天安門事件25周年に鑑み、劉燕子さんの記事(産経新聞2014年6月3日夕刊掲載)を、許可を得てここに転載いたします。(集広舎編集室)
言論統制へ広がる反対
1989年6月4日、世界を震撼(しんかん)させた天安門事件(血の日曜日)が起きた。民主化を求めた無防備な学生や市民は銃撃され、戦車でひき殺された。多くの人が心を引き裂かれ、歳月を経ても、古傷がぶ厚いかさぶたの下でうずいている。決して忘れることなどできない。中国では6月4日を指す「六四」は大虐殺を象徴する数字となった。
のちにノーベル平和賞を受賞する劉暁波(りゅうぎょうは)は「六四」15周年に、「あの銃剣で赤く染まった血なまぐさい夜明けは、相変わらず針の先のようにぼくの目を刺す。あれ以来、ぼくの目にするものはみな血の汚れを帯びている」と哀悼した。25周年の今年、その痛みは弱まるどころか強まっているだろう。
中国政府は武力行使を正当化するため、天安門事件を「暴乱」と規定した。しかし、武器など持たない学生や市民が「暴乱」などできるわけがなく、説得力がない。天安門事件はタブーとされ、事件に関する言論は徹底的に押さえ込まれてきた。「六四」という数字の組み合わせは〝禁断〟とされ、ネットでは検索さえできない。
記憶する者まで死に絶えたとき、死者は真に死ぬというが、中国当局は記憶する者の言論さえ封殺するとともに、自画自賛のプロパガンダを推し進め、また経済的利益で懐柔し、歴史の風化を早めようとしてきた。まさに「朝はいつもウソから始まる。夜はいつも貪欲によって終わる」(劉暁波による天安門事件13周年追悼「墳墓」)という状況である。
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欺瞞(ぎまん)に満ちた社会で、共産党幹部から組織の末端まで、ガン細胞のように「潰敗(壊死)」が広がる。この深刻な危機に対して、人間らしく生きるためには、忘却も欺瞞も拒絶しなければならない。劉暁波は、死者と生者を繋(つな)ぐべく、天安門事件の犠牲者が命と引き換えに求めた民主化に粘り強く取り組み、中国共産党一党独裁の終結、三権分立、人権擁護などを提唱した「〇八憲章」に結実させた。このため彼は投獄されたが、国際社会はその意義を認め、2010年、獄中でノーベル平和賞を受賞した。
ところが中国政府は反発し、ますます統制を強めた。それはさらにエスカレートし、今年5月3日、元中国社会科学院研究員の徐友漁や著名な人権派弁護士の浦志強たちが、天安門事件25周年の小規模なシンポジウムを開いただけで、騒ぎを挑発したとして刑事拘留され、外部と連絡がとれなくなった。彼らは体制を批判しても、穏健な改革を目指しており、まして騒乱や暴力には反対である。中国の健全な発展は近隣諸国との平和友好にも資するという、祖国を愛し、かつ国際平和を望む良心的知識人である。
それなのに拘留されたのは、沈黙とタブーが破られたからである。浦志強は天安門広場ではハンストに参加した中国政法大学学生で、「〇八憲章」に署名した。徐友漁も「〇八憲章」署名者で、劉暁波が拘束されるや、直ちに発表された声明「我々と劉暁波を切り離すことはできない─劉暁波を釈放せよ」にも名を連ねた。
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徐友漁や前記のシンポ参加者の中に私の知人たちがいる。徐友漁は一昨年8月に大阪を訪れた際、神戸の孫文記念館に赴き、かつて中国の近代化のために日本の志士たちがほとばしる情熱で支援したことを語った。彼はまた、私が主催する市民サロン「燕のたより」に参加し、日本の市民と交流した。このサロンは道義や良識に基づき、お互いの意見を尊重しつつ自由に語りあう場である。ときに議論が白熱するが、理性的、建設的に中国の民主化や民族問題、日中の未来などを討論している。3年前に始めたばかりだが、民間から希望を切り開く役割を果たそうと努力してきた。
そして、彼らの拘留に対して、日本の中国研究者を中心に、「深い憂慮」の緊急声明が出され、それに賛同する者が次々に現れている。日本人だけでなく在日中国人や台湾人もおり、自由や民主という普遍的な価値で結ばれた絆が生まれている。この絆が中国社会に広がることを願う。事実、中国当局は拘留者への支援のネットの書き込みを削除しているが、言論統制への反対はむしろ広がり始めている。