海峡両岸対日プロパガンダ・ラジオの変遷

第09回

1980年代の台湾と日本語放送の変貌(1981~1990)

中共空軍兵士に亡命を呼掛ける伝単中共空軍兵士に亡命を呼掛ける伝単

 1979年の米中国交樹立に伴い、「中華民国」台湾と米国の間の公式的な外交関係は消滅したものの、米国側の「台湾関係法」の存在や、台湾に好意的なレーガン新大統領の就任などもあって、米台間の軍事・経済面での関係が断切られることはなかった。
 また、70年代に着手された大規模なインフラ整備計画が結実し、石油ショック後も工業製品の輸出で高成長を維持した台湾は、NICs(新興工業国)、NIES(新興工業経済地域)或いは「アジアの小龍」の一員として、世界的にも注目される存在となった。
 こうした背景の下、自信を強めた国府当局は、政治面での締付けを徐々に緩和、1986年の新政党結成の黙認に続き、87年7月には38年に亘り社会を束縛していた戒厳令を解除、11月には中国大陸への親族訪問を解禁した。このような一大改革を主導した蔣經國総統は翌年1月に死去したが、こうした自由化の動きはその後を継いだ初の本省人総統李登輝によって更に進められることとなる。

 

1980年代の台湾放送界の動き

放送界の動き
 1980年代の台湾においては、放送団体の新設や統廃合が若干あったものの、放送界全体として大きな動きは見られなかった。新設が認められたのは、高雄市が運営する高雄市政広播電台と台湾省営の台湾区漁業広播電台の両団体で、それぞれ82年、84年に本放送を開始、一方81年には光華広播電台が同じ国防部傘下の中央広播電台に統合されている。
 併し、こうした表面的な静けさとは裏腹に対外放送用を中心とする送信設備の拡充ぶりには目覚しいものがあり、総出力は1980年の5481.45kWから年々増大して84年には10000kWを突破、89年には9年前の2倍を超える11331.1kWに達した。

国内向放送の状況
 国内向放送に関しては、1970年代と同様、地方中継局・小電力局の拡充や新系統の放送開始、更には非民営局のVHF帯への進出といった動きが一段と進んだ。

中国広播公司の局舎と同社海外部(自由中国之声、亜洲之声)職員(1982年)中国広播公司の局舎と同社海外部(自由中国之声、亜洲之声)職員(1982年)

 放送界の主導的存在で、総統の次男である蔣孝武が1980年から86年まで社長を務めた中国広播公司(中広)は81年に第二調頻広播網、87年には音楽広播網を新設、計7種の放送系統を有する組織へと更に成長すると共に、地形の関係で難聴地域とされていた南部、東部の山間部を中心に多数の中継局を増設、87年1月には同地では初の中波ステレオ放送を開始した。また復興広播電台もVHF帯での放送を開始すると共に、各地に小電力の中波局を設置、全国各地に32の局を有するに到った。この外、台北市政広播電台や幼獅広播電台が新系統での放送を開始している。高雄市政広播電台と台湾区漁業広播電台の放送開始については既に述べた通りである。
 VHF帯においては放送用周波数帯の下限が従来の100.1MHzから90.1MHzへと引下げられ、中広の音楽網を始め、警察広播電台の交通網や復興広播電台、台北市政広播電台の各局・系統でも拡大後の新たな帯域での放送が開始された。
 放送の使用言語に関しては、広播電視法による厳しい規制自体は維持されていたものの、その範囲内での多様化が見られるようになった。従来各ラジオ局の番組で使用されていた国語以外の言語は、その大部分が閩南語であったが、この時期には閩南語に加え客家語番組を開始する局も増加、中には原住民族語を交えた番組を流す局も現れた。因みに戦後の同地において、ラジオによる日本語講座が始まったのがこの時期(1981年9月)のことであったという事実は、記録に留めておくべき事柄であろう。

 

最盛期を迎えた対外放送

大陸向放送の増強
 1970年代に著しい拡大を見た大陸向放送設備の増強は80年代中期まで続き、89年におけるその総電力は、中央広播電台だけで80年の全放送局の数値を大きく上回る6895kWに達していた。大陸側との厳しい対立関係の中で、一党支配の下、国府が物的、人的資源を「対敵」宣伝活動へ積極的に投入し得たこの時代は、名実共に大陸向放送の最盛期であったと言える。

自由中国之声の受信証(双十節特別放送用、1981年)自由中国之声の受信証(双十節特別放送用、1981年)

