唯色コラム日本語版

第03回

ツェリン・オーセルの詩とエッセイ

オーセルの詩 四篇『雪域的白』(唐山出版社、台北、二〇〇九年)より

§

一枚の紙でも一片の刃になる

一枚の紙でも一片の刃になります
しかも切れ味は割といいのです
私はなにげなくページをめくろうとしただけなのに
右手薬指の関節のところが切れてしまいました
傷口はとても小さいけれど
細い糸のように血が滲み出てきました
痛みは少しだけでしたが
私は内心この劇的な変化に驚きました
突如、紙さえ刃に変わったのでした
どんなミスで
あるいは、何がきっかけになって、こうなってしまったのでしょうか?
私はこの平凡な紙に粛然として敬意を表さざるを得ません。

二〇〇七年一〇月一六日、北京

§

結末!

刀剣が林立していることを承知したうえで
刀剣の先端部分が甘い蜜で濡れているのが目にとまる。
舌を伸ばしてなめたくてたまらない――
あぁ、どんなに甘い蜜だろうか!
もう一口、もう一口、もう一口……
あれ、舌はどうなった? 私たちの舌は?
いつのまに切り取られたのだろうか?

二〇〇七年一〇月三日、北京

§

雪国の白

白い花心の中で、彼女はドルジェ・パクモ〔聖なる山の女神〕が舞っているのを見た!
いや、それは白い花心ではなく、高山の頂きだった。

白い火焔のなかで、彼女はパンデン・ラモ〔吉祥天。ダライ・ラマ、チベット政府の本尊〕が走っているのを見た!
いや、それは白い火焔ではなく、山々の間だった。

起伏が連なる山麓は、菩薩の曼陀羅を囲むけれど:
星や碁石のように点々と広がる湖は、活仏の転生を現しているけれど:

白い花心はたちどころにしおれ、白い火焔はたちまち消える。
彼女は涙を飲み、遠い異郷の観音菩薩(1)に、どのような便りを伝えるのだろうか?

便り、あぁ。人から人への便りが、一つひとつの親しい名前を伝え、
ダキニ天と守護尊が一瞬身を隠すとき、無と化す。

二〇〇五年一一月一三日、東チベットのジュタンからラサへの空中で

(1)ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされる。

§

パンチェン・ラマ

もし時間がうそを抹殺できるなら、
十年で足りるだろうか?
一人の童子が聡明な少年に成長したが、
一羽のインコのように、ぶつぶつ口まねして、
ご主人の歓心を請い願うことしか話さない。

もう一人の童子は、どこにいるのだろう? 腕に生まれつきあった傷跡は、
彼の前世で、十年前に、
北京にある暗い無道の牢獄で、
手枷にきつく縛られていた。
今、消息不明の少年は、
からだじゅう傷だらけなのだろうか?!

もし暗闇が九重になっているのなら、
彼と彼は、からだを何重にして沈んでいるのだろうか?
もし光明が九重になっているのなら、
彼と彼は、思いを何重にして馳せているのだろう?

もしかしたら暗闇と光明はそれぞれ重なりあって、
彼はからだを沈め、思いを馳せ……

クンチョクスム〔仏法僧〕! この逆さまな俗世で、
どれほどの無常の苦が、
パンチャン・ラマの身に輪廻で顕現したのだろうか!

