海峡両岸対日プロパガンダ・ラジオの変遷

第05回

国民党系放送局の接収、国営化、公私合営──ラジオペキンの1950年代

合作社に電灯をつける(中国革命宣伝画、「CHINESE PROPAGANDA POSTERS」TASCHENより)

◁合作社に電灯をつける(中国革命宣伝画、「CHINESE PROPAGANDA POSTERS」TASCHENより)

 革命根拠地の延安(陝西省)から瓦窰堡、そして河北・渉県の沙河村、石家荘の西柏坡などを転戦して北平に入城した新華廣播電台は1949年6月20日に日本語放送を開局し、同年10月1日、中華人民共和国の建国とともに北京放送局(ラジオペキン)と改名して現代史における国際放送の歴史を刻みはじめた。まもなく迎えた1950年代の中国は毛沢東が発動した三反五反、土地改革、公私合営、百花斉放・百家争鳴、反右派闘争など幾多の政治運動や急進的な合作社、人民公社、大躍進運動などに翻弄され、「風暴の十年」(周鯨文)と称される過酷な歳月だった。中国の放送界もその余波を受けて中共の政策にそった再編が進行し、国際部門のラジオペキンもその時々の政治環境に影響された。
 

建国前後における中国の放送界をとりまく政治情勢

 建国当初、中華人民共和国の最高権力機構は中国人民政治協商会議で、中国共産党と民主諸党派、各種民主人士との連合政権だった。政治協商会議が定めた共同綱領によれば、新国家の政治体制は国内のブルジョア階級と連合した新民主主義で、労働者階級が指導し、労農同盟を基礎として、民主諸党派と国内各民族を結集した人民民主独裁を実行すると謳っている。中国は少なくとも建国段階においては社会主義を標榜していなかった。それは毛沢東が1940年1月9日、延安で開催された陝甘寧辺区文化協会第1回代表大会で「新民主主義の政治と新民主主義の文化」と題する演説を行って方向性を打ち出したものである。ところが毛沢東は建国後の1952年ころから、中国の現状は半封建・半植民地社会を受け継いだものであり、建国から10年〜15年間はその旧習を取り除いて社会主義改造を実施し、社会主義を実行するのはその後とするという前言を翻して、すぐに社会主義体制に移行する方針を掲げ、それは1954年憲法に「過渡期の総路線」として明記された。これにより社会主義に移行するための方策が矢継ぎ早に提起され、三面紅旗(総路線、大躍進、人民公社)路線として1950年代の中国社会を覆った。毛沢東は、なぜ社会主義への移行を急いだのか。それは、米国による中国封じ込め、朝鮮戦争に触発された国内ブルジョア階級の「反攻」に対する恐怖、そして公私合営政策による民営資本の「国営」化、土地改革の進展などがあったからだとされる。

中国人民政治協商会議のシンボルマーク

◁中国人民政治協商会議のシンボルマーク

 毛沢東はまた1949年6月30日、中華人民共和国の建国を宣言するための準備段階で中国共産党の創立28周年を記念して『人民民主主義独裁について』と題する論文を発表している。その論文には「きみたちは独裁だ。愛すべき先生がたよ、お言葉どおりで、われわれはまったくそのとおりだ」という中共に反対する勢力を揶揄する有名な一句がある。後にリベラリストとなった李慎之は青年期にそれを初めて読んだとき違和感に襲われたが、すぐにこれは毛主席一流の奥深い表現でマルクス・レーニン主義の原理を表したにすぎない、と思い直した。それから7年後、ソ連共産党の第20回党大会が開催された後でイタリア社会党のピエトロ・ネンニ書記長が提出した「ひとつの階級の独裁は必然的に一党独裁を招き、一党独裁は個人独裁を引き起こす」という公式に接する。

中華人民共和国の憲法公布を祝う(中国革命宣伝画、「CHINESE PROPAGANDA POSTERS」TASCHENより)

◁中華人民共和国の憲法公布を祝う(中国革命宣伝画、「CHINESE PROPAGANDA POSTERS」TASCHENより)