 1981年7月に光華広播電台を吸収した中央広播電台は、同年11月には新系統の放送を開始、全6系統で終日、中波・短波で大陸の各地域に向け番組を送出した。また空軍広播電台も「帰順」兵士に支給される金銭や待遇などの特典を具体的に紹介し、台湾への亡命を呼掛けるなど、対象を中共空軍兵士に絞って中波での放送を実施した。一方大陸側からも同じような趣旨の番組が流され、台湾海峡両岸間では烈しい電波戦が展開された。
 このような両岸双方の宣伝色の強い放送に対しては、相手側から聴取を妨害するための電波(ジャミング)が発せられるのが常であったが、1982年5月頃から大陸側の妨害電波は停止、或いは弱体化した。その理由は不明であったが、何れにせよこの結果、大陸における台湾の放送の受信が容易になったことは確かである。大陸からの妨害電波はこの年の11月には復活したが、こうした「遮蔽の空白」が影響したためか、この頃から中共軍兵士の台湾への亡命が目立つようになった。妨害電波停止中の82年10月に山東省から韓国へ飛来した後、台湾へ到達した吳榮根に始まり、89年に福建省から金門へ直接飛来した蔣文浩に到るまで、自らの操縦で大陸を脱出した空軍兵士は8名、その他飛行機を乗取り、或いは海路を経由して台湾へ到着する者もいた。その中には、台湾からの放送を聴いて亡命の意思を固めたと明言した者も少くなく、後に大陸向放送局に勤務した者もいた。中央広播電台や空軍広播電台ではこのような元兵士や、やはり台湾へ亡命した大陸出身の芸術家等を番組に登場させ、時には「反共義士」と称せられたこうした人物の名を冠した番組も放送した。
 1989年6月に発生した天安門事件の後、大陸への呼掛けは更に強化された。中国広播公司は短波を利用した国内向放送の大陸向送信を開始、亜洲之声でも大々的な告知こそ行わなかったものの、90年には大陸住民を対象とする国語番組を開始した。

海外向放送の多元化
 1980年代は、大陸向けのみならず、海外向けの放送も最も活潑に行われた時期であった。
 1976年の安南送信所の開設時に1473.5kWであった海外向放送の総出力は、中波用の600kW大電力送信機の稼動などもあって、80年代後半には2470kWに増加した。自由中国之声では86年に初めて欧州向けに特化した言語の放送として独語放送を開始、その使用言語は15種となった。また亜洲之声でも、放送時間の増加に加え、中波の出力を1200kWに増強するなど、送信体制の強化が図られた。
 自由中国之声の国外での中継が始まったのも、この時代であった。中広が米国の宗教放送局Family Radioとの間に締結した相互中継協定が1982年1月1日に発効、自由中国之声の米州向番組はフロリダ州オキチョビー Okeechobeeに設置されたFamily Radioの短波送信所から送出されるようになった。更に85年11月には通信衛星を利用した台湾・オキチョビー間の中継線の正式運用が実現し、欧州向番組の中継も開始された結果、米州・欧州地域における自由中国之声の受信状態は大きく改善された。

 

1980年代前半の台湾報道と日本語放送

「台湾タブー」打破の兆しと台湾報道の増加
 1970年代において日本の報道機関、特に大手新聞・通信社、放送界に瀰漫していた「台湾タブー」、即ち台湾についての報道を控える傾向は、その後も依然続いていた。
 この状況に真向から挑戦したのがサンケイ新聞の「蔣介石秘録」の連載であったことは、曩に述べた通りであるが、80年代に入ると放送界においても、漸くこの「タブー」を打破しようとする動きが見え始めた。
 日本でも「体育の日」として休日であった1981年の10月10日、フジテレビは正午過ぎのゴールデンタイムに中華民国建国70年特別番組を90分近くに亘り放映、双十国慶節記念式典の模様を実況中継し、産業経済(サンケイ)新聞社社長を兼務する鹿内信隆同社会長による蔣經國総統へのインタビュー内容を公開した。この番組の視聴可能地域は関東圏のみに留まったが、その1ヶ月後の11月13日にはNHKが総合テレビで「素顔の台湾」と題する50分間の特集番組を放映、全国の視聴者に台湾の実情を紹介すると共に、孫運璿行政院長へのインタビュー内容を報じた。台湾の新聞でも大きく採上げられたこの番組は、多数の聴取者からの要望もあって、同月22日には再放送された。そしてこの放送以降、日本の大手報道機関における台湾関係の記事や番組は徐々に増加、その内容にも充実の度が加わっていった。

