廃黄河を行く

第04回

商丘──天文観測と聖火の源

閼伯(火の神)は商丘古跡群の中心に位置し、聖火を採火する国家施設でもある

◀閼伯(火の神)は商丘古跡群の中心に位置し、聖火を採火する国家施設でもある

 黄河は中華民族の揺籃と語り継がれ、古来、中国の母なる河と称されてきた。河套とよばれるオルドス砂漠(内蒙古自治区)を大きく湾曲して西から流れてきたこの大河は中原の大地を果てしなく東流しながら潤し、黄河文明を育んで中国の歴史を開いた。河套の「套」は袋や衣服のポケットの意味で、ここでは河の流れが形成した袋状の大地の地理的な形状のことを指している。青海に源を発した黄河が中国の大地を西から北へ、北から南へ、そしてふたたび東へと地球規模で大きく湾曲し、オルドスの砂漠を袋状に囲いこんでいるからこの地域名がついたのだろう。

 この河は同時に人民を苦しめる河、すなわち「害河」ともよばれる。それは紀元前の秦漢時代以来、平均して3年にいちどの周期で氾濫し、100年に1回は巨流が暴れまわるように改道して沿岸地域を水浸しにしたからである。蘭考県を境にして北の山東から渤海方向に、あるいは南の江蘇から黄海方面に流れを変え、その歴史は黄河変遷史などという学問領域をも生み出している。

 その変遷史の研究成果によれば、金の大定20(1180)年12月21日に発生した大決壊は南流する黄河に複数の支流を生み、蘭考、商丘周辺の要道を河水で氾濫させた。南宋と金を滅ぼした元朝は至正11(1351)年から蛇行する黄河の支流を本流に束ねる水利事業を展開したが計が行かず、明の萬歴20(1592)年になってやっと暴れ川の一本化に成功したのである。清の咸豊5(1855)年、それまで数百年間も南流していた黄河は蘭考県で北東に流れを変え、山東半島の利津を経て渤海に注ぎ、ほぼ現在の河道に安定した。蘭考県から南流して商丘、徐州、宿遷、淮安、濱城などを通り黄海に流れ込む旧河道は、この時を境に廃黄河と称されるようになった。

河畔の古跡群

 古宋河の橋のたもとで電動の三輪タクシーに乗る。商丘の南郊は家もまばらで、殺伐とした風景の中に巨大な祭祀場を想わせる建築物が忽然と現れた。閼伯台である。火神台、あるいは火星台とも称される。諸説あるが、閼伯は帝嚳高辛氏の子で、実沈の兄である。あくまでも神話の世界の話だが、帝嚳は五帝のひとり、閼伯は星の神、あるいは火の神とされ、さそり座の主星アンタレス、すなわち大火(赤色超巨星)を、弟の実沈はオリオン座の三つ星(アルニラム、アルニタク、ミンタカ)、すなわち参星の祭りをつかさどった。大火は東の空、参星は西の空に位置し、時をおなじくして夜空に現れることはなく相対立する星とされる。閼伯と実沈も兄弟仲が悪く五行説に照らせば火と水の関係であり、このことはアンタレスとオリオンの関係に符合する。帝嚳を継いだ堯は兄弟の不仲に業を煮やし、閼伯を商丘に住まわせ、実沈を大夏(山西省夏県)に遠く引き離して、ともに天体観測に従事させたと伝えられる。

商丘古城は堅牢な城壁に護られ、その外側をさらに護城河が防衛している

▲商丘古城は堅牢な城壁に護られ、その外側をさらに護城河が防衛している

 兄の閼伯が執務した場所が商丘だったため、古来、この地は中国における天文観測の濫觴とされ、正朔を奉じた歴代政権にとって商丘は枢要の地だった。また、閼伯がここで祭りをつかさどった星が大火だったので、商丘は中国の「聖火の源」ともなった。中国全国運動会(国体)や全国労働模範大会など大規模な活動が挙行される際には、ここ閼伯台で「華夏文明の火」などと称される採火式が盛大に催され、点灯された聖火が全国を巡遊して北京や上海など大会のメイン会場にもたらされる。狭義には閼伯台のことを商丘と称することもあるそうだ。どうりで商丘郊外の田舎道に、突然巨大な祭祀場が出現したわけである。

