海峡両岸対日プロパガンダ・ラジオの変遷

第10回

民主化の開始・進展期の台湾と日本語放送(1991 ~ 97)

初の民選総統選挙の開票実況中継(1996年3月23日)初の民選総統選挙の開票実況中継(1996年3月23日)

 1988年1月の蔣經國総統の死去に伴いその座を継ぎ、7月には国民党主席の座に就いた李登輝は、政権の権力構造の根幹となる「党」「政」「軍」「特」を順次掌握していくとともに、政治面での自由化・民主化を推し進めていった。
 1990年の総統再選後、召集した国是会議での合意の下、91年5月には大陸政権を「叛乱分子」と見做し、憲法の規定を空文化させていた「動員戡乱時期臨時条款」を廃止、政治面での自由化の法的枠組みを整備した。一方、91年末には万年国会と揶揄されて来た第一期国民大会代表の全面退職を実現するなど民主化の動きも進め、紆余曲折を経た後、1996年には民選による正副総統の直接選挙を実現した。
 放送界にとっても、この時期には抜本的な変革が見られた。本稿では、その主題に沿って1990年代の中、1994年6月までを前期、1994年7月から1997年を中期、1998年以降を後期とし、今回は前期、中期に起った事柄について述べることとする。

1990年代前期・中期の台湾放送界

放送番組の幅の拡大

 台湾における新規放送局開設の自由化は、政党結成や新聞発行の自由化に比べ、時期的にかなり遅れた。それは限られた周波数の再分配作業を要するという技術的な原因に基くところが大きいと考えられるが、これに対し、記者派遣の解禁を含む大陸関係報道制約の大幅な緩和、街頭の声や電話リクエストの生放送、電話での聴取者との対話で番組を進めるコールイン方式の解禁など、既存局の取材方法や番組内容等に関する自由化策は比較的早いうちに打出され、放送番組の幅は大きく拡がった。こうした中で、1950年10月に放送を開始し、戒厳時代の台湾を象徴するような番組の様相を呈していた「中華民国各広播電台聯播節目」は、番組への参加義務が解除された1990年10月以降、実施局が次第に減少し、97年6月30日をもって放送を終了した。一方、当局側の動きに慊らず、許可なく放送を始める団体や個人も現れた。こうした放送が所謂「地下放送」であり、それを流す放送局が地下放送局であるが、これについては後述する。

使用言語制限の緩和・解禁

 こうした一連の自由化措置の中でも特筆されるのは、番組の使用言語の自由化である。前にも述べた通り、1976年に制定された広播電視法の規定により、方言番組の占める位置は狭められ、国内向放送における国語以外の番組の比率は、ラジオでは4割5分以下、テレビでは3割以下と定められていた。ところが戒厳令の解除前後から特にテレビでの方言使用の緩和を求める声が高まり、ラジオに関してはこの数値を定めていた広播節目製作規範の当該条項が1991年3月に削除されたことから、具体的な数値を他の法令に委ねるとしていた広播電視法の規定は空文化、各放送局は使用言語面での制約を受けることなく、番組を流せることになった。この措置の実施により、放送対象地域住民の言語使用実態に基き閩南語番組に重点を移す局が増加するのみならず、客家語や原住民族語の番組を積極的に流す局も出現した。尚、広播電視法の言語関連規定は1993年8月に削除されたが、日本語歌曲の完全解禁はこれより少し遅れ、同年11月になって実現した。

新局設置の公認と一部周波数の返還

第一次周波数開放公告(1993年2月1日)第一次周波数開放公告(1993年2月1日)

 1993年1月30日、放送事業の監督機関である行政院新聞局は、FM波周波数を新放送局に開放する旨発表した。2月1日に発せられた公告文には、13地区で計28波が新設放送局に割当てられる旨、記されていた。5月31日の受付締切りまでに申請を行った団体の件数は62、このうち13団体への認可が発表されたのは12月11日のことであった。
 周波数の開放措置は1997年までの間に八度に亘り実施され、計118の団体に放送局開設の認可が与えられた。この間、1994年8月に公示された第四次以降は出力250W以下の「社区電台」(コミュニティ局)の設置も認められることになり、同年12月には先ず46の団体に開設の認可が下付された。また、1994年6月に公示された第三次開放の際に中波局として認可を得た白雲広播電台は、初の新規中波局として1996年6月に試験放送を開始、翌年7月には正式に開局した。
 周波数の開放は、一面では既存局の使用周波数の一部返還を意味するものでもあった。新聞局では1992年2月の段階で軍との間で軍営局の一部周波数返還につき合意を得たと発表していた。93年1月の第一次開放発表の際、当時使用されていたFM波の中、中国広播公司の8波、復興広播電台の5波、及び軍が保有しているVHF(FM)波帯域の一部を政府に返還することも発表された。