日本語番組の改編と内容の多様化
 1980年代初頭の自由中国之声日本語番組の構成は、79年1月の改訂時のものが基礎となっていた。この状態に大きな手が加えられたのは1983年1月のことであった。その直後の番組編成は、概ね次の通りであった。
 20:00~21:00  23:00~00:00  翌日06:00~07:00  全回同一内容

表1表1

 一日3回の放送が同一内容に改められ、ニュースの後に連日「話題」が続き、金曜日の番組構成が一新されるなど、この時の改訂には刮目すべき点が少からず見受けられた。
 ただ、平日の中にニュースの時間の極端に短い日があること、「話題」や「音楽の広場」の放送時間が曜日によって一定しないことなど、些か運用の複雑な点もあったためか、同年9月には番組の再改編が実施された。その結果甲乙の一部別番組制が復活、個別番組の放送枠も整理され、その進行順序はニュースの後の「話題」が連日の帯番組として維持されたことを除いて、旧に復したような形となった。再改編の結果実施された番組編成は次の通りであった。
 甲 20:00~21:00   乙 23:00~00:00、翌日06:00~07:00
 下線は甲乙同一内容、ニュースは土日以外一部別、音楽の広場は甲乙内容別

表2表2

 番組編成上の変化以上に、日本語班の内部では大きな変化、意識の変化が起っていた。革新の旗振り役となったのは、稲川英雄であった。既に触れた通り、稲川は日本の民営放送局を停年退職した後、入局した人物であるが、還暦近い年齢で、未経験の土地であるにも拘らず、取材先を自ら積極的に開拓し、番組素材の蒐集に注力した。こうした稲川の真剣な態度は、卓菁湖を含む先輩班員も一目措くところであり、若手班員にとっては模範とするに足るものであった。稲川の提唱により実現した事柄としては、原稿無しでの対話形式による番組の進行、班員が一堂に会して登場する番組の創設、番組担当者の実名明示、聴取者への訪問歓迎の呼掛け等が挙げられるが、これらの措置は放送の担当者と聴取者の間に存在する心理的距離感を縮める効果を齎すと共に、特に原稿無しでの対話形式による番組の創設は、若手地元出身班員の日本語力を大きく向上させる結果を生んだ。

特別放送と特別番組
 時間毎に言語別、周波数別の使用枠が整然と割当てられている海外向放送、とりわけ本国語以外の言語による放送において、通常の放送時間以外に番組が送出されることは、滅多に無い。それが実現するのは、国家的な重要行事が開催される場合や、最高首脳等要人の安否に係わる事項、大規模な天変地異又は事件、事故が突発的に発生した場合など、極めて限定される。
 自由中国之声日本語放送において、定期的に実施される特別放送は、1978年に始まった双十国慶節祝賀式典の実況中継を含む祝賀番組のみである。この放送は、80年代を通じ、毎年実施された。

第1回「リスナーの集い」の模様を報じた台湾紙の記事(1981年2月23日付中央日報海外版)第1回「リスナーの集い」の模様を報じた台湾紙の記事(1981年2月23日付中央日報海外版)