 その後、折に触れて西柏坡時代に毛沢東が発した指示「勝利するには北京を打ち、龍庭を一掃して天下をとらなくてはならない」というくだりや、「私はマルクスに秦の始皇帝を足したものだ」という言葉を思い出した。このとき、ネンニや毛の発言にはお互いに真逆の正と負の韻律があり、すなわちアクトン卿が喝破した「権力は人を腐らせ、絶対権力は必ず腐敗する」という言葉の意味を悟った、と述懐している。李慎之は若き日の開国の大典に出席したときにはこの言葉の意味を理解できず、また想像すらしていなかったのである。
 毛沢東が建国後まもなく発動した幾多の政治運動は、共産党に批判的な民主諸党派や、本来は連合すべき市井の民主人士をあぶり出して粛清しようと目論んだものである。その企ては1956年5月に陸定一が知識人の自由な発言を呼びかけた「百花斉放・百家争鳴」運動を経て、1956年7月に発動された反右派闘争が終了するまでにほぼ達成され、中共党外にあった有能な民主人士や実業家の多くがことごとく打倒された。毛沢東と中共の独裁体制が確立され、民主諸党派と政治協商会議は、中共の独裁政策を正当化するための追認機関にされていった。

 

ラジオ局の再編

旧満州の首都放送局。建国後、長く吉林省電信公司が入居した

◁旧満州の首都放送局。建国後、長く吉林省電信公司が入居した

 中央人民廣播電台は建国後、中共のイデオロギーをラジオ放送で人民に伝播する役割を担うことになり、それは1950年4月から放送を始めた「社会科学講座」などの番組で実施に移された。「社会発展史」(艾思奇講師)や「政治経済学」(王恵徳、于光遠講師)、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」、レーニンの「帝国主義論」と「国家と革命」、そして毛沢東の「新民主主義論」など中共イデオロギーで解釈された共産主義の基礎知識をプロパガンダする番組が精力的に編制され、それらを各党政機関、軍隊、社会団体、学校などが組織的に聴取して学習した。番組の講師を務めた艾思奇(1910-1966)は中共中央高級党校の副校長、中国哲学々会副会長、中国科学院(CAS=Chinese Academy of Sciences)の哲学社会科学部委員を歴任した哲学者であり、于光遠(1915—2013)と王恵徳(不詳)はともに著名な経済学者で、とくに于光遠は延安中山図書館主任、北京大学図書館系教授、中共中央宣伝部理論宣伝処副処長、国家計画委員会経済研究所長、中共中央顧問委員会委員、中国社会科学院(CASS =Chinese Academy of Social Sciences)顧問などを歴任した大物である。
 こうした番組編制と平行して、ラジオ局をつかさどる中央廣播事業局は国民党が経営した放送局の接収、民間(民営)放送局の国営化、そして当時のラジオ受信機がそれほど普及していなかった状況のなかで、人民に放送を聴かせるための廣播収音網(放送受信ネットワーク)の確立を急ぎ、党政機関、学校、職場などにおけるグループ聴取を促した。

国民党系放送局の接収
 中国大陸の西南、華南および沿海の島嶼地域では中華人民共和国の建国後もまだ100万人以上の国民党軍による抵抗がつづき、傘下のラジオ局が放送を継続していた。中共中央軍事委員会は中国人民解放軍と改名した党軍を使って白崇禧が率いる桂軍(広西軍閥)との衡宝(衡陽・宝慶)戦役、宋希濂が率いる軍隊との貴陽戦役、重慶戦役、成都戦役などを闘って、各地の国民党系ラジオ局を接収し、それを人民廣播電台に再編していった。国民党軍直属の「軍中之声」廣播電台は戦況の悪化にともない、その局址を南京から広州、重慶へと移し、1949年11月には成都まで南遷していた。国民党の対外宣伝を担った国際廣播電台(国際放送局)は臨時首都の重慶にあったが、同月28日、国民党は放送設備の主要部分を破壊して重慶の陥落に備えた。この直前、国際放送局のなかで中共の浸透工作に与した局員は臨時職工会を組織して100ワットの送信設備を保全し、中国人民解放軍約法第八章と毛沢東の「新民主主義論」を朗読・放送するという一幕もあった。