国内向放送局の状況

 この時期における新局の状況は省略することとして、ここでは既存局の動きについて述べる。
 台湾最大の放送機関である中国広播公司(中広)は、1987年8月の音楽網の開設により、中波4(青春/服務、第二、第三、新聞)、FM4(流行、第二調頻、音楽、新聞調頻=中波とパラ)の 7種の放送を同時に流していた。天安門事件の後には、海外向の自由中国之声の短波送信機を一部流用して新聞網、流行網の番組を大陸向、前者は後に海外向にも送出した。
 前述したFM波の一部返還が1994年6月末付で実施されたことに伴い、中広ではFMでの新聞網の放送を中止、同系統の送信を中波に一本化すると共に、台北本局では青春網を廃止してこの周波数に新聞網を移し、従来の新聞網の周波数に服務網を移管した。
 またこの外、大陸政権との「戦争状態」を規定していた動員戡乱時期臨時条款の廃止により、大陸からの電波を防遏する必要が乏しくなったことから、防遏を主目的とする中継局を中心に、計23の中波中継局を94年7月までに廃止、その使用周波数を政府に返還した。
 公営局の中では、教育広播電台がFM波の開放に伴い各地に中継局を増設、警察広播電台も東部での放送設備を強化し、共に全国向放送局としての地位を固めた。
 一方、復興広播電台は、規模を著しく縮小した。同局は元来大陸からの台湾向電波を遮蔽することを主目的として設立され、1986年10月からはFM放送も開始していた。併し政府の対大陸政策の変化と放送周波数の民間への開放から使用波多数の返還を余儀なくされ、最大時には27に上った局所は段階的に減少、96年7月には台北、台中、高雄、花蓮の4ヶ所を残すのみとなった。この間、同局は保持した周波数の中で第二放送を開始、大陸情報放送局として脱皮を図った。また、国民党の下部組織である中国青年反共救国団が運営する幼獅広播電台は、1996年6月をもって放送を終了した。
 民営局においては、最大の団体である正声広播公司がFM波の第一次開放の際に台北地区で割当を受け、1994年10月25日に初の民営FM局「正声生活資訊調頻台」の名で放送を開始した。この結果、同社は中波とFMの双方で複数系統の放送を実施する唯一の民営局となった。尤もその一方で、同社はその認可取得との関係で台北の中波1波を返還した外、93年から94年にかけて5ヶ所の中継局を廃止している。尚、最初の民営FM專業局の名称とその開局時期については、資料により様々な記述があり、ここでは断定を避けるが、正式放送の開始時期が94年12月から95年3月1日までの間であったことは確かである。何れにせよ民営新局の誕生は、1960年6月以来、34年半振りの出来事であった。

地下放送の出現と動向

「台湾の声」からの日本語による返信「台湾の声」からの日本語による返信

 台湾における本格的な地下放送は、1989年の統一選挙の際に民進党が実施したテレビ放送に始まるとされるが、ここでは専らラジオにおける地下放送について述べる。
 1991年10月16日、「台湾之声」と称する地下局が短波で放送を開始した。この放送は日本語でも実施され、日本からの受信報告に対しては日本語でその確認まで行うという「奇妙な」放送局であった。同局はまた、FM波でも放送を実施した。
 同放送局は著名な講談師である呉楽天が個人的に始めたもので、政党とは無関係の放送であったが、その後は民進党の関係者によるFMでの地下放送局が次々と出現した。この中、張俊宏の創設した「全民民主広播電台」は、紆余曲折を経た後、第一次開放時に認可を受け、95年には台湾全民広播電台として正式に開局した。
 また、93年に放送を開始した許榮棋による「台湾之声」は、聴衆の生の声や政府への不満の声等を電波に載せたことから人気を博し、一時は地下放送の代表的な存在と目され、その活動ぶりはNHKテレビの特輯番組で報道されるほどであった。
 これに対し、政府当局は、台湾全民広播電台の例に見られる通り、地下局を前身とする局についても正式な形で認可申請が行われ、それが要件を満している場合は合法局として認可する一方、それ以外の局に対しては取締りを続けた。併し地下局の数が減ることはなかった。

対外放送の動向

対外放送統合の動き

 1990年9月20日、海外向放送を担当している中広海外部の自由中国之声、亜洲之声と国防部が大陸向に放送している中央広播電台との合併計画が発表され、翌年5月9日には、新組織が財団法人形式で発足する旨が決定した。その後、自由中国之声の在り方を廻る与野党間の紛糾等を受けて、計画は一時棚上げ状態となったが、96年1月17日に新組織の準拠法となる中央広播電台設置条例が立法院で可決され、97年7月1日には中央広播電台籌備処(設立準備委員会)が発足、新団体による放送は1998年1月1日から実施されることに決定した。