 初回以来10時50分に実況中継で始まっていたこの放送の開始時刻は、4回目に当る1981年には10時10分へと早まり、実況中継開始までの40分間は、国慶記念日に当る特稿番組や愛国歌曲、鹿内産業経済新聞社社長の祝辞などを流す時間に充てられた。鹿内社長の祝辞が同日のフジテレビの特別番組と符節を合するものであったことは言うまでもない。尚、実況中継の開始時刻は83年には10時45分、翌84年には10時40分になるなど年により若干の変化があったが、特別放送自体の開始時刻は85年に10時丁度となって以降、組織改正により自由中国之声が解散するまで変ることはなかった。
 一方、突発的な事件等の発生に伴う特別放送(臨時放送)の例としては、亡命者の記者会見の実況報道を挙げることが出来る。前に「大陸向放送の増強」の項で記した通り、この時期には大陸からの兵士等の亡命事件が度々起り、その記者会見の模様は軍営局を中心に同時中継されることが多かったが、自由中国之声でもこれを行うことがあった。他の外国語放送についての実例は詳らかではないが、日本語放送では1983年11月14日20時からの全番組を王學成「義士」の記者会見中継に差替えている。尤もこの番組は時間枠の関係で「特別放送」ではなく「特別番組」の範疇に属するものとなったが、翌84年8月13日に21時7分から35分間に亘り流された卓長仁「義士」等の記者会見の実況報道は、文字通りの特別放送(臨時放送)であった。一方1983年8月24日には20時からの日本語放送が、孫天勤「義士」記者会見の国語特別放送のため、30分で打切られている。
 特別番組は各種の記念日や行事の実施に際して放送されるのが常であったが、この時期にはそうした番組においても、新機軸が打出された。その好例として先ず挙げられるのは、1980年の大晦日に「蓬萊だより」の拡大版として流された「ど素人歌合戦」である。NHKの紅白歌合戦に倣い、班員全員が男女別のチームに分れ、その歌いぶりによりチームとしての優劣を競わんとする当初の計画こそ、班員の男女比の大きな格差により潰え、のど自慢大会の形を採らざるを得なかったものの、それまで番組の中で歌を披露することなど無かった各班員が、一堂に会して各自の歌いぶりを競い合い、その模様を放送するというこの破天荒な試みは、聴取者の大好評を博した。そしてこれに気を良くした局側では、翌年からはこの歌合戦を独立番組として継続すると共に、放送後に最優秀歌手(班員)の投票を募り、或いは歌唱予定の曲を事前に公開した上で、それぞれの曲を歌う班員を予想させるなど、聴取者に対し多角的な方面から同番組に関連した信書や報告書の送付を呼掛けた。

聴取者との交流の強化
 既に述べた通り、稲川の加入以降、日本語班では聴取者の来局歓迎の方針を打出し始めた。本来、番組の制作・担当者にとっては、その聴取者は最大の「顧客」であり、その来訪は最も歓迎すべきことなのであるが、実際には日々の番組制作に追われる担当者個人の時間的制約や、接待の難しさ、そして戒厳令下の公的機関に未知の外国人が突然押掛けることを歓迎しない雰囲気の存在などもあって、従来その旨の発言は控えられていた。ところが稲川は、生粋の民営放送出身者らしく、「顧客」の来訪を大歓迎する旨を番組中で度々伝え、実際に来訪した聴取者には時間を割いて接待に努め、「お土産」としてインタビューを実施、これを自己の担当番組で積極的に放送した。また、番組担当者の氏名が明かになったことから、特定の担当者を目当てに訪問する聴取者まで現れた。
 こうした局内での動きと時期を同じくして、番組担当者と聴取者が直接対面し、意見を交換する場が日本国内でも設定された。1981年2月、日本語班の責任者であった卓菁湖は日本語の再研修のため訪日するに当り、自由中国之声聴取者との座談会開催を企画、当時『短波』誌等を刊行していた日本BCL連盟等の協力を得て、同月22日に東京の目黒区民センターで「VOFC卓日本語課長を囲む会」を実施した。参加者は30名弱、その中には、中広50周年の際に優秀聴取者として表彰された垣見重三を始め、重慶時代の日本語放送も受信したことがあるという永年の愛聴者、再三に亘り局を訪問、放送に登場した愛好者もいた。そして稲川英雄は同年6月に帰国した際、当時少年少女向けの別刊「くりくり」を発行していた毎日新聞東京本社等の協力で第2回の、更に翌年2月には秋葉原のワシントンホテルで第3回の会合を開催した。参加者の数は時を逐うにつれ増加し、台湾出身で戦後日本本土へ引揚げて来た「湾生」の姿も見られるようになった。「湾生」の中には、この放送の存在を通じ自らと台湾との絆を改めて確認した者もいたのである。
 一方、関西でも聴取者会実施の機運が盛上がって来たが、ここでは聴取者が愛好会を結成し、局側に対しその集会への来賓を招請、局員がそれに応じて会合に参加するという形が提唱された。愛好会結成と会合の準備は、当時戦艦大和会の世話役を務めていた手島進が中心となって進められ、1982年夏の稲川英雄の一時帰国時に合せ、7月10日に関西で初の聴取者の集いが大阪梅田の阪神電鉄本社で開催された。そして手島が同席上で結成を宣言した玉山会は、現存の団体として局側が関知する世界最初の自由中国之声愛聴会となった。
 これに続き関東の聴取者の間からも同趣旨の団体結成の動きが高まり、83年2月に篠田庄吉を会長とする日本聴友連盟が発足した。この団体は翌年に玉山倶楽部(玉山クラブ)と改称、玉山会と同様現在も活動を続けている。尚、稲川自身は退局するまで毎年帰国の際聴取者会に参加、愛聴者と局との関係強化に努め、後には玉山倶楽部の会長を務めた。

