▲天沐湖。廃黄河の河水が滞留してできた湖、対岸は山東省境
◀現在の黄河と廃黄河、および商丘の位置(NIKKEI GALLERYより転載)
黄河の水は中国の大地とおなじ色をしている。開封郊外の蘭考県挟河灘村で本流から分岐した廃黄河も濁った土色だ。黄土高原で大量の黄沙を拾って流れてきたからだろう。古来、黄沙は朔風にのって中原に吹きだまり、その高さは20~150メートルにも達するというからすごい。朔風の「朔」には「北」の意味があるから、北風のことを指している。中原に生まれて棲んだ漢族の気分になってみると、朔風は北方に位置する内蒙古のゴビ(砂漠)やオルドスあたりから吹き寄せてくる風だからまさに北風なのだ。その風が巻き上げた砂漠の砂塵が陝西や山西の大地にうず高く降り積もって黄土高原を形成した。黄河はその黄土高原の東西と北のふちを舐めるように流れて来たから、河水には大量の泥土が含まれているのである。
中国では殷墟(商朝)からすでに多くの鉄器が発見されている。紀元前17-11世紀のころに作られたものだろう。鉄器が中国の古代社会に広く普及したのは春秋時代(前8-5世紀)とされる。地中から掘り出した鉄鉱石を溶かして製錬するためには強い火力が不可欠で、そのためには燃料が必要だ。いったいなにを燃やしたのだろうか。すぐに思い浮かぶのは樹木を伐採して薪(たきぎ)をつくり、それで鉄を溶かして農具や武器に仕立てあげたに違いない。いまは縹渺とした砂漠のオルドスも、かつては森林が存在したらしい。その森林から木を伐り出して火を焚き、鉄を溶かしたのだという。鉄器文化の隆盛で森林は禿げ山になり、やがて砂漠化した。そして砂漠の沙がオルドスの淵を流れる黄河に吸い込まれていった。
◀鮒(フナ)のくさや。焼いて食べると美味で、調味料としても使える
中国の東北部から遼寧、河北、山西、陝西、そして青海方面にむかって半農半牧地帯が延びている。これは農業遊牧境域線ともよばれ、ユーラシア大陸を横断して西アフリカにまで達する。農耕と遊牧を劃する自然の境界線である。中国の農耕民はその膨大な人口を養うために、より多くの農地が必要だった。そこでこの農業遊牧境域線を北に越えて農耕が出来そうな遊牧地の草原を開墾した。草原は乾燥地帯だから、いちど掘り返すと灌漑しないかぎり砂は干上がり、もとの草原にもどることなく砂漠化してしまう。砂漠の黄塵はそこからやはり朔風にのって黄土高原に降り積もった。いくつかの自然現象、あるいは人為がかさなって砂漠の砂が空に舞い、それが着地して黄土高原をつくり、そこを流れる大河が黄塵の泥土を呑み込んで黄河を形成していったのである。
開封から商丘へ
河南省の開封から東南へ約150キロの商丘にむかう国道沿いの畑には淡紅色の花が咲きほこり、心地よい陽光が降り注いでいる。隣りに座っている農民風の女が、桃の花ですよ、と教えてくれた。長距離バスは蘭考、民権、寧陵などの県を通りこしてそろそろ商丘の郊外に達するはずだ。この街の人口は、現在、県域も含めて830万人(市街地150万人)、面積は約1万700平方キロで岐阜県とほぼおなじである。農業を主体として、柳の枝の編み細工や竹箒などが特産のようだ。商丘には北宋の時代に建造された城壁がそのまま残り、そこはいま商丘古城とよばれている。宋代に4つあった応天府のひとつでもある。街の北はずれには、開封郊外の蘭考県で黄河本流から分岐した廃黄河が流れている。ここから黄河故道をたどる旅が本格的に始まるのだ。
▲駅前の凱旋路沿いに屹立する毛沢東像。いまとなっては保存されているものは珍しい
