拙著『民族自決と非戦』はサブタイトルを「大正デモクラシー中国論の命運」とし、その中核を担った人物として、満州事変を「侵略」と批判した吉野作造を取り上げた。清沢洌は、『暗黒日記』の中で、「吉野作造博士の『対支問題』の小著を、一日で読了す。さすがに面白し。博士の死前の作であろう。明治文化研究の知識も持ってあり、殊に支那革命史の著書もあり、得意の問題だ。僕はやはり、吉野博士とは共鳴し得る。その観方が同じだ。大正時代からの吉野作造博士をつぐものは、昭和の僕ではないかなどと思う。外交史を書いて、学的産物を残すことができれば、吉野博士を発展させたものであることになる」(昭和20年1月22日)と書き、「昭和の吉野作造」を目指す意欲を示した。
吉野の『対支問題』は満州事変直前の1930年12月の出版で、吉野は1933年3月に亡くなった。同書では、まず清を大国として恐れた明治初期以来の日本の対中国観を回顧し分析する。日清戦争の勝利を経て、日本はもはや中国を恐れず、「其の一部たる満蒙を我国国防上の目的に利用せんとする」に至る。かつては中国革命に共鳴し、支援していた「支那浪人の多数はやがて我国大陸進出主義者の手先になった」と、こぞって満州の権益拡大に走る日本を批判した。その上で中国の現状と見通しについて、「蒋介石の天下が何時まで続くか、之は問題としても、……支那の再び大混乱に陥るべしとは最早どうしても考えられない」「支那が昨今の調子を以て、漸次統一の歩武を進むべきは疑いを容れない」とし、「近き将来に於ける支那の大問題如何を考えるに筆頭に来るものは北方に於ける外国勢力の蟠踞を如何にして始末するかであろう。而して之は亦実に同時に我国に取っての大問題たるは言う迄もない」と指摘した。「北方に於ける大問題」「蟠踞する外国勢力」とは、満蒙の特殊権益を主張する日本を指している。中国の統一が進むにつれ、日本が特殊権益とする「満蒙」において、日中間の矛盾が益々拡大し、爆発するに至ると、吉野は予期しているのだ。
評論の筆を奪われ外交史研究に
さて、「昭和の吉野作造」を目指すと日記に残した清沢だが、その4か月後に肺炎で急死する。吉野の遺志を受け継いで書きたいといっていた「外交史」だが、実はすでに『外交史』、『日本外交史』と書き進め、出版もされていた。
1941年(昭和16年)2月、内閣情報局は、総合雑誌社に対し、執筆を禁止する知識人、評論家のリストを示した。清沢もそのうちの一人だった。時事評論を専ら生業としてきた清沢は、この頃から外交史研究に没頭し、同年、『外交史』を、翌年、『日本外交史』を出版していたのだ。
外交研究者である北岡伸一は、中公新書『清沢洌——外交評論の運命』の中で、清沢の外交史研究について、清沢の仲間でもあった馬場恒吾や芦田均らの称賛の声を紹介しながら、「今日から見ても、『外交史』と『日本外交史』は終戦までに出た最良の日本外交史であるのみならず、視野の広さ、分析の鋭さ、叙述の見事さなどにおいては——もちろん細部については様々な修正が必要であるが──、今日なお凌駕されていないと言っても過言ではない」と高く評価している。
圧巻の「満州事変」分析
その清沢の外交史研究の一端を、拙著で「大正デモクラシー中国論」の命運を大きく変えた事件として取り上げた「満州事変」を例に、紹介しよう。清沢の「満州事変」分析は、『日本外交史』の「第五篇興亜外交時代」に収められている。一段と引用の繰り返しとなるが、清沢の外交史研究は、今では忘れ去られた形となっているので、ご容赦頂きたい。
清沢は満州事変の章の冒頭、「昭和六年(一九三一年)九月十八日の夜十時。奉天郊外の柳条溝において引続く爆音があがつた。奉天の住民にしてこれに注意したものは僅かであつた。気がついたものも軍隊の演習ぐらゐにしか考へなかつた。豈図らんや、この爆声こそは、一九一四年のサラエヴォ事件が世界大戦に飛火した如く、その後における東亜の大変革と動揺の口火を切る役目をなさうとは、何人も思ひ設けなかつた」と、事件のもたらした衝撃の大きさを指摘している。
戦後、多くの論者が「満州事変がなければ、日中戦争はなく、太平洋戦争もなかった」と、満州事変の意味を評しているが、清沢は戦争継続中に、すでにそうした認識を持っていたことになる。同時に、清沢は外交専門家として、進行中の戦争に対して、冷静かつ客観的な分析を積み重ねることの難しさとその必要性を自覚していた。