日本語班員の動き
 1970年代後半に続いた日本語班における要員の異動は、80年にひとまず完結した。この年には黃順香と石橋優が退局、それに代り稲川英雄の外、長い間同班のために貢献することになる鄭碩英、王淑卿の両名が入局した。この両新人と馬中苑を加えた「若手三人娘」は、卓と稲川の指導の下、間もなく単独で番組を担当するようになった。
 一方で、82年には前年末の歌合戦で聴取者から最高得票を獲得した石田町子が退局、84年には機関誌「自由中国之声」の編輯担当者で、卓に続き80年に中廣奨賞(銀賞)を受章した劉麗蕙が局を離れた。劉の退局に伴い機関誌の編輯には王淑卿が当ると共に、新要員の募集が行われ、85年2月に早田健文が入局した。尚、稲川は同年9月に退局した。

 

1980年代後半の日本語放送

日本語番組の内容変化と改編
 1980年代における日本語番組の基本的な編成方針は、その最終期である90年夏に到るまで概ね変りのないものであったが、放送内容の点では、特に報道関係を除く番組の中で、早くから郷土色が徐々に顕れ始めていた。その皮切りとなったのは、「台北レポート」を始めとする稲川英雄担当の一連の番組であった。稲川は中国語に堪能ではなかったこともあって、在留邦人と台湾の「日本語人」を対象として取材を行うことが多かったため、戦前からの学校における同窓会等、日本語と台湾(閩南)語が飛び交う場の様子が屢々伝えられ、台湾の在地性、独自性が強く訴えかけられる結果となった。
 その傾向がより強く現れたのは稲川の退局後、1986年1月に木曜日の「蓬萊だより」の中で始まった名所探訪シリーズにおいてであった。70年代初頭からの「名所ところどころ」以来、この種の番組は継続して放送されていたが、この時の「蓬萊だより」には、台湾屈指の名家の出身で日本の大学を卒業し、戦後は故郷の史蹟、風俗、文化の研究に注力して台湾の生き字引と称せられた林衡道が登場、案内役として最初は台北市内を中心に、7月以降は高速道路沿いに各地の風物を順次系統的に紹介するという形で毎週の番組が進められた。そして該博な知識を的確な日本語で披露する林の談話を通じ、聴取者は台湾の文物や、日台間の切離し得ない関係に対する知識を涵養し、台湾の独自性に対する理解を深めていった。林の談話内容は同番組の担当者であった三浦四枝の手により後に整理され、「ハイウェーの旅」と題して月刊誌上に連載された。
 この時期には、当時目新しいと考えられた番組が各分野で登場した。その例としてまず挙げることが出来るのは、1988年5月に開始された「ニュースダイジェスト」である。この番組は時間の関係で連日、特に平日にニュースを聴くことが難しい社会人や学生生徒を主たる対象として企画されたもので、毎週土曜日に過去1週間に発生したニュースの摘要を紹介するものであった。また毎日のニュースの中では、台湾における株式市場の拡大を反映した台湾証券取引所の株価指数と市場出来高の告知、更には日台相互間の訪問者数の増加を考慮した日本円・台湾元間の為替相場の紹介も90年には始まっている。
 教育系の番組として注目されたのは、90年9月に始まった「一口閩南語」である。王淑卿が担当したこの番組は、当初はワイド番組の一小単元として、挨拶の語を紹介する程度のものに過ぎなかったが、次第に充実の度を加えて時間も拡大、本格的な語学講座の様相を呈するようになった。尚、同番組は、ラジオによる外国人向閩南語講座としては、世界初のものであった。
 また、その他の分野では、芸能番組が登場、不定期ながら度々放送されるようになったことが目を引く。日本語放送ではその開始以来、本格的な芸能番組が流されたことはなかったが、新企画として放送劇の準備作業が進められ、1987年の1月1日に「星はどこから来たのでしょう」と題する30分の番組として結実した。班員総出演のこの番組が好評を博したこともあって、放送劇は同年の旧正月期にも制作され、その後も新年時の定例番組として永年に亘り放送された。また、89年の元日には日本語による相声(漫才)が初放送されている。
 このような動きを経て、日本語班では80年代の総決算とも言うべき番組の大型改編を
1990年6月に実施した。その結果、番組の編成状況は次の通りとなった。
甲 20:00~21:00   乙 23:00~00:00、翌日06:00~07:00
 下線は甲乙同一内容、ニュースは土日以外一部別