大陸向放送の集約

 中国大陸の共産政権を「敵」と見做す動員戡乱時期臨時条款(臨時条款)の廃止に伴い、大陸向に従来ほどの積極的な宣伝を行う必要は乏しくなり、放送面においても番組内容の見直しや業務の合理化が進められることとなった。
 中央広播電台においては、臨時条款の廃止に伴い1991年5月に「飛行指示」「航行指示」が廃止され、8月1日付で全面的な番組の編成替えが行われた結果、「特約通訊」「空中聯絡弁法」等、対諜報活動を連想させるような番組が廃止される一方、「聴衆信箱」や「今日美語」等政治色が比較的稀薄な番組が増加した外、標題こそ従来と変りはないものの、その性格は一新された番組も少くなかった。また、韓国との国交断絶に伴い、92年9月には、韓国で中継されていた「自由亜洲之声」番組が中止のやむなきに至った。
 1992年8月には、同局の傘下に入っていた光華広播電台が再独立、翌年1月に大陸向に同時放送していた「対大陸聯播節目」の放送を中止した。中央広播電台の制作で、元々光華、空軍、漢声、幼獅の5局で同時放送されていたこの番組を流す局も徐々に減少していった。そして95年7月には、中央広播電台自体の放送系統も一つ削減された。

海外向放送の動向

自由中国之声ロシア語番組の受信報告に対する返信自由中国之声ロシア語番組の受信報告に対する返信

 行政院新聞局の委託により中広が運営している自由中国之声は、大陸向放送とは異り臨時条款の廃止後も縮小されることなく放送を続けていた。併し立法院で野党が同局は国家のための放送局ではなく、国民党の宣伝機関であると非難し、予算案の承認を拒否したことからその見直しが図られるようになり、1994年度の関係予算は一旦全額削除、後に減額の上復活したものの、それ以降の年度予算も毎年削減されることとなった。この結果、潮州語と韓国語の放送は94年6月30日をもって廃止され、八里送信所は海外向放送の送信を停止、送信機4台は別の送信所へ移設された。
 これに対し、1979年に東南アジア地区を対象として放送を開始した亜洲之声は、政治色の薄い番組を流していたこともあって、中国大陸においても一定の聴取者層を獲得、90年1月には正式に大陸向の国語放送を開始した。同局は同年8月には中波の出力を600kWから1200kWへと増強、95年1月には広東、閩南、客家の3言語による放送も開始した。
 こうした動きとは別に、1994年3月29日にはロシア語番組が始まった。この放送は外交部の要請で決定、予算、人事共中広とは別枠で手配され、当初は中広海外部の関係者にも知らされていなかったという奇妙な存在であったが、96年6月には又もや外交部の都合で突如中止され、翌年4月に復活した。

1990年代前期の日本語放送

卓菁湖の退場と世代交替

 日本語放送開始40周年に関する一連の行事が終了し、旧正月の掉尾を飾る元宵節を直前に控えた1991年2月下旬、日本語班には衝撃的な出来事が起った。卓菁湖が入院したのである。日本語班の大黒柱であった卓は、この頃体調の不良を自覚してはいたものの、その責任感の強さから、欠勤することなく業務を続けていた。併し念のため診断を受けたところ、腎臓炎で入院加療が必要と告げられ、27日に入院した。卓が最後に出演した定時番組は、入院前に収録し、3月1日に放送された「玉山だより」であった。この番組の最後に卓が選んだ音楽は「さよなら、お大事に」という曲であった。卓はその後無事退院したが、同年9月末をもって日本語班責任者の座を下り、顧問として自宅で放送原稿の翻訳に携わることになった。日本語班では欠員の補充を図るため、88年の退局後も新年の放送劇の台本を執筆するなど嘱託として局との関係を保っていた三宅教子に復帰を要請、三宅は臨時職員として3月8日から定時番組を担当することになった。また、特別番組を除いては、国楽の紹介番組以外に登場することがなかった馬中苑は「リスナーと語ろう」などを担当、時にはニュースも受持つようになった。
 日本語班の班長には蘇定東が就任した。初の戦後生まれの班長となった蘇定東は高雄の出身で当時31歳、前任者より26歳年少であった。そして蘇を中心とするこの体制は、自由中国之声が姿を消す97年末まで続くことになる。

初期の番組改編と新機軸

 1991年中の番組編成は、担当者の交替を除けば前年のものと大きな変化はなかった。
 その中にあって、前年6月に始まった毎回後半30分の「玉山だより」は、一部番組の放送日時がこの年の9月に変更された。この改編の結果、当時担当者持回りで再放送を含め週二回放送されていた「街角フラッシュ」と、元々卓菁湖の担当で、金曜日(乙…二回目)に流されていた運動・報道関係番組が廃止され、月曜日には経済関係番組が復活、金曜日には三宅教子による「台湾歳時記」が始まった。そして86年1月以来5年8ケ月に亘り土曜日後半に流されていた早田健文の看板番組「我愛台北」に代り、「ウィークエンドアラカルト」が放送されることになった。
 街頭録音の占める比率が高かった「街角フラッシュ」の廃止は、局外での収録音声を紹介する機会を奪うように思われたが、実際はその逆であった。新班長の蘇定東はその若さと好奇心の強さを活かし、自ら積極的に一般の会社や団体などを訪問、日本語を理解出来る幹部等に面談を行い、その録音を放送した。日本語での教育が停止されて半世紀足らず、当時の台湾では、まだ正確な日本語で自由に会話の出来る人士が少くなかったのである。蘇はこの外、信書や受信報告を多数送付した聴取者を表彰するVIP賞の設定や、ファックスでの便りや受信報告送付の呼掛け、コレクトコールによる聴取者と局員との対話を紹介するホットラインの開設、更には撮影コンテストの実施や年末の歌合戦へのテープによる聴取者の参加呼掛けなど、様々な新機軸を打出して聴取者との接近を図った。

