
書名:民族自決と非戦
副題:大正デモクラシー中国論の命運
著者:高井潔司
発行:集広舎
発売日:2024年11月11日
製本:上製/A5型/408ページ
ISBN:978-4-86735-054-6 C0021
価格:4,400円+税
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私は昨年11月集広舎から、戦前の日本の中国論、とくに大正デモクラシーの影響を受けた評論家や研究者、新聞社の中国論を検証する『民族自決と非戦——大正デモクラシー中国論の命運』を出版した。その際、最後まで取り上げるかどうか悩み、時間切れで断念した人物に清沢洌という外交評論家がいる。出版後も何らかの形で、彼を取り上げようと、資料を読み直してきた。そうした作業の中で、トランプ政権発足以来の世界の混迷を理解する上でも、彼の主張、指摘が大いに参考になると痛感し、集広舎の川端幸夫社長のご厚意で、このサイトで連載をさせていただくことになった。
清沢は1890年(明治23年)、長野県の旧北穂高村に生まれ、1906年から18年までアメリカに移民し、邦字紙の記者などを務めた後、帰国。その後、ユニークな経歴を生かし、自由主義、平和主義の立場から、外交問題やアメリカなどに関する多数の著作を残している。岩波文庫に、代表的な著作の抜粋である『清沢洌評論集』や軍国主義を厳しく批判する戦時下の日記『暗黒日記』がある。だが、今ではほとんど忘れ去られた評論家と言えるのではないか。
二冊の岩波文庫からも、彼が戦時下、軍国主義批判のかたわら、終戦後の国際情勢について構想し、それも的確な判断をしていたことがわかる。それらの評論を読むと、終戦直前の急死が悔やまれるところだ。
本連載では、『民族自決と非戦』の追補として、彼の中国論を中心に議論を展開することになる。彼自身、拙著で取り上げた吉野作造の外交問題に関する後継者を自任し、また石橋湛山の親友でもあり、石橋の『東洋経済新報』に社説や評論も掲載している。だが、外交論、アメリカ論の専門家であり、岩波文庫の清沢の作品を読まれた方には、清沢は中国論から縁遠いと思われるかも知れない。
「清沢の中国論」は成り立つか
清沢に関する本格的な研究としては、2冊の岩波文庫の編者である山本義彦の『清沢洌の政治経済思想』(お茶の水書房、1996年)とサントリー学芸賞を受賞した北岡伸一の『清沢洌──外交評論の運命』(中公新書、2004年増補版)がある。二人とも清沢の親族や関係者にもインタビューし、親族宛の書簡など未公開資料も入手して、清沢を深堀りしている。北岡は、シアトル、サンフランシスコの記者時代の清沢の記事をアメリカの図書館で漁り、評論家としての原点を明らかにしている。この二人の労作は、清沢についてもはやそれ以上、論じる余地もないかの感を与えるほどだ。実際清沢に関する研究はその後あまり見られない。
しかし、山本の研究は清沢の代表的な著作を深く分析しているものの、中国に関する清沢の評論にはほとんど触れていない。第一作の『米国の研究』(1925年)から遺作となった『日本外交史』(1942年)まで20数冊ある著書の中で、中国をテーマにしたものはない。山本の研究では、清沢のそれぞれの著作を解題風に、各章のテーマにして書いているので、どうしても中国が主題にならない。だが、清沢の著作を読み進んでいくと、随所に中国が登場する。清沢自身、二度にわたって、中国各地をかなり時間をかけて訪問し、要人にもインタビューしているから、おのずと評論の対象になっている。著作を縦断ではなく、横断的に読めば清沢独特の中国論を読み取ることができる。
そもそも、清沢は主たるテーマとして、「日米は戦うか」を議論し、日米戦争の回避に努めて来た。その議論は、市場開放か、アジアモンロー主義か、日米がその戦いの舞台となっていた中国を論じないわけにはいかない。そこが抜け落ちては万全な清沢研究と言えないのではないか。清沢は「私は今後の対支外交は結局、対英米外交だと思う」と述べている。特に1924年中国取材の後の著作である『黒潮に聴く』(1928年)が、なぜか山本は論じていない。そこには「見たままの支那」という章も設けられている。
幸い近年、国会図書館のデジタルコレクションで、清沢の著作のほとんどが読めるようになったので、清沢のほぼ全容を読むことができる。そうなると、「清沢の中国論」という議論が成り立って来るのではないだろうか。
