1970年代前半の日本語放送

日華断交と日本語放送の増強
 日本万国博時に嚴家淦副総統が来日した1970年夏頃まで、比較的頻繁に採上げられていた台湾関係の新聞報道は、その後減少の一途を辿っていった。時折掲載される記事も、その大部分は外電からの転載であり、自社の記者の直接取材に基づく報道は殆ど見られなくなった。国府が国連から追われた際、各紙上に自社の記者が現地から伝えた記事は見ることが出来ず、田中内閣が中共政権承認の方向を固め、その方針を国府側に説明するため椎名自民党副総裁が訪台した時でさえ、台北に記者を派遣した大手新聞社は、半数に満たなかった。

『蔣總統秘録』(『蔣介石秘録』の中文訳書)第一巻(1974年)

『蔣總統秘録』(『蔣介石秘録』の中文訳書)第一巻(1974年)

 このような状況に対し、国府側でも手を拱いていた訳ではなかった。そして、1972年9月、従来一日1回、1時間だけの放送であった自由中国之声日本語番組の放送時間は、一挙3倍に増加した。追加された放送時間は06:00~08:00の2時間で、聴取者の便宜を図った時間帯とは言い難く、その内容も前日夕方に放送された番組を二度繰返すというものであったが、何れにせよこうした放送枠拡大は、国府当局が当時の日本政府の動きを如何に深刻に認識し、日本国民に対する周知に腐心していたかを如実に示すものであった。そしてこの時、従来毎回の放送の冒頭だけで流されていたニュースは、各回の放送開始後40分頃からも流されるようになった。
 北京で日中共同声明が公表された1972年9月29日の深夜、中華民国政府は日本との外交関係を断絶する旨の声明を発表した。この発表が同日ぎりぎりの時間となったのは、外交部が文案の練り直しに時間を要したためであった。そしてこの日は、日本語放送の担当者にとっても、忘れられない一日となった。卓菁湖はこの時の想い出を「日本語海外放送50周年に寄せて」と題する文章の中で、次のように語っている。
 「日本語放送50年の中で、私はこの放送に25年間携わりました。放送生活を振り返って見ますと、過ぎ去った日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡ります。その中で最も忘れがたい事柄がいくつかあります。(中略)
 一番長かった日は、日本と国交を断絶したときでした。その日は零時前に外交部の断交声明文が局に到着、直ちに日本語に翻訳、徹夜で録音、特別番組を制作、翌朝5時(注:日本時間午前6時)の放送に出しました。24時間勤務したことになり、一番長い日でした。でもこの放送が日本のテレビ、ラジオ、新聞に引用され、苦労も忘れてしまいました」
 断交声明後3箇月を過ぎ、両国間の外交事務処理機関が発足して新関係の方向も定まりつつあった1973年の1月1日から、朝の放送は06:30~07:30の1回となり、当時は放送時には現場に立会っていなければならなかった卓の毎日の生活にも、漸く落着きが戻って来た。

「蔣総統秘録」の開始、蔣介石総統の死去と日本語報道
 1974年8月15日、サンケイ新聞(現・産経新聞)は、「蔣介石秘録」と題する伝記の連載を開始した。この伝記は、中国国民党党史委員会などの協力を得て、蔣介石総統の記述や回想、中華民国政府の公文書、外交文書、中国国民党の公式記録に準拠して記されたもので、その記載内容は当時の中華民国政府の公式見解ともいうべきものであった。自由中国之声日本語放送では、初回記事の翌日である8月16日から「蔣総統秘録」との標題で、前日付同記事の朗読を放送した。「蔣介石秘録」の掲載が、月曜日には行われなかったことから、「蔣総統秘録」も、火曜日を除く毎日の番組となった。この番組は記事の掲載終了の翌日である1976年12月26日まで650回に亘って放送された。

刊行後初期の月刊『自由中国之声』(1976年)

刊行後初期の月刊『自由中国之声』(1976年)

 この記事の連載の最中、1975年4月5日に蔣介石総統は死去した。享年87歳であった。当時台湾関係の記事の登載には極めて慎重であった日本の各紙も、このニュースだけは紙面を大きく割いて報道した。併しこの時も、当時台北に「蔣介石秘録執筆室」を置いて記者を常駐させていたサンケイを除き、自社の記者による現地からの報道を行った新聞社は皆無であった。見出しに「中華民国」或いは「国府」の語が記されていた新聞もなかった。そして各紙の見出しに掲げられた故人への敬称は「総統」ではなく、「氏」とするものが圧倒的多数を占めていた。その中には、発行地により「総統」と「氏」を使い分けられていた新聞もあった。
 故総統の死去時刻が5日午後11時50分、その発表が6日の未明であったため、自由中国之声日本語放送では6日朝の番組中にこの一報を挿入することは出来なかったと考えられるが、この日の夕方(日本時間18:00~19:20)の放送では、蔣総統の逝去とその遺言の全文、嚴家淦副総統の総統就任を伝えるニュース、故人の事績などが報じられ、その翌7日の番組では、開始告知の後に合唱曲が約4分間流され、ニュースの時間は短縮されるなど、特別の番組編成体制が執られた。また流される音楽の大部分も、故人の逝去を悼む哀しみを帯びた曲であった。こうした特別の番組編成は、16日に挙行された故総統の葬儀当日頃まで続いた。