放送時間と番組、人員の変遷

 日本語番組の放送枠は1976年以来、一日朝1回、夜2回の計3回、各1時間とされ、その放送時間は1981年3月以降、06:00~07:00、20:00~21:00、23:00~00:00と定まっていた。こうした中で、朝の放送枠は92年10月5日付で10:00~11:00へ移動し、その後5年以上に亘り不変であった。そして91年9月からの番組編成は、2年の間維持された。91年9月改編時における番組の構成状況及び使用周波数は次の通りであった。

甲   20:00 ~ 21:00 7130、 11745 kHz
乙   23:00 ~ 00:00 7130、 11745 kHz
(翌日)06:00 ~ 07:00 6200、7130、11745 kHz
 下線は甲乙同一内容、ニュースは土日以外原則一部別

表1

 91年9月末の卓の退局後、その補充は暫く行われず、新たな要員が加わったのは年が明けてからのことであった。92年の4月に松尾隆男が臨時職員として採用され「話題」等を担当、8月の早田健文の一時帰国の際には、本田善彦が臨時代行者として早田の担当番組を受持った。本田は早田の復帰に伴い一旦降板したが、松尾が9月末をもって退局した後、10月から臨時職員として再び番組を担当することになった。一方、早田は93年9月半ばに退局した。
 早田の退局に伴い、番組の改編が小幅ながら久方ぶりに実施された。尤もその内容は、従来同氏が担当していた月曜日(甲)の経済関係番組、水曜日(乙)の日本関係番組を他の日の番組の再放送で乗切ろうとするものであった。この過渡的措置は同年末をもって終了、94年1月からは月曜日の番組に「海峡両岸交流の道」、水曜日の番組に「台湾歌謡史への招待」との副題が付せられ、新たな装いで放送が進められることになった。

特別放送と特別番組

 既に述べた通り、この時期における日本語放送には大きな番組改編は見られなかった。特別放送も以前からの双十節祝賀番組以外に実施されることはなかった。
 ただ、この時期の同祝賀番組は、現在よりも遙かに密度の濃いものであった。放送時間は10:00~12:50又は12:55、実況中継に先立つ30分又は45分間は、年により趣向の異る特別番組が放送された。1991年には、実況中継の後にアジア・オープンフォーラムにおける李登輝総統の演説の邦訳版が流された。
 特別番組としては、年末年始に流される「年間十大ニュース」「歌合戦」「放送劇」などの外、折々の祝祭日には当日に相応しい内容の番組が流された。また、特に重要なニュースや話題については、特別枠を設定し、或いは繰返して放送が行われた。李登輝総統の動静のみならず、例えば1992年8月22日に実施された韓国との外交関係断絶に際しては、20~24日までのニュースの首題、25日第三題、26日第二題及び20~22、24~26日の話題でこれを取上げ、93年の4月6日から12月28日までに10回に亘って発生した中国大陸籍各社航空機の乗取事件に関しては、一回を除きニュースの首題で報道した。また94年4月27日には、前日に発生した中華航空機事故の取材のため蘇定東が名古屋へ赴き、現地からの報告を伝えた。尚、93年には同局としては初の再放送シリーズが始まり、日本語放送40周年記念番組や新旧正月の放送劇等、7本の特別番組が再び放送された。