 地図によれば閼伯台からさらに数キロ郊外へ向かったところに、三皇のひとりとされる燧人氏の陵墓がある。燧人氏の「燧」は、火を起こす器具のことを指す。それは烽燧台(烽火台)などの言葉として、現代にも流通している。このことからもわかるように、燧人氏は中国で初めて木片に摩擦を加えて火を起こし、獣肉などの生ものを炙って食する習慣をつくったとされる。これもまた、商丘が「聖火の源」となったことにも寄与している。まことに御伽めかしく、その真偽には百人百様の見方もあろうが、神話の世界のこととして聴いていれば興味の尽きない物語だ。

 ふたたび電動三輪車の客となって、古宋河の橋のたもとまでもどってきた。北岸に顔魯公祠(八関斎)がある。ここには顔真卿が撰した「八関斎会報徳記」の石碑が建っている。河南節度使田神功の病気平癒を祈念して、現地官吏の徐向らが催した八関斎会の由来をしたためたものだ。八関斎は八関斎戒のことで、窃盗、邪淫、妄言、飲酒、眠高床・座高座、塗髪油・観劇、間食を戒めている。石碑は高さ2.9メートル、八角柱で、983文字が刻された立派なものである。唐の大暦7(772)年に建立された。

北関街の裏町

天主堂。古城の北にはプロテスタント教会跡も残っている

◀天主堂。古城の北にはプロテスタント教会跡も残っている

 門前町にもどる途中で、商丘古城の城壁を見る。湖のように大きな池を形成する護城河にうすく靄がたち、古城の雰囲気を品よく盛り上げている。護城河と古城を分ける大通りの北関街から裏町に向かって歩いていくと、そこに忽然と淡い空色のカトリック教会があらわれた。天主堂である。

 この街にもまた、近代以前からカトリックとプロテスタントの争いがあったらしい。キリスト教の布教の歴史は、中国の他の都市とおなじように病院経営などと関係が深いようだ。もともと開封で施療していたカナダ人のプロテスタントの牧師が1915年に商丘古城の教主堂に診療室を開き、それをもとにして古城内にセントポール病院を建てた。施療は医療施設が貧弱だった民国時代の商丘にあって、布教をつつがなく進めるためのひとつの手段だったのだろう。

 セントポール病院は1941年、進攻してきた日本軍によって同仁会帰徳病院と改名され、日本の降伏後に復名している。1948年、国民党軍の統治下にあった商丘を共産党軍が制圧すると、セントポール病院とカナダのプロテスタント教会との関係が切れ、代わって中華聖公会(プロテスタント教会)の管理下に入った。1951年、商丘専署衛生課長の劉華民が中華人民共和国人民政府を代表して病院を正式に接収し、商丘地区人民病院として生まれ変わることになる。1997年、3度目の改名で商丘市第一人民病院となり、現在に至っている。

北関街の裏町は他の中国の街とおなじように土色の静かな街区が展開する

▲北関街の裏町は他の中国の街とおなじように土色の静かな街区が展開する

 空色のカトリック教会のわき道から一歩裏町に入るとこれまでの喧噪は嘘のように消え、街路は静かな田舎町の風情に満ちている。学校帰りの女児がカメラを持った闖入者を珍しがって、何度も振り返りながら歩いていく。自転車や発動機付きリアカーに乗った住民が行き交う。土色の壁と舗装されていない道路の境界がだんだん曖昧になっていく。その風景のなかにシンクロし、だんだん商丘の人になっていくのを感じる。

