的感情を残すべきではないという一事です。……われ等の恐れて根本問題なりとなすは、両国の悪感情が歴史的に蟠踞するに至らんことである」

 清沢のこの警告から90年。日中間の最大の問題の一つが、両国間の悪感情にあるということは言うまでもない。

民族運動への懸念

反日の先駆けとなる五四運動反日の先駆けとなる五四運動

 経済面でも、清沢は外交評論家らしい独自の見方を披露する。それは中国の民族運動に対する懸念である。北伐の侵攻途上で、各地で外国租界の回収運動が盛んになり、欧米は国際世論にも押され、排外の動きに手をこまねき、方針転換の動きさえ見せた。清沢は「外国租界に於ける如何なる出来事に対しても、支那の国権はこれに指一つ出す事が出来ぬ現状を見るに及んで血の気の豊かな支那青年が、これを撤廃せんとし、その憎悪がひいてはあらゆる外国人に及ぶのは無理がないかも知れない」と述べる一方で、「我等の警戒すべきことは、この運動を貫いて頗る無責任なる思想が流れていることである。それは『反帝国主義同盟』の宣告などにも見得るが如く、従来の条約の絶対廃棄説などがそれだ」と、むしろ警戒心を示す。その上で、民族運動の将来についても懸念を表明する。

「この運動の裏側には労農ロシアなどもあるらしいが、取るものは総て取って負うべき責任は何も負わぬといったこの種の議論が、目下の支那には頗る都合のいい主張であるのに顧み、世界のためにも悲しむべきこの議論が今後輿論(支那の輿論は更に解剖する必要はあるが——清沢)の形式を取って、支那を風靡するのではなかろうかと私は思う」
「私はただ支那の国民の覚醒に深い同情を寄せながらも、彼らが租界回収、帝国主義打破と言うような言葉をわけもなく、信仰的に信じて、この言葉の前には、いかなる方法手段をも許されるごとく、信じ叫んでいることに対して、一つの疑問があるというまでである」

 こうした清沢の疑問、懸念は、拙著『民族自決と非戦』で紹介した吉野作造や石橋湛山の満蒙放棄論の見方とは大きく異なる。それは、資源に乏しいという日本の国情に対する強い意識と、自身の移民体験から来ている。「各国がこれに和したところの民族自決主義も、利するものは大なる富源を有する国だけであって、日本の如き狭小なる国の現状維持は、自己を縛る結果に過ぎないのではなかろうか」と言い、「上海や、天津や、漢口やは、その土地は如何にも支那人のものであるには違いないが、その上に建てられたる文化らしい文化は、悉くが外国人の努力によったものだということである」とも言う。

 清沢は帝国主義や軍事的な侵略を自身一貫して否定して来たとする一方で、暴力による租界回収運動に対する疑問提起について、「この疑問は土地の権利と建設者の権利との限界が明らかにされるまで解きかねるものだと思っている」とも述べている。

土地保有者の権利か、建設者の権利か?

 清沢は租界回収の運動は、外国勢力が租界建設で発揮した「生産力」を無視したものだとの見方も披露している。

「同じ土地を占めても、外国人の租界が完全に文明人の都市であるのに壁一重(実際には壁さえない--清沢)外の支那人街は全く豚小屋というのも愚かなりという状態である。そして外国人によって発達した土地も一度支那人の手に戻るが最後無茶苦茶になるのは青島や山東鉄道の例でも分る」

 少し議論が飛躍するが、毛沢東率いる社会主義革命は、ソ連と連携し、帝国主義勢力を締め出し、租界を回収する。その上で階級闘争を重視し、自力更生による経済発展を目指した。だが、それはことごとく失敗し、文化大革命と毛沢東の死を経て、生産力重視の鄧小平が経済改革・対外開放路線、経済特区政策を進めることによって経済大国へと成長した。外国資本とその経営・技術力を排除しての中国の発展はないという清沢の見通しの良さがここでもうかがえるのではないか。

 とはいえ、このあたりの清沢の議論は微妙だ。差別的でもある。免疫性を持った勤勉な国民をしっかり組織できない当時の中国政治。清沢は軍事的な侵略は否定するが、勤勉な国民を組織できない中国の状況から日本の経済的な進出は肯定する。土地も資源も乏しい日本の国情から、清沢は『アメリカと日本は戦はず』(1935年)の中で、世界平和のために、アメリカは未開発のアラスカを日本に譲るべきだとさえ主張している。各国間の領土や資源、労働力の不均衡が平和を脅かすとも考える清沢は、その解決を軍事力によるのではなく、経済の往来、外交交渉、最終的には条約の締結によって平和的に行うべきと考えている。そこには未開発地域での建設者や移民の権利の承認も含まれるべきではないかとの清沢の移民体験から来た独特の見方が示されている。

 本連載第1回で紹介した北岡伸一『清沢洌──外交評論の運命』の結末で示された謎、すなわち清沢の日本人排斥問題をめぐる主張とサイパン陥落で「せめて普通人を残すべし」との「二つの言葉」と、清沢の「満州経営と中国に対する批判」の関係を解くカギは、この「建設者の権利」にあると、私は見る。軍事的な占拠による支配ではなく、建設者として、サイパンや満州という未開発の地域の経済発展に尽くすことに、土地も資源もない日本の生きる道があると清沢は説いているのである。