聴取者との交流

 1980年代後半からの短波放送聴取者の激減傾向は、90年代に入ってからも変らなかった。こうした傾向を裏付けるかのように、90年末のラジオオーストラリアを皮切りに、この時期には日本語放送を中止する国際放送局が次々と現れた。91年には豪州と同じく英聯邦に属するカナダのRCIと英本国のBBCが、また92年にはフィリピンに本拠を置くカトリック系放送局ラジオベリタスアジアがそれぞれ放送を中止している。
 自由中国之声においても、聴取者の減少傾向は続いているはずであった。但し、数字から見る限り、そうとは言い切れず、少くとも比較的緩慢なものであった。1992年8月17日の番組で当時の来信状況が伝えられているが、それによれば同年1~7月までの来信総数は6605通(月平均944通)で、前年同期より2199通(月平均314通)の減少であった。以前述べた通り1986年の総来信数が13024通(月平均1085通)であったことから、季節的要素を捨象すれば、92年の一月当り来信数は6年前の数値を13%下回ったが、その前年の実績は5年前のものより16%も上回っていたのである。また、別の統計(上述の統計と基準が同一かどうかは不明)によれば、1993年の受信報告数(一日の報告を1件として計算)は、15525件(月平均1294件)で、前年の実績11557件(月平均963件)を34%も上回っている。そして他の言語と比較しても、総報告数に占める日本語番組の比率は26%(前年31%)と、二位の言語を64%も上回り、圧倒的な優位を維持していた。
 こうした結果に受信状況の良さが大きく影響していることは言うまでもないが、毎月の懸賞付クイズの出題や歌合戦の優秀歌手投票、各種コンテストの実施など、局側の聴取者への細かな働きかけが奏功したことも見逃せない。月刊の機関誌『自由中国之声』日本語版も引続き発行され、読み応えのある記事を多数掲載していたが、とりわけ第一線から退いた卓菁湖が机を共にした班員達の想い出を綴る「VOFCに尽くしたアナウンサー」(92年8月号から全10回連載)は、読者の好評を博した。
 大阪と東京での聴取者会も毎年実施され、局側からも日本語班員と中広海外部の幹部が出席(93年の大阪を除く)、聴取者からの要望が直接上層部に届く風通しの良い雰囲気が醸成された。聴取者会幹部による公式訪問のみならず、聴取者の個人的な局への訪問も活潑に行われた。

自由中国之声の日本語班員。右から四人目が蘇定東班長(1993年)自由中国之声の日本語班員。右から四人目が蘇定東班長(1993年)

1990年代中期の日本語放送

予算縮小の中での日本語放送

 自由中国之声で潮州語と韓国語の放送が終了、八里送信所が廃止され、その運営母体である中国広播公司でも21の中継所が廃止、新聞網が中波に一本化された1994年7月1日、日本語班でも大きな出来事が二件起った。
 その一つは、毎日の放送に直接係わる出来事で、放送時間の変更である。日本語番組の夜の放送時間は、1976年12月15日以来、20:00と23:00からの各1時間と固定化されていた。ところがこの日から二回目の放送は従来より1時間繰上げられ、22:00~23:00に実施されることになった。
 もう一つは、刊行物に関する事柄である。1976年3月に発刊された日本語版『自由中国之声』は18年の間、毎月欠けることなく発行されていた。ところが、この月に発行された同誌の表紙には7・8月号と記載されており、その中には「局からのお詫び」として次のような文章が掲載されていた。
 「自由中国の声は一九九五年度の予算が前年度に比べ、16%削られたため(現年度総予算台湾円二億円余り)、局の方も現規模を縮小する事を余儀なくされました。(中略)また、予算の関係で、自由中国の声日本語番組の小冊子は今年の七月から二か月に一回発行することとなりました。これからは奇数月に皆様に私どもの小冊子をお送り致します。
 (中略)リスナーの皆様と私ども「自由中国の声」スタッフの年度一大イベントと言える「リスナーの集い」は、今年「自由中国の声」の予算が十六%も削られたため、局からスタッフを集いの参加に派遣することができなくなりました。(中略)これからはごく少ない人数ではありますが、放送を通して皆様との付き合いを深めて行きたいと思います。」
 ここに記された通り、94年の聴取者の会は、東京、大阪共、局からの参加者が無い状態で実施された。併し、その後の聴取者側の強い働きかけと日本語班挙げての努力により、翌年以降も両地での聴取者会は欠かさず開催され、局側からの人員派遣も復活、97年には複数の局員が参加するに至り、旧状に復した。十数年に亘る局員と聴取者との交流の場はこうして保たれたのである。

番組改編と内容の変化

 前月に范淑文が嘱託に転じたのに続き、嘱託となっていた三宅教子が引退、本田善彦が常勤職員として第一線に加わった1994年9月、久方ぶりに大規模な番組改編が実施された。この改編の結果「玉山だより」の枠は廃止され、これを構成する各番組が独立、ニュースの後には「話題」に代って「今日の詩」や「故宮の美」など文化色溢れる新番組が登場した。同改編時における番組の構成状況及び使用周波数は次の通りであった。

甲   20:00 ~ 21:00 7130、11745 kHz
乙   22:00 ~ 23:00 7130、11745 kHz
(翌日)10:00 ~ 11:00 7130、11745、15345 kHz
 下線は甲乙同一内容、ニュースは土日以外原則一部別

表2

*放送開始後、番組名は聴取者への公募により「范さんスクール」と決定
 その後、大規模な番組改編は、1995年10月と96年9月に実施された。95年の改訂で最も目立った変化は、ニュース枠の拡大と、従来土、日曜日を除き連日放送されていた聴取者からの便りを紹介する番組が週2回に減少したことであった。1970年代には日曜日を除く毎日放送されたこともあり、90年代に入ってからも平日の定時番組としての座を占めていたお便り紹介番組の激減は、短波放送を廻る環境の変化を物語るものであった。
 また毎日の番組の冒頭には「歴史上の今日」が、日曜日の同番組の後には「ニュースワイド ウィークリー台北」と題するワイド番組がそれぞれ創設され、従来の「ニュースダイジェスト」や「今週のキーワード」「今週の人物」はここに吸収された。
 この外、前回の改編の際姿を消した閩南語学習の時間が「閩南語ショートレッスン」として復活した。この番組は、本田善彦と亜洲之声の呉瑞文アナウンサーとの会話を通じて閩南語の学習を進めていくという比較的長文の語学講座であった。
 この改編時における番組の構成状況及び使用周波数は次の通りであった。