八木寛(前列右)、呉緒彬(前列左、ラジオペキン記者、後に中国国際廣播出版社々長)、唐家璇(後列中央)、徐敦信(後列左)〔李順然「東眺西望」二十二(CRI online 日本語)より〕

◁八木寛(前列右)、呉緒彬(前列左、ラジオペキン記者、後に中国国際廣播出版社々長)、唐家璇(後列中央)、徐敦信(後列左)〔李順然「東眺西望」二十二(CRI online 日本語)より〕

 こうした情勢のなか、中共はとくに重慶においては国際放送局を重視し、陥落の当日(29日)、中央廣播事業局は中国人民解放軍第一、第二野戦軍の護衛で重慶に進駐し、重慶市軍事管制委員会を組織して国際放送局を接収し、そこに西南人民廣播電台と重慶人民廣播電台を開局した。
 国民党支配地区における放送局の接収には、当地に駐屯する中国人民解放軍軍事管制委員会と中央廣播事業局の代表に現地の中共地下党員が協力した。1949年10月16日には広州廣播電台、11月17日には貴州廣播電台、12月末までには雲南、四川の国民党系ラジオ局を、翌年2月には雲南省の昆明廣播電台をそれぞれ中共の管理下において、西南、華南地域における人民廣播電台への再編を完了した。
 中共は1951年3月5日の段階で、全国の放送網を中央、大行政区(地域)、省、市、民族及び鉱山区の等級に整理・統合している。
 中央とは北京に所在した中央人民廣播電台のことで、これは中国におけるラジオ放送の中核である。
 大行政区(地域)級は、東北、西北、華東、西南、中南の各地域人民廣播電台で、それぞれに属する省人民廣播電台を統括した。
 省級には、黒龍江、吉林、河北、察哈爾、遼東、遼西、熱河、松江、山東、河南、浙江、皖北、蘇北、蘇南、湖南、新疆、甘粛、川西、川南、山西、綏遠、福建、江西、雲南、平原、広東、広西、青海、貴州の29省人民廣播電台が含まれ、それぞれの省内にある市人民廣播電台を管轄した。
 市級には、北京、天津、張家口、石家荘、瀋陽、哈爾濱、旅大、長春、上海、南京、贛南、徐州、杭州、青島、福州、廈門、無錫、南通、武漢、広州、開封、長沙、西安、重慶、昆明、成都の26市人民廣播電台があった。
 民族(少数民族地区)及び鉱山区級には、内蒙、延辺、唐山、撫順、鞍山、本渓、淮南に人民廣播電台が設けられた。
 そしてこれらのラジオ局で編制された番組を電波にのせるため、全国に89基の長波、中波、短波の送信所を整備して国内外への放送を開始した。

民間(民営)放送局の国営化 
 中華人民共和国の建国直前、中共中央は「新解放都市に残存する廣播電台およびそれらの従業員に対する政策決定」を公布し、「新政体下の放送事業は国営に帰し、民営を禁ずる。国営への転換が決まった時点で放送機材などは政府がそれまでの事業主に相応の代価を支払って買い上げ、軍事管制期間は当地の軍管委員会の管理下に置かれる。外国資本ならびに外国政府が経営する放送局は一律に電波停止とする」ことを通知した。この決定にもとづき、1949年6月13日、中共統治下に移ったすべての都市のなかで上海市軍事管制委員会がトップを切って「上海市の民営廣播電台に関する暫行管制条例」を敷いた。条例は、民営放送局は軍管委が指定する人民廣播電台の番組を中継し、許可なくみずから編制した政治番組を放送することはできず、短波も使用してはならないことを規定している。短波放送が禁止されたのは、外国などの遠隔地に反政府目的の放送が流されるのを危惧したためだろう。上海につづき、北京市軍事管制委員会も同年9月29日に「北京市の民営廣播電台に関する暫行管制条例」を公布し、「民営廣播電台は軍管委に再登録を行い、外国人は放送局を設置することができない。放送電波は中波のみの使用が可能で、毎日、北京新華廣播電台のニュース番組を中継しなければならず、軍事管制期間中は自作のニュース番組を放送することはできない」ことを規定している。その後、各大都市の軍事管制委員会も上海や北京と同様の規定を定めている。
 1950年4月の統計によれば、中国全土に民営放送局が33局あり、その地域的な分布は上海に22局、広州と重慶にそれぞれ3局、寧波に2局、北京、天津青島にそれぞれ1局が存在していた。