表3表3

 この改編によって目立った個々の番組上の変化としては、街頭録音番組が「街角フラッシュ」と題する定時番組として、また従来番組内の一単元であった運動関係のニュースや話題が独立して放送されるようになったこと、「自由中国の経済」「中国文化」「中共問題」等、局の供給原稿による特稿番組が廃止されたことなどが挙げられるが、その進行形式には日本語放送の開始以来最大と言い得る変化が見られた。
  その第一は番組の綜合化・長時間化である。従来の編成下では各番組は土、日曜の一部を除き15分以内で収まる形で制作されていたが、改編により月曜乃至木曜日にも30分番組が登場、「玉山だより」と題するこの番組を班員全員が原則として、自らの企画に基づき少なくとも毎週1本は受持つこととされた。
 担当者の割当方法にも変化が見られた。月曜乃至金曜日の番組に関し、従来は曜日毎に固定していたニュース、「話題」「リスナーと語ろう」の担当者が1週間毎の交替制となり、聴取者は5日間連続して、同一担当者による同一番組を耳にすることになった。

特別放送と特別番組
 既に述べた通り、双十国慶節祝賀式典の実況中継を含む日本語特別放送は、80年代後半においても、毎年実施された。
 また、予定されていた国家的或いは重要な単発行事に係る特別番組は、1986年の蔣介石元総統生誕100周年、88年の中国広播公司創立60周年、90年の日本語放送開始40周年などに当って制作、放送された。この中蔣介石元総統の生誕記念日である10月31日には、翌87年以降も引続き特別番組が流された。また88年8月1日の中広創立60周年記念日に放送された特別番組には、70年代に番組を担当していた旧局員2名が登場、昔の日本語放送についての想い出を語った。
 一方、この時期においても、大陸からの兵士の亡命事件は数度発生したが、自由中国之声におけるこの種の事件に関する採上げ方は、以前に比べ地味なもののなり、日本語放送でもニュースの差替えや、特別番組として記者会見の実況録音が流されることはあったものの、同時中継が行われることはなかった。
 これに対し、1986年5月に発生した中華航空貨物機大陸着陸事件についての取扱は、大陸側兵士の帰来の場合とは大きく異っていた。この事件はバンコックから香港へ向う中華航空B198ボーイング747貨物輸送機の王錫爵機長が機体を乗取って広州の白雲空港に着陸、大陸側への亡命を希望し、中華航空と大陸側中国民航、最終的には政府間の交渉の末、副機長、整備士と機体の台湾側への返還と王機長の大陸側への亡命承認という形で決着を見たものであるが、自由中国之声では3日の事件発生以来、機体の返還と2名の帰国が完了した後の26日に到るまで、事態の進展状況を連日克明に報道した。日本語放送中でも、3日からニュースのみならず「話題」の時間でもこの事件に対する論評が屢々流され、とりわけ乗務員と機体の引渡が行われた23日には、ニュースと「中華航空の貨物機事件について」と題する「話題」の後、同事件に関する特別番組が差替え無しで放送されるなど、当日の番組は関係報道一色に覆われていた。尚、その翌87年7月の戒厳令撤廃に際し、日本語放送では解除日に当る15日のニュースの冒頭3項目と「話題」、及び17、18日の「話題」の時間でこれに触れた程度で、特別番組を放送することはなかった。