甲   20:00 ~ 21:00 7130、11745 kHz
乙   22:00 ~ 23:00 7130、11745 kHz
(翌日)10:00 ~ 11:00 11745、15345 kHz
 下線は甲乙同一内容、ニュースは土曜日以外原則一部別

表3

 1995年9月の改編後の1年間は、立法委員選挙や初の民選総統選挙と新総統の就任式、大型颱風による被害の発生等に伴う特別放送や特別番組の流される機会が比較的多かった一方で、定時番組の目立った変更は、96年1月の鄭碩英の退職後、17年余に亘って続いた「歌の散歩道」が終了した程度で、番組の編成に関しては比較的変化の少い時期であった。
 こうした状況の中で、96年9月に実施された番組改編は、83年9月以来維持されて来た単元の多様性(甲、乙単元の一部で別番組を放送)を捨象した点で、画期的な変革であった。この改編により実施された番組の構成は次の通りであった。尚、放送時間と使用周波数は上記に同じ。因みに聴取者からの信書や受信報告の紹介は、新設された「定東(ティントン)倶楽部」の中で行われることになった。

表4

特別放送と特別番組

 1994年の双十節当日、この年の8月、9月と立て続けに襲来した颱風による被害の発生を承け、野外での記念式典は中止された。併し自由中国之声では例年通り特別放送を実施、日本語放送では祝賀大会での祝辞の紹介の外、「GATT(関税及び貿易に関する一般協定)加入後の中華民国」と題する解説番組や実況中継の裏話、聴取者への面談、クイズ、新年特別番組として放送された放送劇の再放送を行い、これに音楽を交えて2時間50分余の放送枠を埋めた。この特別放送は翌年以降も続けられたが、その頃には、実況中継の終了と共に特別放送も終了することが常態となった。
 94年12月3日には、台湾省長・省議会議員、行政院直轄の台北市・高雄市の市長及び市議会議員の一斉選挙が実施された。この日、中広の国内向放送は国語、閩南語、客家語の各言語で、また中央広播電台では双十節や春節時並の全系統同一放送で、開票結果や解説など関連報道を行った。日本語番組でも当日の一部番組を中止して選挙関連情報の報道に力を注いだ。
 1995年1月17日、日本で阪神・淡路大震災が発生した。同じ地震国で、被害地域に居住する華僑も少くない台湾においてもこの災害に対する関心は高く、中広では本田善彦を王憶慈国内部採訪組副組長と共に日本へ派遣した。神戸出身の本田は土地勘も活かして現地から国語、日本語の双方で積極的な情報発信に努め、日本語班の中広内における存在価値の向上にも貢献した。
 この年の5月8日には「東洋の歌姫」鄧麗君(テレサ・テン)がタイで亡くなった。まだ42歳の若さであった。この日台湾の放送局では競って特別番組を制作、放送したが、日本語放送でも各時間を通じ追悼特別番組を流した。
 12月2日には、第三期立法委員選挙が実施された。3ヶ月後の総統選の結果を占うとされたこの選挙の開票に当り、日本語放送では後半の定時番組「ウィークエンドワイド」を中止して速報を放送、二回目の番組の最後には政党別の確定当選者数も伝えた。
 1996年3月23日、初の民選正副総統直接選挙が実施され、中広は新聞網で20:00前から23:00まで、中央広播電台では大陸へ向け19:00~22:30に開票速報を流した。日本語放送ではこの時も後半の「ウィークエンドワイド」を中止して特別番組枠に充て、開票の状況に応じ内容を差替え、翌日朝のニュースの際には完全な新原稿で放送を実施した。朝の放送時におけるニュース内容の全面的な差替えは、1988年1月の蔣經國総統(当時)死去時以来のことであった。
 5月20日の総統就任式に当り、自由中国之声では国語、閩南語、広東語、英語と並び日本語での特別放送を実施した。この特別編成に対応するため、当日朝の通常の日本語番組は10:29で終了、10:30からは15345kHzを英語番組に譲り、11745kHz一本で特別放送を行った。この放送は12:00まで続けられ、当日夜の放送では後半にその録音が特別番組として流された。尚、この年10月10日の双十節祝賀式典実況中継に先立って放送された「台湾地区における国歌の移り変りから台湾地区の民主化を見る」と題する特別番組は、映画館における国歌の扱いの変遷や背景画像の変化を紹介、時代毎の「正統派」演奏3種の後にロック版の演奏曲を流すなど、近年における台湾の社会的変化を象徴的に物語る完成度の高い内容に仕上がっていた。