満蒙に於ける日本の特殊地位

 清沢のそうした見方は、当時、日中間で大きな問題となっていた日本の満蒙進出に対しても独自の見解を取らせた。
『黒潮に聴く』の出版当時は、まだ張作霖爆死事件や満州事変の起こる前だが、満蒙の支配に対する強い期待が日本国内に満ちていた。清沢に言わせると、日本国内においては「事情に通ぜざる日本領土の延長ぐらいにしか思っていない」し、「政友会及び軍人の一部等が、(満蒙の)特殊地位について、あまりに大声叱呼」していた。したがって、その特殊地位について、まず「明らかにしておく必要を感じる」と、外交専門家としての見解を述べている。

 清沢は日露戦争後の満蒙における日本の特殊地位(権益)をめぐる日本政府の要求と国際会議での交渉結果について、4つの段階に分け、冷静にその変遷を記録する。

 4つの段階とは、①対華21か条要求の結果、②1917年の石井・ランシング協定の結果、③1918年の4カ国借款国成立の際の結果、④1923年のワシントン会議の結果であり、①では日本側の強固な姿勢で中国側は大幅な特殊地位を認めた。しかし、②ではアメリカ側の市場開放を求める要求に対し、かろうじて特殊地位という日本の主張を残すことができた。だが③④以降は特殊地位は認められず、④では「支那の独立保全を保障し、商業の機会均等主義を確立」した。残ったのは日露戦争の結果として、ロシアから譲り受けた南満州鉄道(満鉄)とその支線、それに付属する鉱山開発、さらに四カ国借款団の共同活動外の鉄道計画に過ぎないと清沢は指摘する。

 その上で、清沢は「他国から得る一国の利益は、いかなる場合にも、経済的以外ではありえない。日本の満州における特殊地位がどう広汎に解されたところで、それは国防というごとき不時の場合の用意を除けばほとんど全部経済的に帰するのである」「経済の利益如何。これが満蒙を計る最大なる尺度でなければならぬ」として、満州における日本経済の進出状況を分析する。

 清沢はまず自身の満州視察の結果として、「満州における日本の勢力はただ一個の満鉄によって支持されている有り様であって、他は殆ど悉くこれに付随する消費機関に過ぎず、見るに至るもののないのには失望したのであった」「事業の投資会社(満鉄)の資本家が急激なる膨張、発展をなしつつある時に、日本人には依然旧態を守って反発力を示さず、これによって利するものは支那人に他ならぬことを如実に示しているのである」と指摘する。

 その満鉄も設立から20年で10人もの社長が代わり、「いずれの政党も、日本の発展のために考慮するよりは、先ず如何にして軍資金を得んかに苦心している。この前の社長時代に機密費から支出した50万円の金が行方不明になっている」と批判する。

 また満鉄、旅順、大連の回収を求める声が日増しに高まっていることも懸念の一つだという。満州においても民族自決運動が高まりつつあった。といって清沢は満州放棄論を展開するわけではない。むしろもっと経済的に活用し、中国にとっても利益となるよう、「満蒙に対する専門調査委員会の設立を日本政府に提議する」と述べる。その主な理由を以下のように言う。

「日本人は、満蒙を日本の存在と結びつけて考えるほど重大視しているようであるが、実際的には何ら一貫した建設的な政策がないと言える。無論そこには概念的な政策はあるが、これらは日露戦争後軍閥がその世間見ずの頭から作ったものであって、平治の際に通用せぬものなのである。われ等の欲するのは平和時における発展策であって、軍人がその職掌柄自然に考えるであろうところの非常時における対応策ではない。われ等から見れば、従来の対応策が、非常時の際の対応策にのみ目標にしておったが、故に、今の如き行き詰まりを来したものであって、われ等はこの点を根本的に改変の必要があると思う。すなわち、経済的発展を主張する新政策の樹立である」

 さらに清沢は「日露戦争後根本的なる研究をなさず、一時的の弥縫手段を講じてきた。結果は、満州において全く統一を欠いている。関東庁と総領事館と満鉄と、これに加えて、陸軍とが、各自に自己の権限の中に立てこもって異なった見解と命令のもとに動いている」とも批判した。

 こうした清沢の現状分析とその批判、提案にもかかわらず、その後満州では、関東軍による張作霖爆殺事件、柳条湖事件が発生し、軍部の独走で、戦火は拡大の一途をたどることになる。

コラムニスト
高井潔司
北海道大学名誉教授。神戸市生まれ。1972年東京外国語大学中国語学科卒業。読売新聞社入社、主に国際畑を歩み、テヘラン特派員、上海特派員、北京特派員、論説委員を歴任。天安門事件、鄧小平死去などを現地で取材。1999年北海道大学教授。2000年同大学院国際広報メディア研究科教授。2012年桜美林大学リベラルアーツ学群教授。2019年退職。主な著書に『甦る自由都市上海』(読売新聞社、1993)、『中国の報道の読み方』(岩波書店、2002)、『中国文化強国宣言批判』(蒼蒼社、2011)、『新聞ジャーナリズム論』(共著、桜美林大学、2013)、『民族自決と非戦』(集広舎、2024)など。