一方、北岡は中国に関する清沢の数々の評論に触れている。さらに増補版の最後は「清沢が書いた最初の長い論文が、第二次カリフォルニア排日土地法を論じた『加州問題対応策』(1920年9月21~27日7回連載)であった。彼が長年取組んだ問題で、事実上日本での活動を始めたことは、まことに象徴的であった。その中で清沢はアメリカ時代以来の持論を展開し、日本人移民排斥問題は決して解決されないけれども、日本人移民がこれによって絶体絶命の危機に陥るわけではないと述べて、『生きると云ふ問題の前には由来法律などは欠点の多いものである』という印象的な言葉を記している。この言葉に対応する言葉を、我々は晩年の『暗黒日記』の中に見出すことができる。すなわち1944年7月29日、清沢はサイパンの陥落について、『せめて普通人にそこに居残ることを命じたらどうだろう。そうすれば将来、そこの経済的基礎ができるのである』と書いてある。24年をへたこの2つの言葉には、国家や政治といったレヴェルを越えた、社会と人間の根底に対する稀有の洞察がある。ここから、満州経営と中国政策に対する清沢の批判が生み出され、徹底した対米協調を根幹とする対外政策が生み出されたのであった。少なくとも若き日の『新世界』(清沢が記者をしていたサンフランシスコの新聞──高井)時代に、ほぼ出来があっていたのであった」と、謎めいた文章で結んでいる。北岡のいう日本人排斥問題とサイパン陥落をめぐる「2つの言葉」と、清沢の「満州経営と中国に対する批判」の関係は、この本を読む限り明確に述べられていない。議論の飛躍ではないかと感じられるほどだ。そこは新書という紙幅の制約と言えよう。むしろ、北岡が読者に対して、そのなぞ解きを求めていると考えてもいいかもしれない。とすれば、清沢の「満州経営と中国に対する批判」とは何かは、清沢に関する大きな研究テーマとなるのではないか。
自由主義者清沢の原点
清沢の中国論に入る前に、彼が日本とアメリカで受けた教育、労働体験から生まれた彼独特の自由主義者、平和主義者としてのものの見方、考え方の基本について、触れておきたい。彼は戦前の知識人に共通する高等教育を日本では受けていない。北穂高村の比較的豊かな農家の三男として生まれ、自身は松本中学(現在の松本深志高校)への進学を希望していたが、父親の反対で入学できず、隣村の私塾、研成義塾に入り、3年間学んだ。この塾は無教会派のクリスチャン内村鑑三の弟子である井口喜源治が設立した塾生30人程度の中学レベルの学校だった。井口が一人でほとんど全ての教科を教え、立身出世の「えらい人」ではなく「よい人」をモットーとした自由主義教育を施した。清沢は井口の影響を強く受け、その勧めもあって、1906年(明治39年)キリスト教の伝道師を目指して渡米し、移民生活を送ることになる。
1911年移民先のワシントン州タコマ市の邦字紙『北米時事』の記者となるまで、数々の職業を渡り歩き、タコマハイスクールで学んだそうだが、その間の生活は親族や友人への書簡からかろうじてわかる程度で、先行研究の労作によっても詳しくは明らかになっていない。その間の清沢の思想の形成、その変遷を知る上で大きな手掛かりになるのは、清沢自身が井口の教育を回想する次のような文章だ。
「僕はクリスチャンではなくなった。生きておられたら井口先生は何よりもこれを遺憾にされると思う。クリスチャンではないけれども、しかし少年時に私に与えられた井口先生の感化は今なお続いています。私は井口先生によって、世の中には金や地位よりも、もっと大切なものがあることを知りました。それは信念です。私は過去において、また現在において、自身が考えて正しいと思うことを曲げたことのない一事は恩師の前に申し上げることができます。井口先生はクリスチャンでしたから、神様をいわれました。未信者の私は愛する国家のために正なりとするところを及ばずながら主張するのです。時には自己一身の不利を覚悟しながら」(雑誌『雄弁』1939年7月)
注入主義の弊害を訴える
「信仰」、伝道師への夢は挫折し、学問、文筆生活へと傾注することになるが、井口から学んだことを「信念」という言葉で表現している。清沢は『現代日本論』(1935年)の中で、日本の教育が注入主義で、しかも中央集権、統制下に置かれていることを強く批判している。この視点は、やはり井口の研成義塾でうけた教育、アメリカでの教育と移民生活の体験を通して生まれたものだ。
「注入主義の教育は、何が善であり、何が悪であるかということを何も検討せずに教え込む。そこには周囲の変化と、経験によって自己の意見を変更する余裕はない。また学問の研究から生まれる『真理』に対する尊敬というものはない」
「日本の教育の特徴は、一律総体主義であることだ。真中で手をふると、国の隅の隅までこれになびく」
「これからくる危険は、創造と自由と独立を、教育と社会から奪うことだ」