二〇〇五年一〇月一二日 北京

 注記:パンチェン・ラマは、チベット仏教ではダライ・ラマに次ぐ第二位の活仏で、ゲルク(黄帽)派では最高位である。両者は対比的であったが、ダライ・ラマ一三世の時代に至って決定的に悪化し、一九二三年一一月、パンチェン・ラマ一〇世は密かにタルシンポ寺を抜け出し、中国に亡命し、この時点から中国と密接不可分の関係が始まった。
 一九五二年四月、中国軍がラサを占領すると、パンチェン・ラマはチベットに帰り、ダライ・ラマ一四世と三〇年ぶりに和解した。
 一九五九年にはダライ・ラマ一四世はインドの亡命したが、パンチェン・ラマ一〇世は中国との協調路線を選び、チベットに留まった。しかし、一九六二年、パンチェン・ラマ一〇世は中国政府に対してチベット統治政策は失政であると告発したが、失脚し、さらに翌年から九年八カ月も監禁された。
 パンチェン・ラマ一〇世は、一九八九年、中国のチベット統治政策の誤りを告発する演説を行った直後、一月二八日に急死した。
 これを受けて、ダライ・ラマ一四世とチベット亡命政府は転生者を探し始めた。ダライ・ラマ一四世は中国政府に協力を求めたが、中国政府は拒否し、タシルンポ寺の高僧チャデル・リンポチェを長とする転生者探索委員会を設置し、探させた。しかし、チャデル・リンポチェは密かにダライ・ラマ一四世に報告し、一九九五年五月一四日、ダライ・ラマ一四世はこれに基づき、ゲンドゥン・チューキ・ニマという六歳の男児をパンチェン・ラマの転生者として認定し、公式に発表した。
 これに対して、中国政府はチャデル・リンポチェたち関係者を逮捕し、処罰するとともに、新たに転生者を探し、六歳のギェンツェン・ノルブを国務院認可のパンチェン・ラマ一一世として即位させた。
 他方、ゲンドゥン・チューキ・ニマは、公式発表の後、五月一七日に、両親とともに行方不明となった。当初、中国政府は少年や両親の失踪との関わりを否定していたが、一九九六年五月二八日、当局による連行であると認めた。中国政府は、ゲンドゥン・チューキ・ニマと家族を国内で保護していると主張しているが、消息は不明のままである。ニマ性根は「世界最年少の政治犯」と呼ばれている。

§

エッセイ 一篇 『聴説西蔵』(唯色、王力雄、大塊文化、台北、二〇〇九年)より

偽造パスポートを使った活仏

 先月〔二〇〇八年一月〕、海外のメディアは、アムド地方のトゥルク(2)のシャリ〔夏里〕は、偽造パスポートで出国しようとして、香港で逮捕され、裁判にかけられたと報道しました。シャリ活仏はアムドの洛東日寺の住職ですが、報道によれば、政治的理由により青海省ではパスポートを取得できませんでした。それでも、シャリ活仏は、地元の貧困児童のために学校を建て、寺院を補修しようとしていて、その資金を得るためにはパスポートが必要でした。こうして、シャリ活仏は偽造パスポートを使わざるを得なくなり、事件となりました。これに対して、香港や台湾の仏教信徒は、シャリ活仏はずっと仏法を広め、慈善活動に励んできたことを強く訴え、情状酌量を求めました。これにより、寛容な判決が下され、二ヶ月ほど拘留された後、青海へ強制送還されました。

 それでは、シャリ活仏がパスポートを取得できない政治的理由とは何でしょうか?
 三四歳のシャリ活仏は、当局に反対する政治活動にはまったく参加していませんが、ただインドに行き、ダライ・ラマ一四世の法話を聴いたことがあり、これが政治的理由とされたと見られます。報道によれば、地元で尊敬されている活仏であるにもかかわらず、ただダライ・ラマ法王に拝謁しただけで、パスポートを取得できなくなったということです。細かな説明など無用で、ただ「政治的理由」という言葉で一括りにされてしまうのです。

 パスポートを取得できないチベット人は、シャリ活仏だけでなく、チベットの各地にいます。実は、かなり多くのチベット人はパスポートの取得がとても難しいのです。当局はしばしば「政治的理由」をあげますが、そのほとんどがダライ・ラマ法王への拝謁か亡命チベット人と関わるものです。ただ「政治的理由」と言われるだけで、人は、その性質が決定されてしまうのです(3)。まさに、昔、「三大領主」と決めつけられれば、「翻身」ができなくされたことと同じです(4)。もちろん、すべてが「政治的理由」ではありません。いずれにせよ、当局は、理由のいかんにかかわらず、発給しないと決められるのです。たとえ、自分で制定したパスポートに関する法規に公然と違反しても、そうできるのです。

 三年前、ラサで文字どおりの悲劇が起きました。シャリ活仏とはちがい、ごく普通のラサの年寄りでした。夫が不治の病にかかり、死ぬ前にインドで修行している息子に会うために、とても言い尽くせない苦労をして、ようやくパスポートを手に入れました。しかし、妻はどうしても取れませんでした。夫は痛ましい選択を迫られました。息子に会えずに死ぬか、あるいは、妻と離ればなれになって死ぬか。最終的に、夫は内心で家族の団らんをまた持てるだろうと期待しつつ一人でインドに行きました。ラサに残った妻は毎日パスポートの関係部門に懇願しましたが、まったく対応してもらえませんでした。数カ月後、夫が病死したという知らせが来て、妻は悲嘆に暮れました。

