海峡両岸対日プロパガンダ・ラジオの変遷

第07回

外交環境の変化と日本語放送の脱皮(1971~1980)

 1971年7月のニクソン米国大統領の北京訪問計画発表は、1970年代以降における中華民国の外交空間の狭隘化を預言するかのような出来事であった。この年10月の国連脱退、翌年の対日断交と続く外交上の挫折は、台湾民衆の心理にも大きな動揺を与えた。
 これに続き75年には蔣介石総統が死去、台湾の将来は内外から危惧されたが、嚴家淦新総統の下で行政院長に就き、その3年後には総統に就任した蔣經國が強い指導力を発揮、この人物の下で、以後十年余りの台湾は、順調な経済成長を軸に、米国との国交断絶など外交的な苦境を乗越え、発展を遂げていくことになる。

自由中国之声の受信証(双十節特別放送用/1979年)自由中国之声の受信証(双十節特別放送用/1979年)

1970年代の台湾放送界の動き

放送界の動き
 この時期の台湾放送界においては、前の十年間同様、放送団体の新設や統廃合は見られなかった。ただ、対外放送用設備の拡充は著しく、総出力は1970年6月の2516.9kWから、1980年12月には5481.45kWと大きな伸張を示していた。
 国内向放送に関しては、既存局による地方中継局・小電力局の拡充や、目的を特別な方向に絞った放送局(專業電台)の開局、更にはFM帯への進出といった動きが着々と進んだ。地方中継局・小電力局を多数設置したのは中広、復興の両放送団体で、特に復興は山地地区を中心として1975年に8箇所、79年には6箇所に新局を開設している。
 專業電台としての最初の局は、警察広播電台が専ら交通情報を伝えるための新系統として1971年3月に開設した交通專業電台である。これに続き、同系統の局は73年には高雄にも設置された。尚、台中でも1974年に台中交通專業電台が開局したが、この局は中国広播公司の手によって設置されたものであった。
 中国広播公司は、台中交通專業電台の外、ニュースや農業関係番組専門の放送系統も新設した。前者は1973年に開局した台北新聞專業電台である。同系統の番組は台中、台南でも中継され、77年には新聞広播網が成立した。また後者として設置されたのは中広農業電台で、台湾省政府所在地である台中近郊の中興新村に本拠を置き、1975年に放送を開始したが、この系統の放送には専用の波が与えられた訳ではなく、各局第三放送の放送時間の一部を利用して番組を送出した。

亞洲之声の開局直後の受信証(1979年)亞洲之声の開局直後の受信証(1979年)

 尚、この時期に起った放送関連の事項として、見落してはならない出来事が二つある。その一つは政策上の問題で、放送の使用言語規制が法定化されたことである。元々台湾住民の圧倒的多数は閩南語の使用者であったが、戦後台湾の支配者となった国民政府は、国語イデオロギーに基づく国語(標準語)推進政策を実施した。一方、放送の実態について見れば、住民の使用実態を反映して、特に民営放送局では方言を使用した番組が日常的に流されており、当局側の方言使用に対する規制も、学校教育の場などとは異り、「ラジオ局は国内放送に対し、その放送言語はなるべく国語を主とし、方言番組時間の比率は50%を超えてはならない。国語と方言の放送部分を個別に設ける際も、その方言番組時間の比率は、それぞれ合わせた合計の50%を超えてはならない」(「広播及電視無線電台節目輔導準則」第3条…1963年公布)という比較的緩かなものであった。併し、1966年に開始された中華文化復興運動の中で、国家の統一言語である国語の更なる推進が強調され、放送における方言番組の廃止或いは削減の主張が声高に叫ばれるようになった。そして1976年1月に制定を見た広播電視法第20条において「放送局は国内向の放送使用言語には国語を主とすべきとし、方言は逐年減少させること。その占める比率は、新聞局が実際の需要に即してこれを定める」との規定が明文化され、方言番組の占め得る位置は、著しく狭められたのである。
 もう一つは技術上の問題で、中波放送局の大部分で周波数変更が行われたことである。国際連合の下部機関で無線通信・電気通信の標準化を図る国際電気通信連合(ITU)の指針に従い、アジア・大洋洲地区の中波放送は、1978年11月23日をもって、使用周波数を従前の10kHz間隔から9kHz間隔に改めることになった。ITUの加盟国ではない台湾は、その指針に従う義務はない立場にあり、事実この日に周波数を変更した局は皆無であったが、1979年に入ると周波数変更を行う局が現れ始め、同年中には半数近い局が新周波数へと移動、翌80年までには大部分の局が移動を完了した。

亞洲之声担当者からの受信報告に対する礼状(1979年)亞洲之声担当者からの受信報告に対する礼状(1979年)

大陸向放送の動向
 国内向放送を廻る使用言語論争などとは関わりなく、この時代にも対外放送は、大陸向、海外向共に年々拡張されていた。
 大陸向放送の中核的存在である中央広播電台は、1971年から翌年5月にかけ「定遠計画」に基づく虎尾送信所の100kW送信機複数基、78年3月には「自強計画」による淡水送信所の新送信機を稼動させるなど着々と設備を増強した。編成面では1971年に終日放送を開始し、一時は辺境語、方言も含め6系統による放送を実施したものの、77年までにこれを国語、方言、辺境語の3系統に集約した後、80年7月には上海語放送を廃止する一方、政治的要素の比較的薄い国語第二放送を開始するなど放送内容の整備も図った。この間、従来形式的とは言え存在していた中広の大陸広播部は1972年7月1日付で国民党中央委員会傘下の中央広播電台として独立し、同組織はその8年後の1980年7月1日には国防部の傘下へと再移管された。また、これと同日に空軍広播電台は国内向放送を停止、大陸向專門の放送局となった。尚、正義之声は1976年に同じ国防部情報局傘下の復興広播電台に併合されたが、その送信設備や周波数が引継がれることはなかった。

海外向放送の拡充
 1960年代には大陸向放送に比べ伸張の度合いが低かった海外向放送に関しても、この時期には著しい拡大が図られた。
 自由中国之声は、1971年に雲橋送信所の100kW送信機を稼動させた後、76年には安南送信所に250kWの短波送信機4基を設置、運用を開始した。この結果同局は3系統の番組を同時に送出することが可能となり、一日当りの放送時間は44時間50分、総出力は1473.5kWに増加した。送信方向・言語面では中南米向に西語放送が開始され、中東向のアラビア語放送が復活した。
 また、1979年1月には亜洲之声が放送を開始した。この局は、通信先を高雄の私書箱に置き、新しい海外向放送局であるように装っていたが、実際は自由中国之声の演奏室で自由中国之声の担当者が番組を制作、放送しているもので、自由中国之声の一系統と称する方が相応しい存在であった。亜洲之声は東南アジア向に政治色の比較的薄い番組を、国・英・泰・インドネシアの4種の言語で、島内南端部恒春半島の枋寮に新設された600kW中波送信機(後には短波周波数1本を追加)により放送した。

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コラムニスト
山田 充郎
1948年、大阪府出身。少年時代より漢字・漢文と放送に興味を持ち、会社勤務の傍ら漢文学と放送史の研究を継続、退職後の現在に至る。放送面で関心の深い分野は、中華人民共和国以外の中国語圏、特に台湾・マカオのラジオ放送並びに近畿圏、特に大阪の放送とプロ野球・高校野球中継について。放送研究団体アジア放送研究会理事。東京都在住。
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