蔣經國総統の死去と対外特別放送、日本語放送の特別編成
 1988年1月13日現地時間15時55分(日本時間16時55分、以下日本時間で表示)、蔣經國総統は台北の栄民総病院で死去した。享年77歳であった。兪國華行政院長は中国国民党中央常務委員会を臨時召集、20時に開かれた同委員会の席上で常務委員として蔣総統の死去を公表し、同会の終了後李登輝副総統が総統府内にて総統就任の宣誓を行った。総統死去の報は、忽ちのうちに世界中を駆け廻った。日本でも21時からのNHKテレビ「ニュースセンター9時」の中などで伝えられ、翌日の朝刊各紙にも大きく取上げられたが、その見出しに蔣介石元総統の死去時のような「蔣經國氏死去」の類の表現は全く見当らなかった。
 13日22時からの自由中国之声と亜洲之声の番組は、どちらも平常通りの編成で開始した。併し、19分過ぎ、亜洲之声では放送中の流行音楽が突如国楽に切換えられ、20分には両局同一の特別放送となっていることが確認された。24分からは総統死去を伝える国語での特報が国楽を挿みつつ流された。
 この日の空中状態は劣悪で、22時50分頃には自由中国之声の全使用波が受信不能となり、番組内容の確認が出来るのは亜洲之声の使用波である5980kHzのみという状態となった。
 23時には国語以外の言語による特報が始まった。この時最初に耳に入ったのは「皆様に悲しいニュースをお伝えします」で始まる日本語による告知であった。その後、タイ、閩南、客家語等による特報も順不同で流され、日本語での告知は30分に再度放送された。尚、5980kHzの送信は平常通り23時45分に一旦終了し、14日0時に再開、華語講座、中華歴史講話といった通常編成による番組が流された後、0時30分からの英語放送以降は通常の音楽中心の編成に代え、告知を中心とする特別番組が流された。1時過ぎには空中状態が若干好転し、中央広播電台も各波で同一番組を流していることが確認された。尚、13日23時からの番組送出が中止された日本語による放送は、翌日朝6時から1時間の全番組が総統死去関係の報道と追悼音楽で埋め尽された。
 自由中国之声における特別編成体制は14日以降も続き、日本語放送では18日に一部番組が通常の番組枠へと復帰したものの、その後もニュース、「話題
の後の15分間は連日特別番組に充てられ、後半の30分でも音楽は愛国歌曲等一部の曲を除き演奏のみ、「中国語学習講座」では故総統の著作や態度などに関連した内容のものが放送されるなど、様々な点で配慮の手が加えられていた。
 国葬と遺体の墓所への移動は30日に実施され、自由中国之声は中央広播電台と共同して、その模様を5時間40分に亘り同時中継した。日本語放送でも、葬儀に参列した福田元首相や灘尾元衆議院議長へのインタビュー、遺体安置の模様の録音が流されるなど、この日の放送内容は国葬関係の報道一色に包まれていた。
 この特別編成体制は国喪期間の終了する2月12日をもって解除された。そしてその5日後、台湾は十二支の中で最も縁起が好いとされる龍(辰)年の元旦を迎えた。

天安門事件に伴う対外放送の動きと日本語放送
 1989年6月4日未明、中国の人民解放軍は戒厳令下の北京に出動、天安門広場を中心に民主化を叫び示威活動を続ける民衆への鎮圧行動を開始した。これに対し民衆が抵抗、この衝突は大規模な流血事件に発展した。
 事件の拡大に伴い、中央広播電台では4日から複数日に亘り方言、辺境語等の番組を総て中止し、全波統一の国語番組を放送、その後もニュースの時間を延長するなど特別編成で対処した。また自由中国之声でも言語による程度の差こそあれ、4日から16日までは臨時体制で放送を実施、中国広播公司では7日朝から短波を利用した国内向新聞放送網の送出を開始した。
 日本語放送では4日のニュースが延長されて「話題」は中止、5日から16日までの「話題」では連日同事件関連の論評が報じられ、7日から10日までは「話題」の後に「中国大陸関係のニュースと音楽」と題し、関係報道と大陸の事物や風景を主題とする音楽が流された。尚、臨時体制最終日の16日には、局からの通知として明日から通常番組に戻るとの旨が伝えられたが、このような告知が発せられたのは前代未聞のことであった。

聴取者との交流の深化
 1980年代後半には日本でのBCLブームも完全に去り、海外各局の日本語放送に対する来信、受信報告数も最盛期に比べ激減していた。自由中国之声日本語班への来信数も86年には13024通となり、10年前の54049通の四分の一を下回る状態となっていた。

蔣介石元総統生誕百周年記念日当日の受信報告に対する自由中国之声の受信証・オモテ(1986年10月)蔣介石元総統生誕百周年記念日当日の受信報告に対する自由中国之声の受信証・オモテ(1986年10月)