局名 周波数(khz) 波長(m) 出力(w) 局長
上海 大中華 960 312.50 500 潘国夷
大陸 960 312.50 500 趙楽事
亜美 990 303.03 500 蘇祖国
麟記 990 303.03 500 劉鳳麟
東方 1050 285.70 500 陳■春
華美 1050 285.70 500 李佩衍
元昌 1080 277.70 450 張元賢
滬聲 1080 277.70 500 李介夫
九九 1140 263.20 200 朱智民
合衆 1140 263.20 500 王丹青
金都 1220 245.90 400 王福慶
鶴鳴 1220 245.90 400 王叔賢
民聲 1250 240.00 500 葛正心
中華自由 1250 240.00 500 陳信厚
建成 1310 229.00 500 陸錦栄
新聲 1310 229.00 500 史美申
大中国 1370 218.90 500 陳亦
大同 1370 218.90 500 劉寶椿
亜洲 1400 214.30 500 張■椿
大美 1400 214.30 500 李載華
福音 1430 209.80 500 王完白
大滬 1430 209.80 500 張一■
広州 時代 1000 300.00 500 岳中権
新生 1072 229.80 400 王梓材
滕利 1243 241.00 200 劉詒康
重慶 谷聲 1340 223.00 100 不明
陪都 950 316.00 300 不明
萬国 不明 不明 不明 不明
寧波 寧■ 1010 297.00 200 張寧鐘
寧波 250 250.00 25 王之祥
北京 華聲 1080 477.80 200 張芷江
天津 中行 1020 294.10 400 凌延璋
青島 山東無線電業行 1420 216.00 300 袁有為

■は印刷が潰れた判読不能字

 上に見たように上海に民営放送局が集中していたのは、同地が民営局の発祥の地であり、中国でもっとも濃厚に資本主義が発達した都市だったので、商業ラジオが活動する余地が大きかったからだろう。以下、上海、北京、天津における民営放送局の国営化プロセスを完結に敷衍してみよう。
 接収や電波停止を受けた民営放送局は、それらの大半が国民党の政治機関や派閥、あるいは軍の影響下にあった。たとえば北京市軍事管制委員会は1949年10月25日、『中国』、『民生』、『軍友』の3局を封鎖し、翌日の『人民日報』は短評で「反革命分子が仮名で民営放送局にもぐりこむことは許されず、罪状の軽重に従い厳しく取り締まる」と軍管委の方針を代弁している。これ以前の3月、すでに中共が侵攻した天津市でも軍管委が『文化』、『青聯』、『華聲』の3局に対して電波停止の措置をとった。
 また軍管委が定めた条例や人民政府の法令に違反して放送を停止させられたラジオ局としては、たとえば上海市で1950〜52年に電波停止になった『鶴鳴』、『亜洲』、『新聲』など6局の例がある。

公私合営の美名による民営放送局の国営化
 中共はブルジョア階級と連合するとした新民主主義路線を反古にして、1952年前後から「公私合営」政策を前面に押し出し、「合営」の美名のもとに民営企業を国営化に誘導し、「社会主義改造」を急いだ。民営放送局はその洗礼をもっとも早く受けた業界で、国営化が急速に進んだ。