 私自身も、数年来、幾度もパスポートを申請しましたが、「政治的理由」で取得できません。ただいつまでも待ち続けるだけです。待ちわびる日々のなかで、チベット人の身の上に悲劇が一幕一幕と降りかかるのを見ています。あの二人のお年寄りは生き別れになったまま死別しました。シャリ活仏は、もはややむを得ないと偽造パスポートで密出国しようとしました。やむを得ず生命を危険にさらすチベット人は数えきれません。インド北部に巡礼し、あるいは親族を訪問し、あるいは留学しようと切望して、雪のヒマラヤを越えるのです。その中には、ネパール国境のナンバラ峠で、中国の武装警察により射殺された十七歳の尼僧ケルサン・ナムツォ(5)も……

▲二〇〇六年九月三〇日、ネパールに逃れる途上のチベット人たちを中国国境警備隊が狙撃する状況

 ネットに、「幸せはラサにはない。チベットは天国ではない」という文章があり、その中で、次のように明快な記述があります。
 「中国人は中国でパスポートを取得し、行きたい国に旅行できるが、チベット人はだめだ。中国人は毛主席のバッジを身につけられるが、チベット人はダライ・ラマ十四世の肖像を掛けることができない」
 著者はチベットで七年間暮らした漢人です。彼ははっきりと理解したのです。チベット人は、公民として享受できる正当で、正常な権利を得ていないと。それならば、チベット人は、この国の公民でしょうか? それとも植民された民族でしょうか?

二〇〇八年二月 オーセル

(2)トゥルクはもともと生まれ変わりを意味していたが、高僧は亡くなっても衆生を救うために何度でも生まれ変わってくれるという信仰から、転生の活仏を指すようになった。
(3)中国共産党や社会主義体制にとって、どのような性質の人物かが決定されることをいう。その性質が反党、反体制とされれば、差別・迫害にさらされる。
(4)「三大領主」は、旧来のチベット政府、寺院、荘園の高位高官を指し、悪質な支配者、搾取者であるため、解放により生まれ変わるという意味の「翻身」は不可能であり、差別され続ける。
(5)二〇〇六年九月三〇日、ヒマラヤ登山の国際チームが、ネパールに逃れる途上のチベット人たちを中国国境警備隊が狙撃する状況を目撃した。グループの中には子供の姿も確認され、尼僧ケルサン・ナムツォを含む少なくとも二名が殺害されたという。複数の外国人に目撃されたことで報道され、国際社会に知られた。

コラムニスト
唯色
1966年、文化大革命下のラサに生まれる。原籍はチベット東部カムのデルゲ(徳格)。1988年、四川省成都の西南民族学院(現・西南民族大学)漢語文(中国語・中国文学)学部を卒業し、ラサで『西蔵文学』誌の編集に携わるが、当局の圧力に屈しなかったため職を追われるものの、独立精神を堅持して「著述は巡歴、著述は祈祷、著述は証言」を座右の銘にして著述に励んでいる。主な著書に『西蔵在上』(青海人民出版社、1999年)、『名為西蔵的詩』(2003年に『西蔵筆記』の書名で花城出版社から刊行したが発禁処分とされ、2006年に台湾の大塊文化出版から再出版)、『西蔵―絳紅色的地図―』(時英出版社、台湾、2003年)、『殺劫』(大塊文化出版、台湾、2006年。日本語訳は藤野彰・劉燕子共訳『殺劫―チベットの文化大革命―』集広舎、2009年)、『看不見的西蔵』(大塊文化出版、台湾、2008年)、『鼠年雪獅吼―2008年西蔵事件大事記―』(允晨文化、台湾、2009年)、『聴説西蔵』(王力雄との共著、大塊文化出版、台湾、2009年)、『雪域的白』(唐山出版社、台北、2009年)、『西蔵:2008』(大塊文化出版、台湾、2011年)がある。国際的にも注目され、ドイツ語、スペイン語、チベット語などに翻訳されている。2007年にニューヨークに本部を置く人権団体「ヒューマン・ライツ・ ウォッチ」の「ヘルマン/ハミット賞」、ノルウェーの「自由表現賞」、2009年に独立中文筆会の「林昭記念賞」、2010年にアメリカの「勇気あるジャーナリスト賞」などを受賞している。
関連記事