「すでに人間がやることであれば、その政策や行動に時に間違いがあるのは当然だ。ところが命令で動いている習癖がついていると、とかくにこれに気がつかない。また気がついても批評は許されないのが常だ」
「自由討議をせず、社会の進歩を漸進的に持ち来たさない結果は、社会の暴力的変革以外に道がないような事態が生まれがちだ」
この日本の教育批判は、自由主義に立つ清沢の国家主義に対する痛烈な批判である。引用最後の暴力革命とは5・15事件や2・26事件などの国家主義者、軍若手将校のテロ、反乱事件を指している。だが、清沢の批判の矛先は「左翼は右翼に同じ」とマルクス主義にも向けられる。
「かれらはいずれもその意志を通すのに暴力革命に訴えることを是認します。また両方ながら少数者の独裁を主張します。かれらは国家乃至社会の絶対性を信じて、個人の極端なる圧迫を主張します。左翼と右翼はまた同じように憲法による個人の権利の放棄することを是認します。さらにいずれもリベラリズムも敵にすることが同じです」
「マルクス主義者はマルクスに些少の間違いあることも認めませんが、自由主義者とはマルクスにも多少の間違ったところもありはしないかと疑う人のことです」
「一つのものを絶対に正しいと信ずる時に、そこには進歩はありません。発明と改良は物心両方面ともに、これに欠点がありうることを認めて、完成せんとする努力から来ます。研究の自由は故にこそ意義があります。自由主義者にはあらゆるものが相対的です。左右両翼のように偶像をつくりません」
清沢は、このように左右両翼を批判した上で、「要するに社会の改革とか進歩とかいうことは、軽業師のような華々しいものではなくて、地味な石垣を一つ一つ積み重ねるようなものである。急がば回る以外に道はない」と結論付ける。
「言論の自由」を強調
自由主義者、清沢が最も重視するのが言論の自由である。とりわけ「他人のいうことを傾聴する」ことの大切さを『混迷時代の生活態度』(1935年)で強調している。
「問答無用といって自己の我意を力で通そうとする気風が、近頃は特に濃厚であります。言論とか、他人の立場などは始めから全く無視してかかって、行動することにのみ価値があるように考えられています。だが相手の立場を聞かないで、貴方が正しいか、正しくないかということがどうしてわかりますか」
「他人の説を聞かないで、自分勝手に早合点をしてしまう時に、その人の進歩の芽は止まります。自分の立場、意見、行動が絶対に最上だと思うと、努力してそれ以上になれないからです。この意味で私は、反省の気分をなくした日本の『非常時』心理が、国家のために、また個人一人一人のために、進歩的役目をつとめているとは信じないのです。日本の真個の進歩は外形的に躍進の事実を示しているにかかわらず、昭和非常時年間において止まっていたか、後退していたと、恐らくは後世の歴史家をしていわしめるのではないかと私は考えるのです」
清沢のこうした指摘、警告がいかに的を得ていたか、いわずもがなであろう。それにしても当時の世相や国家主義に対し、真っ向からの批判に反撃を受けなかったのだろうか。1929年朝日新聞時代に右翼から激しい非難を浴び、わずか2年で退職に追い込まれている。その後も公安などの監視を受け、友人たちからも慎重にというアドバイスを何度も受けていた。その様子は『暗黒日記』に、繰り返し記録されている。『アメリカと日本は戦わず』(1932年)の序文にこう書いている。
「書いている間に、私は不思議な注意を友人から受けた。われ等が率直にその感想を書くと予期しない危害と圧迫がわれ等上に見舞うだろうと言うのである。かくの如きことが昭和の時代に可能であろうか。一国が外国殊に一等国と兵を構えることは、いかなる意味からいっても、その国家にとり絶大無比の大事件である。もし祖国が仮にかかる危険に当面しているとすれば、国内各方面の意見を総動員して取るべき手段方法はすべてこれを尽くし、いやしくも野に異論なからしめることは、万機公論よるべきことを仰せい出だされた。明治天皇の御遺訓ではないか」
「ことに私は国家の非常時に際会しながら、自己の危険を故を以て、国家のために述べるべきを述べずというが如き──あるいはまた赤誠よりほとばしる他人の言語に傾聴し得ないと言うが如き日本国民の存在を、愛国心の名において信じ得ない。われ等の知る日本国民は、国家のために自我を捨て、いつでも敢然と一身を投げ出しうる国民ではないか。愛する祖国の大事を前に、元より一身の危険と利害はなかるべき筈である」
まさにこれは清沢自身の「信念」の表明であり、政府や軍の言論弾圧をかわす術にもなっていた。