激動の1997年

上半期の主要事件と日本語放送

 自由中国之声にとって最後の年となった1997年は、台湾にとっても、そしてそれを取巻く東亜諸国にとっても変化に富んだ一年であった。まず元日に、台湾では宋楚瑜省長が辞意を表明した。就任後僅か1年での辞意表明は、前年末の国家発展会議で次期台湾省長と省議員の選挙を凍結する方向で合意が成立したことへの反撥に起因するものであった。李登輝総統を含む首脳陣の慰留もあって3週間後に辞意は撤回されたが、この動きは新党の結成に続く政界激震の幕開けとなった。日本語放送でも、その経緯や動向は元日のニュースの首題として採上げられたほか、「ニュースワイド」や「サウスチャイナレビュー」の中でも逐次報じられた。
 2月19日、大陸側の最高実力者である鄧小平・元国家中央軍事委員会主席が死去した。この報は当然ながら台湾でも大きな関心をもって伝えられたが、日本語放送でも20日の前半30分の番組を略ぼこの話題に充て、二回目のニュースでは一部を差替え、偶々香港に滞在していた本田善彦からの現地での反応を伝える電話内容も報じた。また23日の「ニュースダイジェスト」もこの話題で埋め、3月3日の「サウスチャイナレビュー」では「鄧小平死後の中共」と題し、連戰行政院長の江沢民・中共国家主席の演説を評する談話の内容などにつき録音を交えて放送した。
 この年の2月28日は、二二八事件の50周年記念日であった。台湾における本省人と外省人の間に深い溝を作るきっかけとなったこの事件の処理に関し、立法院では2月25日に賠償条例修正案の立法化手続を完了、2月28日の休日案を可決して犠牲者・被害者との和解の推進を図った。日本語放送でもこの日はニュースと「歴史上の今日」でこの話題を詳しく報じ、後半には「二二八事件五十年」と題する特別番組を放送した。また3月4日の「台湾万華鏡」では、2月28日の国定休日化を廻る各界の反応を紹介した。
 3月の遠東航空機乗取事件、4月の白曉燕(作家の梶原一騎と台湾の歌手白冰冰との娘)惨殺事件と大きな社会的事件が発生し、特に後者は殺人犯の一人が駐華南阿大使館付武官邸に押し入り、人質籠城騒ぎを起す(11月)という事態にまで発展したが、こうした不祥事件についても、自由中国之声ではその動きを逐一伝え、日本語放送でも特別番組や特別枠を組んで関係情報を詳細に報道した。

香港の主権移管と台湾の放送

 7月1日、香港の主権が英国から中華人民共和国に移った。あらゆる面で香港と関わりの深い台湾においてもこの問題に関する関心は高く、この時期に台湾から香港へ赴いた報道関係者は43団体、527人に上った。ラジオ局では中国広播公司の外、ICRT、台北之音、飛碟電台等が特派員を派遣、それ以外の多数の局でも、それぞれの立場に応じ、多寡の差こそあれ、様々な角度からこの話題について報じた。
 中広では6月中旬から新聞部の要員を派遣し、6月29日には新聞部の李正純と海外部(自由中国之声)粤語班陳志光、日本語班本田善彦、英語班郭希誠の4名が現地入りし7月3日まで滞在、各言語の番組中で特別報道を実施した。
 日本語放送では30日から3日まで、ニュースの中で本田からの電話レポートを報じ、返還式典後最初の放送の機会である1日朝のニュースでは、その内容を前日夜のものと差替え、式典の模様を伝えた。また2日のレポートでは、香港に隣接し、2年半後にはやはり主権の移管が決定しているマカオでの状況が伝えられた。更に6日の「ニュースワイド」と「音楽博物館」では、香港主権移管特輯と題し同地関係の話題と音楽を集中して放送、その後も「サウスチャイナレビュー」の枠で4回に亘り、香港を廻る貿易、政治、文化等各分野に関する話題の紹介と問題点の解説を識者との談話を通じ聴取者に伝えた。

国際放送特別展覧会の開会式(1997年9月1日)国際放送特別展覧会の開会式(1997年9月1日)