この稿を起して居る時に、柳条溝事件に発した火の手は炎々として燃え続けて居る。一つの事件の歴史を書くのには、少くとも十ヶ年の年月の経過を必要としよう。殊に外交史に於て然りである。この書の著者が筆を進めて今、満洲事変及びその後の経過を叙さんとするに及んで、自ら甚大なる不安を感ずるのをどうするわけにもゆかない。そこには歴史を歴史として書くだけの冷静なる空気は存しない。そこにはまた、両者の主張と事実とを公平に提供することの可能性も限られてゐる。況んや事態を、自由に解剖批判することが出来るものではない。だが同時にその事なくして歴史は生れない。半分の真理は真理ではないやうに、眼を全局にそそがないところの記述は歴史ではないであらう。さうした事情に面して著者のなし得ることは、許される範囲において最善の『事実』を提供することである。
こうした前置きをしっかり述べた上で、清沢は事件の発端から、この事件をめぐる内外の諸情勢を多角的に分析し、事件が起こるべくして起きた「自然発火」の事件であったとし、柳条湖で発生した小規模な爆破事件が内外の様々な思惑から日中戦争へと展開する過程を描いている。
事件の発端記述はリットン報告から
まず満州事変の発端となった柳条湖での満鉄爆破事件について、清沢は、意外と言うべきか、非常にユニークな書き方をしている。当時のマスコミは「暴戻支那兵による計画的な行動」と関東軍の発表を伝えていた。この発表を前提として、その後の関東軍の満州占領が拡大されるわけだが、清沢は関東軍の発表には全く触れず、リットン報告から事件の発端を明らかにする。
この事件はそれ自身大した問題ではなかつた。これを衝突事件そのものから論ずれば、リットン報告書が後にいつたやうに『九月十八日午後十時より十時半の間に鉄道線路上、若くは其附近に於て爆発ありしは疑なきも、鉄道に対する損傷は、若しありとするも事実長春よりの南行列車の定刻到著を妨げざりしものにて、其れのみにては軍事行動を正当とするものに非ず』といつたのは必ずしも間違つてはゐないであらう。
この爆破事件が「関東軍の自作自演」であったことは、戦後になって東京裁判や当事者の証言で明らかになる。ただ当時、日本外務省は発生当初、関東軍による謀略と見ていた。その後の事件の推移、拡大もあり、それを明らかにするわけにはいかなかった。清沢は総動員体制の中で、外務省の嘱託も務めていたから、おそらく外務省の見方は承知していたであろう。と言って、その見方を公刊される『日本外交史』に書くことはできない。その便法としてリットン報告に沿って、小規模な爆破事件に過ぎなかったということから論を始めたのだろう。
背景に三つの要因
清沢は「それが単に一個の鉄道爆破事件にすぎないならば、それは日、支両国政府の間に於て局地的に解決が出来た筈だ。事実は野火のやうに燃え拡がつたことが、その背景に重大なる原因を包蔵してゐた証左である」と議論を進める。清沢はその背景として、「国際的要因と、日本国内の事情と、それから支那、特に満洲が持つ特殊性」と三つの事実を挙げる。
まず国際的要因として、清沢は「世界各国は経済恐慌の餘波を喰つて叩きのめされ、何れも国内問題で手一杯だつた。そしてその事は従来満洲に発言権を持つて来た諸国において特にさうだつた」と指摘する。前回、述べたようにアメリカは中国の門戸開放を求め、様々な局面で日本が主張する「満蒙の特殊利益」を抑え込む政策を取って来た。しかし、満州事変に対し、アメリカやイギリス、ソ連は抗議の動きは取ったものの、自国の問題に忙しく、半ば黙認の姿勢で満州国の成立を許してしまった。満州事変は日中戦争の先駆けとなるが、事変に対する列強の反響の鈍さに、日本には戦火の拡大の余地を与えたが、同時に他にも選択肢があったと清沢は言う。この点についての清沢の見解は後ほど触れる。
農村の疲弊に高まる社会不安
清沢は続いて「世界動揺の日本に対する影響は、殊に経済問題において深刻だつた」と日本の国内事情を説明する。世界恐慌は、日本の主要輸出品だった生糸価格の暴落をもたらし、国内の繭価格もそれに伴い暴落した。それは農産物全体の下落にもつながり、「農産物収穫高(養蚕を除く)は昭和元年において農村一人頭収入54円80銭であったのが、昭和六年(事変発生の年──高井)には実に28円30銭に激減した」と、清沢は数字を挙げて、農村の疲弊を指摘する。
清沢はさらに「この農村の窮迫は必然に社会不安を招いた。その事は農村における小作争議の驚くべき増加によつて知ることが出来る。即ち昭和三年以来の四ヶ年間(満州事変当年まで)において小作争議の数は約二倍に達した」、「この農村の危機は諸種の形を以て表面に現はれずには居らなかつた。消極的には自殺数が増加した。積極的には議会主義と、それが代表する国際協調主義とに反感を持つて来た」と、経済的危機から政治的危機にまで発展した日本の国内事情を明らかにしている。その中、濱口雄幸首相、犬養毅首相らの暗殺事件が続いたと清沢は言う。