愛滋病(エイズ)禍に揺れる村

 あとで知ったことだが、この街は河南省の開封、駐馬店、南陽、周口などの市とともに売血による愛滋病(エイズ)禍に揺れている。商丘市の西郊外にある睢県東関村(人口約1000人)では前世紀の1993年から村政府の肝いりで売血センター(血站)が運営され、多くの農民がそこで一度に300ccほどを45元(約720円)で売った。1ヵ月に10回以上売血した人もいたという。6年後の1999年ころから村民のあいだに奇病が流行し、それがエイズだったのである。感染者は約300人で、村の人口の3割弱にのぼった。河南省内では駐馬店市東北郊外にある上蔡県文楼村などでも売血による深刻なエイズ禍が発生し、3211人の村民のうち628人(20%)が感染している。同省では全部で38のエイズ村(総人口45万人)が確認され、1989-1995年までの6年間に村民人口の20-30%が感染したとされる。

柘城の廃黄河は流れが細く、護岸されていない岸辺は心地よい

▲柘城の廃黄河は流れが細く、護岸されていない岸辺は心地よい

 村民が売血に走った理由は貧困で、貧しい生活から脱却するために村政府もそれを奨励した。売血センターでは注射器の使いまわしが行われ、そこからエイズが蔓延したのである。村に蔓延した奇病がエイズであることが判ってくると、医師や弁護士が売血を奨励した村政府やその上部組織を告発する動きが起ったが、それは当局によってもみ消され、告発者はことごとく弾圧された。

 当局によるこうしたもみ消し工作によって病気の蔓延情報は上部の県や省、さらには中央政府まで届くことなく放置され、河南省の村落地域における病勢は猖獗をきわめ、中国最大のエイズ禍に発展していったのである。

柘城の廃黄河

 旅の宿は退屈である。枕頭に明かりを灯して折り皺のついた商丘地図を眺めていると、市街から40キロほど離れた柘城という田舎町に廃黄河という名前を見つけた。柘城は城関鎮とよばれる県城(県庁所在地)だ。日本から持参した詳細地図帳にも、廃黄河が町の東北角を貫いている。旅遊図でバスの便を調べてみると、駅裏のバスセンターから出ていることが分かった。

 翌日午後、柘城県に向かう。隣の席に座った女子高生が、どこから来たのかと話しかけてきた。少女は休みを利用して、柘城から商丘まで遊びに来たのだという。質素だが、手首や胸元にレースをあしらったブラウスを着て、精いっぱいお洒落をした姿に好感を持つ。

柘城の路上は竹箒の製作工場である

▲柘城の路上は竹箒の製作工場である

 柘城のバスターミナルは春水東路にあり、そこから西へ50メートルほど歩いたところに目的の廃黄河が流れていた。これが金の大定20年に発生した大決壊で分流した廃黄河の支流だろう。流れは細く、水量も少ない。河岸で水面を眺めていた二人づれに、これは廃黄河ですか、とたずねたら、そうだ、と答えた。商丘周辺には、こうした廃黄河の支流が現在も幾筋か流れているに違いない。

 河沿いに歩く。いつの間にか春水東路から興中路に移動していた。そこから柘城の中心に向かって散策する。道のあちこちに枝を払っていない竹が積まれている。近寄って見ると、数人が一組になって竹箒をつくっているところだった。柘城は竹箒の産地なのだという。

 春水東路のバスターミナルに戻り、商丘へもどるバスに乗る。田舎道を1時間ほど走ったところで、右手に見覚えのある建物が見えた。昨日訪れた閼伯台である。市街に戻ったときには、もう日が暮れかかっていた。
 黄河故道は河南省の東部を東に流れ、やがて江蘇省の北部に達する。廃黄河をたどる旅は、次の目的地である徐州に向かう。

初出『NIKKEI GALLERY』98号の内容を加筆再構成

〔参考文献〕
岑仲勉『黄河変遷史』(人民出版社、1957年)
尚起興・尚驥著『商丘史話』(新華出版社、2001年)

コラムニスト
中村達雄
1954年、東京生まれ。北九州大学外国語学部中国学科卒業。横浜市立大学大学院国際文化研究科単位取得満期退学。横浜市立大学博士(学術)。ラジオペキン、オリンパス、博報堂などを経て、現在、フリーランス、明治大学商学部、東京慈恵会医科大学で非常勤講師。専攻は中国台湾近現代史、比較文化。