 その一方で、固定的な聴取者と局側との交流はむしろ深まっていった。「玉山会」と「玉山クラブ」を通じた聴取者の会は毎年開催され、85年からは日本語放送担当者に加え、中広海外部の幹部職員も参加するようになった。また、聴取者の局への訪問も途絶えることはなく、84年には聴取者会の構成員が団体で局を公式訪問し、同様の訪問は翌年以降も続いた。局側では聴取者とのより円滑な意思疎通を図るべく、86年に永続的なモニター制度を発足させた。
 1986年10月、蔣介石元総統の生誕100年を記念する聴取者の会の開催に当り、中国広播公司では訪日団を組織した。王曉寒前副社長を団長、盛建南海外部長を副団長とする一行は総勢18名、日本語担当者としては卓菁湖、鄭碩英の両名が参加した。19日に大阪、26日に東京で開かれた会合の参加者はそれぞれ250名、280名に及んだ。大阪の席上には、聴取者として日本語班を訪れたこともある中山正暉衆議院議員の姿も見えた。
 また90年10月の日本語放送開始40周年に際し、日本語班では記念活動を展開、記念作文、漫画、のど自慢用の音声素材を募集し、10日朝の特別番組中でその結果を発表した。応募者の数は作文が約45名、漫画が約20名、のど自慢が約30名で、作文の入選者10名の中、最初に紹介された京都府の渡部秧子、千葉県の池田種夫の両名は共に「湾生」であった。尚、漫画部門で入選した静岡県の加藤則之はこれとは別に10月8日に日本語班を訪問、同日の祝賀会の様子を描いた漫画を寄せた。この漫画は、月刊誌「自由中国之声」翌年1月号の裏表紙を飾った。

蔣介石元総統生誕百周年記念日当日の受信報告に対する自由中国之声の受信証・ウラ(1986年10月)蔣介石元総統生誕百周年記念日当日の受信報告に対する自由中国之声の受信証・ウラ(1986年10月)

 これに続き、日本語班では「ベリカード比べ」と題し、聴取者に対し古い受信証の写しの提供を呼掛けた。この呼掛けに応じた聴取者の数は100余名に及んだ。1950年代までの受信に係る受信証の送付者は総計6名、最も古い日付の受信証を所有していたのは和歌山県の西昭治で、その受信日は1951年6月5日であった。
 この外、10月9日には「音で聴く自由中国之声日本語番組四十年の歩み」と題する特別番組が放送された。この番組は日本語放送の一聴取者が卓の慫慂を得、手持ちの資料により作成したもので、その中には1960年代の開始、終了告知等、嘗て放送された番組6本の音声が収録されていた。尚、同番組の劈頭を飾った音楽は、当時中広が局のジングル「中広之声」として用いていた馬水龍作曲の「梆笛協奏曲」の序章で、日本語放送の中では初めて流されたものであった。

番組担当者の動向
 1986年の年頭における日本語班は、卓菁湖を筆頭に三浦四枝、馬中苑、鄭碩英、王淑卿、早田健文の計6名で構成されていた。退局した稲川英雄の看板番組「台北リポート」を引継いだ早田は、この年からその標題を「我愛台北」と改め、装いを新たにして番組の制作に努めた。86年3月には稲川の退局により生じた欠員を補う形で三宅教子が入局、三宅は88年10月に常勤職から降りたが、嘱託として局に留まった。三宅に代って登場したのは、テレビの日本語講座担当者として知られる范淑文であった。

 この年には三浦四枝も退職した。咽喉を痛め、声が出せなくなったというのがその理由であった。社長室へ退局の挨拶に訪れた際、その永年の貢献を認識していた唐盼盼社長は三浦に対し、声を出す必要のない業務へ移るよう勧めたが、責任感の強い三浦は辞意を翻さなかったとは、社長室へ同行した卓の弁である。その欠員を埋める形で入局したのが、中国文化大学出身で筑波大学への留学を経験、学歴の点では鄭碩英の後輩に当る蘇定東であった。蘇は90年代には日本語班の中心として活躍することになる。

〔主要参考文献〕
◉全般
中國廣播公司『中廣五十年』『中廣六十年大事記』『中廣七十年大事記』
中央廣播電臺『中華民国台湾地区における日本語国際放送開始50周年記念特集』
陳江龍『廣播在台灣發展史』
北見隆『中華民國廣播簡史(上冊)』
◉今回
『DX年鑑』1980年版乃至1983年版
月刊「自由中国之声」各号
月刊「短波」各号
「アジア放送研究月報」各号

コラムニスト
山田 充郎
1948年、大阪府出身。少年時代より漢字・漢文と放送に興味を持ち、会社勤務の傍ら漢文学と放送史の研究を継続、退職後の現在に至る。放送面で関心の深い分野は、中華人民共和国以外の中国語圏、特に台湾・マカオのラジオ放送並びに近畿圏、特に大阪の放送とプロ野球・高校野球中継について。放送研究団体アジア放送研究会理事。東京都在住。
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