そしてその不安の中心が、土地に執着を持つ農村的分子であったことは前述した通りだ。広大なる領土は彼等農村的分子にとり常に大きな誘惑で、この点は幣原外交が代表する商業主義とは対蹠的なものである。
ここで言う「農村的分子」とは、農村の疲弊に不満を募らせ、満州事変やテロ事件を引き起こした農村出身の若手将校たちを指すことはいうまでもない。満州及び中国との平和的な経済往来によって権益を維持しよう幣原外交と違って、彼らは「広大な領土」を狙っていた、つまり満州事変は彼らが引き起こしたのではないか、と清沢は示唆している。
三つ目の要因である「支那、特に満洲が持つ特殊性」については、「パリ講和会議にその最初の姿を見せた素朴な国民主義は、満足する限界を知らなかつた」とまず中国国内の民族主義の高まりを挙げる。パリ講和会議はドイツの第1次世界大戦の敗北を受けて開かれたもので、中国は山東省におけるドイツ権益の回収を目指したが、その要求は認められず、かえって日本の対華21か条要求によって日本に奪われる形となった。それは反日、排日の声を高める結果となった。「支那のボイコットが最初に行はれたのは一九〇五年にアメリカを対象としたものだが、それ以後一九三一年までに十回のボイコットが行はれた。その内、広東の沙基事件に起因する対英ボイコット(香港、広東)を除けば他の九回は何れも日本を対象としたものであつた」と清沢は指摘する。
ただここで清沢は反日運動が事変を引き起こしたと言うのではなく、むしろそれが日本側の反発を高め、事変への引き金になっているの見ている。それは以下の記述でわかる。
この一般的反日運動が日本国民の心理をいらだたせたことは無論だが、真剣の危機は満洲方面から来た。日本は満洲に対しては如何なる場合にも特殊な考慮を払ひ、権利を主張して来た。……即ち満洲に関する限りは、それが如何なる悪影響を日支一般関係に与ふるにしても、既に得たる権利を主張するに断じて躊躇するところがなかつたのである。
反日の動きに募る警戒感
その上で清沢は満州事変勃発に当って、「特に問題を悪化せしめた事件が二つある」として、張学良の鉄道敷設計画と中村大尉射殺事件を挙げる。
張学良は1928年関東軍によって爆死させられた東北地区の軍閥、張作霖の息子だが、父親の死後中央の国民政府に服属を誓う一方で、関東軍とは直接対峙を避けながら引き続き満州を支配していた。彼の鉄道敷設計画は「胡蘆島築港を基終点とする北寧線を中心とし、三大幹線を完成するものであるが、……これ等の計画が実現すれば、それは満鉄包囲策であり、また従つて日本権益回収の前提である」と清沢は指摘する。それは当然日本側の警戒感、危機感を募らせるものだったと付け加える。
もう一方の中村大尉射殺事件とは、1931年6月、満州北部興安嶺に軍事調査に出ていた中村大尉が現地の中国兵によって殺害された事件。中国側と事件解明のため交渉中であったが、8月下旬、満州事変を主導した石原莞爾が軍中央に具申して、この事件を公表させ、日本の反中世論を一気に高めた。それは関東軍が柳条湖事件の謀略を実行する空気を醸成する役割を果たした。中村大尉事件が日本の新聞の対中世論を一変させ、満州事変支持一辺倒へと変節した経緯については、拙著『民族自決と非戦』で詳細に分析した。
清沢は以上のような背景分析から、事件の発生について、「その是非の何れにあるかは別として、これ等の引続く事件は両者の関係を著しく険悪ならしめた。柳条溝事件の起つたのは、かうした事件の後であり、多分に自然発火的な性質をさへ帯びてゐた」と結論付けている。柳条湖事件は関東軍の謀略とは書かなかったが、日本側に「自然発火」の原因があったことを強くにじませている。満州事変に関する記述は、関東軍の謀略暴露を目的にしたものではもちろんなかった。だが、多角的で、客観的な分析の結論の一つとして、事変発生の原因が日本側にあることが強くあぶり出された。
本連載第2回で、清沢の外交思想の基本として、「外国との交渉の場合には百%理屈がこちらにあって、相手は全然嘘であるか、全悪であるという」国家主義への批判を紹介したが、満州事変に対する多角的な分析手法には、清沢のこの外交思想が如実に反映している。「暴戻支那兵の計画的行動」を前提にして、満州事変支持一辺倒に走った日本の世論とは一線を画していた。
拙著では、満州事変について、緒方貞子『満州事変』(岩波現代文庫)、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書)、臼井勝美『満州事変』(中公新書)など戦後の研究を参考にしたが、清沢の多角的な分析は、戦時中の言論の不自由、資料不足にもかかわらず、北岡伸一が言うように、それらに勝っても劣らない内容だった。