北宋の応天府
考古学的に実在したことが確認されている中国最古の王朝、殷すなわち商朝は前後2回にわたり商丘を都とした。その後、やはり紀元前の春秋戦国時代に周朝が束ねた宋国、前後漢の梁国、北宋(陪都)、南宋(初代皇帝の即位地)もこの街に都を置いている。このことから商丘は六朝の古都などと称される。
この街の現在の骨格は北宋時代につくられたものだ。北宋の首都は北隣りの開封で、商丘は南京応天府とよばれた。南京とは東京(開封)の南に位置する陪都という意味で、現在の南京ではない。応天府は、天意に応じる府、の意味で、まさに地上で天帝の意思を体現する皇帝が執政する場所に相応しい。北宋には東京開封府、西京河南府(洛陽)、北京大名府(河北省邯鄲)を含む四つの応天府が置かれた。この街はまた、宋代における学問の府としての応天書院を擁し、それは嵩陽書院(河南登封)、岳麓書院(湖南長沙)、白鹿洞書院(江西廬山)とともに中国四大書院のひとつに数えられている。
商丘の市街は隴海鉄路(甘粛省蘭州〜江蘇省連雲港)が京九鉄路(北京〜香港九竜)と交わる商丘駅を中核にして、沿海都市には10年以上の遅れをとりながらも再開発が進みつつある。在来線を走る高速鉄道の「動車組」も停車し、上海までを4時間、河南省の省都鄭州までなら1時間で結んでいる。「動車組」とは、各車両に発動機を備えた列車という意味だろう。高速鉄道が快速で走ることのできる所以だ。
古跡が集中するのは南郊外に残る城壁都市の商丘古城で、市街地に見るべきものは少ない。駅前の凱旋路沿いには現代的な商城(繁華街)や長距離バスセンター、ホテルなどが連なっている。食品街には昼間から屋台が集中し、地元民や観光客でごった返す。路傍の飯屋で商丘の名菜をたずねてみたら、「垜子肉」が有名だという。「垜」とは踏み固めた土の台のことで、それが転じて羊や牛の肉に圧力をかけて大きな塊をつくり薫製にした保存食のことを指すらしい。街で出会った複数の男女にも訊いてみたが、みな一様に垜子肉を勧めてくれた。生ハムのように薄く削ぐようにして運ばれてきた商丘の逸品はほんのりと塩味が効いて酒の当てに良く、旅の携行食にも適している。
食品街から凱旋路を南に下ると大きな十字路があり、周辺には中環広場とか旺角歩行街、京港中心など香港を連想させる大型娯楽施設が繁盛している。その一角に今では少なくなった毛沢東の巨大な立像が「為人民服務」(人民に奉仕する)のスローガンとともに藍天に屹立している。
▲食品街の夜景。回族が羊の肉を焼いて供する屋台が多い
省境を流れる廃黄河
この歴史都市は北郊を山東省と接し、その境になっているのが廃黄河だ。そこまで行くには、駅北の商貿城という繁華街から出発する路線バスに乗るのが便利らしい。バスは砂ぼこりが舞う郊外の周荘、双八鎮など沿線の村で乗客を降ろし、拾いながらひたすら北に走り、1時間ほどで劉口という山東省境の寂しい小鎮に着いた。そこで別の田舎バスに乗り換えて張彭社区の農道を西北に15分ほど走ると天沐湖風景区の入り口に到着する。ここが廃黄河で、蘭考から流れてきた河水が滞留して湖のような風情を醸しているのでこの名前がついたようだ。水面は油を流したように静かで、黄河本流の荒々しさはない。劉口鎮の村おこしを狙って整備が進む素朴な観光地で、今はまだバーベキューなどの設備が点在するだけの静かな河畔である。