八木寛、李順然、方宜(1970年代から80年代にかけて日本語組長)〔李順然「東眺西望」二十一(CRI online 日本語)より〕

◁八木寛、李順然、方宜(1970年代から80年代にかけて日本語組長)〔李順然「東眺西望」二十一(CRI online 日本語)より〕

 中共が上海に侵攻した当初、民営ラジオ局の「新滬」、「合作」は官僚資本に牛耳られていることが発覚し、これらの資本金は没収され、2局は公私合営「大滬」、公私合営「滬聲」に再編され、1952年10月には上海人民廣播電台とこれら2局、およびその他の14局で公私合営「上海聯合廣播電台」をつくり、上海人民廣播電台が中共側代表として運営の実権をにぎった。翌年6月には上海聯合廣播電台股份有限公司が成立して董事7人が選任され、董事長は中共側の代表が務めた。番組はすべて上海人民廣播電台が編制し、戯曲、教育、広告などを三つの周波数を使って放送した。公私合営になった民営16局の経営者の大半が無線電工商企業家で、このままでは経営が行き詰まって利益を上げることが難しいと判断し、9月には上海聯合廣播電台民間代表の名前で株式や設備を人民政府に売却してラジオ局の経営から撤退することを表明した。これを上海人民政府が審査・批准し、上海人民廣播電台から9億人民元(旧幣)を支出して放送設備を買い上げ(国営化)し、上海聯合廣播電台の社会主義改造が完成した。同局は1956年6月、上海人民廣播電台に吸収される形で放送を停止している。これが公私合営による民営から国営への典型的なプロセスである。
 上に示したように、ラジオ局の「社会主義改造」はその他の資本主義工商業分野よりも早期に進められた。それは当時の社会ではラジオ局が中共のプロパガンダには必須の宣伝媒体だったからだろう。

 

ラジオペキン(日本語組)の50年代

 日本が1945年8月に降伏すると、ソ連軍と中共東北委員会は吉林の新京廣播電台を接収し、そこから流されていた日本語放送はソ連軍の管理下に置かれた。翌年、大連廣播電台が、48年7月には東北新華廣播電台(瀋陽)が旧満州(東北地方)に残留していた日本人居留民向けに日本語放送を開始した。毎週1回水曜日に30分間だけ流されていた延安新華廣播電台の日本語放送は送信設備が故障した1943年で中止に追い込まれ、新たにスタートするのは中共が北平に侵攻したあとの1949年6月である。北平新華廣播電台が開局して対日放送を開始すると、東北各地の日本語放送はその使命を終えて電波を停止した。
 北平新華廣播電台の日本語組が正式に開局する前の試験放送期、対日放送のスタッフは呉国泰と王艾英、そして半日だけ手伝いにきていた張紀明の2人半だったが、そこに蘇琦、日本の帝国大学を卒業して翻訳担当になった男性2人、そして陳真が加わって6人体制になったことはすでに前稿で述べた。そこへ東北新華廣播電台(後の東北人民廣播電台)にいた八木寛が同局の日本語放送停止後、ラジオペキンに移籍してきた。
 以下、八木のラジオペキンにおける足跡をたどりながら、当時の日本語組の様子を再現してみよう。

八木寛──最初の日本人局員
 旧満州の新京(長春)で満州映画製作所(満映)にシナリオライターとして勤めていた八木はそこで敗戦を迎え、中共東北局日本管理委員会(張安博主任)のもとで満映の巡映課長だった大塚有章や映画監督の内田吐夢ほか80名以上の日本人とともに中共管轄下にあった東北電映公司に入った。その後、1948年に瀋陽の東北人民廣播電台に編入され、同年8月15日から日本語放送の創設準備に加わっていた。この間、八木は旧満州に暮らしていた日本人に中国の実情を知らせるため、毛沢東の『延安の文芸座談会における講話』を日本語に翻訳し、瀋陽で発行されていた日本語新聞『民主新聞』に発表した。そのことが契機となって、八木は毛沢東の著作を最初に翻訳・出版した日本人といわれるようになった。八木が日本の敗戦後も旧満州に残留したことについて、八木の子息たちは「この目で日本軍、国民党軍、ソ連軍、八路軍という4つの軍隊を見てきた。そのなかで最も規律が正しく、まじめで正直だったのが八路軍の兵士たちだった。彼らとの出会いに深く感銘し、心の底から彼らに協力したいと思い、シナリオライターだった自分の専門分野である映画の仕事で、彼らとともに新しい中国の発展のために仕事をすると決めた」という八木の回想を証言している。