自由中国之声最後の半年…新局名決定までのドタバタと移転、人員の動き

 1996年2月5日に公布された中央広播電台設置条例は、同年12月5日に施行された。同条例に基き97年6月9日に国家広播電台の第一回董事会(理事会)が開催され、理事15名、監事5名を選任、初代理事長には朱婉淸・行政院第六組組長が選出された。7月1日には理事会・幹事会による設立準備委員会が発足し、98年年初の中央広播電台の開局へ向け準備を進めて行くことになった。
 9月1日、中国広播公司の局舎内で「国際広播特展」が始まった。これは年末をもって廃止となる海外部の記念展覧会であった。ここでは海外部の前身である海外広播部が成立した1965年以来32年間に亘る海外向放送の歩みを辿る資料や記念品が紹介され、日本語放送聴取者の受信記録・提供資料や日本語班員に贈られた賞状、感謝状等も展示された。尚、当初「台北国際広播電台」Taipei Radio Internationalと発表された新放送局の局名は、半月後には「台北国際電台」Radio Taipei International と訂正され、開局1ヶ月前の12月1日になって CBS「台北国際之声」に決定したと公表された。これは朱理事長の強い主張によるものであったが、英文名称の方は Radio Taipei Internationalがそのまま用いられることになった。
 新放送局の局舎は大直の旧中央広播電台局舎と決定、新局へ移籍する海外部本国語組の人員は12月8日、外国語組の要員は16日にそれぞれ移動した。テープの切貼りで番組を制作していた中広海外部とは異り、資金面で恵まれていた旧中央広播電台では、コンピューター操作による番組制作が可能となっていた。局舎や設備こそ新しくなったものの、交通の便が悪くなり、処遇面でも改善されたとは言えない環境の中で、慣れない機械操作に苦しみながらも、局員は新たな気持で各自の業務に励んでいった。

最後の半年の自由中国之声日本語班と日本語放送

 省制度の凍結や立法院による正副総統の弾劾権、総統による立法院の解散権を認める提案が可決されるなど、第三期国民大会で重要な決定が下されていた7月中旬、蘇定東と王淑卿が来日した。20日に東京、26日に大阪で開催される聴取者の会に参加するための出張であった。局の動向に対する出席者の関心は高く、会場では活潑な質疑が繰返された。蘇は9月にも中華民国広播電視基金会訪日団の随行員として来日、一部聴取者との情報交換を行った。
 10月10日、例年通り双十節記念式典の実況中継を含む特別放送が実施された。1978年の開始以来20回目となったこの年には、初回の同放送を担当した卓菁湖が登場、蘇定東と共に過去の実況中継を振返る特別番組が、当時の録音を交え放送された。この日は夜の定時枠の番組も、双十節関係の話題一色で埋められた。

自由中国之声日本語放送最終回の受信報告に対する受信証自由中国之声日本語放送最終回の受信報告に対する受信証

 新局の名称は決定まで二転三転したが、日本語での表現は当初案の「台北国際広播電台」を和訳した「台北(タイペイ)国際放送」からぶれることはなかった。正式名称の直訳である「台北国際の声」では日本語として不適当であるというのが、日本語班全員の一致した意見であった。また「中央広播電台」については、所在国の説明を加えた方が良いということで「中華民国中央放送」或いは「中華民国中央放送局」と称することにした。
 12月1日に新放送局の局名、日本語番組の放送時間、使用周波数が公表された。一日3回、3時間の放送枠が削減されることはなく、班員も聴取者もまずは胸を撫で下ろした。
 ところがこれに続き、激震が走った。蘇定東班長の退職の旨が公表されたのである。日本語班にとっては、4月の馬中苑の転出に続く経験豊かな要員の減少、しかも今回は大黒柱の喪失という大きな痛手であった。新たな歩みの前途に暗雲が垂れ込めたが、日々の業務は淡々と推し進めるしかない。煩わしい移転作業の中で、誤送出や再放送等も繰返しつつ、毎日の放送は続けられた。
 自由中国之声の名で放送が行われる最終日の12月31日、この日をもって退職する蘇定東は「定東倶楽部」の最後の挨拶で「自由中国之声万歳、台北国際放送万歳、リスナーの皆さん万歳」と叫んだ。併しこの日の夜二回の放送では、収録時の作業の手違いにより他の番組が流されたため、この叫びを耳にすることが出来たのは、翌日朝の番組を聴いていた聴取者だけという残念な結果に終った。
 1月1日朝の番組は、日本時間10:00からではなく、06:00に開始された。新局発足後のスケジュールに副った放送であった。前日22:00からの番組の繰返しであるこの放送の開始時に告知された局名、そして番組中で流された局名は、当然ながら自由中国之声であった。併し、その終了告知の際に流された局名は「台北国際放送」と変っていた。日本語放送の局名は、形の上では日本時間1998年1月1日07:00直前に変更されたのである。

〔主要参考文献〕
中國廣播公司『中廣七十年大事記』
中央廣播電臺『中華民国台湾地区における日本語国際放送開始50周年記念特集』
五南圖書出版『揚聲國際的臺灣之音』
陳江龍『廣播在台灣發展史』
北見隆『中華民國廣播簡史(下冊)』
『近隣諸国放送要覧』1998年版
月刊「自由中国之声」、隔月刊『華龍』各号
「アジア放送研究月報」各号
コラムニスト
山田 充郎
1948年、大阪府出身。少年時代より漢字・漢文と放送に興味を持ち、会社勤務の傍ら漢文学と放送史の研究を継続、退職後の現在に至る。放送面で関心の深い分野は、中華人民共和国以外の中国語圏、特に台湾・マカオのラジオ放送並びに近畿圏、特に大阪の放送とプロ野球・高校野球中継について。放送研究団体アジア放送研究会理事。東京都在住。
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