BCLブームと来信数の増加
 日華関係の激変に伴い自由中国之声が対日放送を増強したのとほぼ時を同じくして、受信側である日本のラジオ聴取者の間にも、大きな変化が生じつつあった。短波放送の聴取者が激増して来たのである。日華間の外交関係が断絶した1972年、ソニーは短波放送受信の便を図った受信機ICF-5500(スカイセンサー5500)を発売、大々的な商品広告により短波放送に対する知識の周知を図った。これに続き松下電器もその翌年、クーガー・シリーズを発売するなど、短波受信機市場への参入が活潑化、これに伴う一般の新聞雑誌での記事や広告の増加もあって、聴取者の幅は大きく広がり、所謂BCLブームが現出したが、その中心となったのは中学・高校生であった。
 BCLブームの結果、海外の短波放送局、特に日本語放送を実施している放送局では、受信報告など日本からの信書が著しく増加し、各局における日本語部門は、局内におけるその地位を高めることになったが、自由中国之声の場合、その時期が政治的要請から日本語放送枠を増設した結果と看做し得る時期と重なったため、関係者にとっては甚だ好都合な状況が生まれた。同局においては、1973年初めには月100通余りであった来信数が月を逐うごとに増加していたが、日本語班は聴取者の通信の便を図るため、日本国内に私書箱を設けたいと要望、これが認められて、同年12月に同局初の在外私書箱が大阪に開設され、続いて翌年5月には東京にも設置された。局への信書や受信報告が国内便で送付出来るようになったことで、その数は益々増加、1972年末時点では5469名であった同局への累計来信者数は、73年中に2122名の増加を示し、73年12月段階で441通であった月間来信数は、74年4月に687通となり、翌5月には1351通と倍増、四桁に達した。こうした来信数の増加のうち、所謂BCLブームに伴う部分と、同局自身の工夫・努力による部分との占める割合がそれぞれどの程度であったかを分析することは甚だ困難であるが、局自体の、そして日本語班独自の積極的な働きかけが奏功したことは確かであろう。

放送時間と番組
 1970年代初頭における自由中国之声日本語放送の放送時間、使用周波数、番組編成は、1969年9月の1時間番組開始当時から変化のない状態であった。
この中、最初に変化が見られたのは番組編成であった。1971年11月の改編の結果、毎日の放送番組は次の通り変更された。

表1

(1971年11月7日改訂)

 1972年9月、日華間の外交危機に伴い、一日1回であった日本語放送が一日3回に増加し、毎回の放送の後半にもニュースが流されるようになったこと、翌年1月には朝の2回の放送が1回になったことは、前にも述べた通りである。因みに1973年3月時点における番組編成は次の通りであった。

表2

(翌日06:30~07:30は、前日17:50~18:50の番組を再放送)

 この翌74年6月、「中国語学習講座」が始まった。これに続き8月には「蔣総統秘録」が放送を開始、11月には夕方の放送が18:00~19:20の1時間20分に延長された。尚この頃、特に朝の放送に使用されていた周波数は非常に多く、番組表上の記載や放送開始時の告知によれば、最大11の波が記録されている。

日本人担当者の登場とその増加
 1970年当時における日本語班の構成員は、卓菁湖、許純美(1968年入局、以下括弧内の年次は入局年)、黃國彥(1969年)、王博雅(1970年)の4名であった。この中、許純美が退職したため、放送は暫くの間男子3人の体制で進められた。
 ある日、一人の邦人女性が日本語班に現れ、自由中国之声での勤務を志願した。訪台前はNHKでイタリア語放送を担当していた坂斉万知子と名乗るこの人物は、希望していたイタリア語班ではなく、日本語要員として採用された。中国語には全く無知であったものの、英語にも通暁していた坂斉は、ニュースは英語放送用の原稿を訳して放送した。日華断交後間もなく、この初の邦人アナウンサーは、駐在員であった夫の転勤に従って退局した。
 黃國彥は1972年末ごろ退局、その後任として上海の学校を卒業し,早稲田大学で言語研究を行った経験を有する謝良宋が入局した。また王博雅は1973年末頃に退局、後任者として基隆出身の劉麗蕙が入局した。この外、一旦退局、渡米していた許純美も復帰、録音番組や「蔣総統秘録」等数多くの番組を担当した。
 また、来信数の激増もあって、局としても日本語担当者増員の方向が打出され、三浦四枝、石橋優、門馬博などの邦人要員が、1974年から75年にかけ次々に入局した。