李順然、李建一(お便り組)、金宝光(翻訳組)〔李順然「東眺西望」十七(CRI online 日本語)より〕

◁李順然、李建一(お便り組)、金宝光(翻訳組)〔李順然「東眺西望」十七(CRI online 日本語)より〕

 旧満州の日本語放送がその使命を終えたあとの1949年10月、八木はラジオペキンが最初に雇用した日本人局員として日本語組に移ってきた。
 八木にはラジオペキンに入局したとき、すでに妻と一男一女がいた。その後、さらに2人の男子をもうけている。一家は当初、故宮の北側にある護国寺に近い麻花胡同の放送局が所有する住宅に住んだ。護国寺には国際放送の送信所があり、その周辺の敷地には日本占領時代から放送局の社宅や倉庫が並び、放送局が戦略要地だったため外部とは厚い壁で隔てられていた。住宅は一戸建ての日本式家屋から畳と障子、襖をはずして洋式の板張りに改装した建物だった。その住宅には、日本時代の五右衛門風呂が撤去されずに残っていた。1958年、復興門街の南礼士路にソ連式の尖塔が美しい廣播大楼が竣工するとラジオペキンの日本語組も六部口の旧局舎からそこの3階に移り、八木も放送局に隣接する「老三〇二」宿舎に引っ越してきた。
 当時、ラジオペキンの番組には「胡同の物売りの声」、「鑑真和尚の足跡をたずねて」、「街で拾った話」、「あの話、この話」、連続ラジオ小説「西遊記」、「水滸伝」などがあり、それらは八木が制作を担当したものだ。「胡同の物売りの声」は毛沢東が社会主義改造を急ぎ、民主諸党派や各種民主人士の粛清を目的に発動した反右派闘争のさなか、「もっとも反動的で落後した階層に迎合するものだ」とか「すでに改造された旧社会と個人経営の経済に寄せる恋々とした情をあますところなく示すものだ」などとしてきびしく批判されたことがあった。
 八木は入局当初、呉国泰のもとで副統括を務め、呉が昇進してアジア部副主任に転出すると日本語組長に昇格した。ラジオペキンの各国語放送組の長い歴史のなかで、外国人が組長を務めたのは八木をおいて他にいないと、1970年代後半から80年代にかけて日本語部長を務めた李順然は回想している。
 そのころ、後に駐日公使や外交部長、国務委員などを務めた唐家璇や駐日中国大使や外務次官、全人代外事委員会副主任などの要職を歴任した徐敦信は日本語組で研修を行った際、八木の薫陶を受けたことがある。
 八木は文化大革命中の1970年、日本に帰国している。晩年は北京で暮らし、2009年12月3日に93年の生涯を閉じた。

 

〔主要参考文献〕
孫東民・于青編『友誼鋳春秋──為新中国做出貢献的日本人』(新華出版社、2002年)
中央人民廣播電台研究室、北京廣播学院新聞系合編『解放区廣播歴史資料選編』1940-1949(中国廣播電視出版社、1985年8月)
中央廣播事業局『廣播通報』第1巻第8期、1950年4月12日発行
中国社会科学院新聞研究所編『中国共産党新聞工作滙編』上(新華出版社、1980年12月)
趙玉明主編『中国廣播電視通史』(中国廣播影視出版社、2014年)
毛沢東「新民主主義論」『毛沢東選集』第2巻(人民出版社、1952年)
毛沢東「論人民民主専政」『毛沢東選集』第4巻(人民出版社、1960年)
李慎之「風雨蒼黄五十年──国慶夜独語」『李慎之文集』(公民論壇)
周鯨文著、池田篤紀訳『風暴十年』(時事通信社、1959年)
陳真『柳絮降る北京より──マイクとともに歩んだ半世紀』(東方書店、2001年)
滕鑑「中国の計画経済時代における体制改革」『岡山大学経済学雑誌』48〔1〕(岡山大学経済学会、2016年)
本田善彦『中国首脳通訳のみた外交秘録 日・中・台 視えざる絆』(日本経済新聞社、2009年)
三澤真美恵/川島真/佐藤卓己編著『電波・電影・電視 現代東アジアの連鎖するメディア』(青弓社、2012年)

コラムニスト
中村達雄
1954年、東京生まれ。北九州大学外国語学部中国学科卒業。横浜市立大学大学院国際文化研究科単位取得満期退学。横浜市立大学博士(学術)。ラジオペキン、オリンパス、博報堂などを経て、現在、フリーランス、明治大学商学部、東京慈恵会医科大学で非常勤講師。専攻は中国台湾近現代史、比較文化。
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