天沐湖という名の廃黄河では、地元の漁師が網で鯽魚をとっている。この魚は、その姿からフナ科の淡水魚かと思われる。鯽魚は魚醤のような発酵液に漬けて保存食料にするほか、河岸では遊山客相手に串に刺して焼いたものを売っていた。ちょっと骨っぽいが、白身のさっぱりした味でなかなか美味である。
河岸に突き出た小山に登って、廃黄河を俯瞰してみる。ほとんど水が動かない水面は碧い空を映して澄み、対岸の樹林は山東省に違いない。水中のところどころに仕掛けられた網は、魚を追い込むためのものだろう。岸辺には小舟が繋がれている。景色を眺めていると、顔のあたりが突然騒がしくなった。ブヨの大群だ。羽音とともに小さな雲に追いかけられているような心地になる。近くに男女のアベックがいたので近寄り、ブヨの群れをそちらに誘導して難を逃れた。河畔を歩きまわって写真などを撮り、再びバスに乗って商丘の市内にもどる。
▲商丘古城に入城するための北関街(門前町)。あらゆる生活物資が売られ、人と車で雑踏している
商丘古城
駅前の繁華街から路線バスに乗って凱旋路を南におよそ30分、商丘古城に入城するための北関街(門前町)に着いた。ここから古城の南門まで明清時代の古建築が櫛比し、土産物や外食店、生活用品などを売る店でにぎわっている。商丘古城は街を取り囲む城壁と城内の建築物が比較的良く保存されている。城壁がそっくり現存する街は平遥古城(山西)や荊州(湖北)、山海関(河北)そして宛平城(北京郊外盧溝橋)などそれほど多くない。
南門に登ると、古城を取り囲む街の構造がわかる。周囲をすべて護城河で囲み、堅牢な防衛体制を敷いている。応天府として皇帝が執務することもあった陪都ならではの構造であろう。北宋時代の商丘は帰徳府とも称された。臣民が皇帝の徳に帰する善政を敷いたことを形式的に象徴する名称である。その帰徳府も開封とおなじように黄河の幾多の氾濫で水没を繰り返し、明の弘治15(1502)年に惜しくも崩落する。9年後に再建されたが、明の末年に戦乱で城楼が消失し、清の康煕26(1687)年に修復されている。現在の威容は、明清期に復建された風情ということになる。
▲拱陽門(南門)から北関街を望む。街の周囲を護城河が取り囲んでいる
古城は西門と東門の軸が南北に1街区ずれて、東西が対象になっていない。これは、万物は木、火、土、金、水の5元素からなるという五行思想に基づいた措置で、西方が金で東方を水とする考え方に従えば、金と水の対置は人を害する恐れがあるために東西の門を非対象に置いたものだ。
古城を南北に貫く中山街は商丘の南郊外に向かう要道でもあるので、人と車両で激しく混雑している。飯屋、雑貨屋、電気自動車の充電所、点心屋台など生活に必要な物品はなんでも売っている。中山街から路地に入り込むとこの街のファッションを支配する一角があり、ハーモニカのように間口の小さい流行の「時装」店が連鎖し、そこを若い女たちが右往左往している。一歩裏通りに迷い込むと今までの喧騒は嘘のように静まり、学校帰りの小童らが歩き、生活臭が漂う居民区が細く長く展開している。
カトリックの教会などを見てさらに南行し、拱陽門(南門)に登る。ここが古城の最南で、護城河を拡げてつくった人工池の向こうには古宋河が流れている。南門管理所の服務員によれば、あの河の周辺に幾つかの古跡があり、そこに行けば商丘という街の歴史的な存在意義が分かるのだという。
初出『NIKKEI GALLERY』98号の内容を加筆再構成
〔参考文献〕
司馬遼太郎『歴史の舞台』(中公文庫、1986年)
妹尾達彦『長安の都市計画』(講談社選書メチエ、2001年)
尚起興・尚驥著『商丘史話』(新華出版社、2001年)