1970年代後半の日本語放送

送信体制の増強と受信感度の上昇
 1976年1月1日、従来同時に二つの系統で放送を実施していた自由中国之声は、同時3系統の放送を実現、これに伴って日本語放送も一日3回、3時間に増加した。また送信設備に関しても、台南送信所に設置された250kWの新送信機が送出を開始、受信状態の改善、安定化が図られた。日本語放送に関しても、1波にはこの高出力機が用いられ、この年の12月15日に使用が開始された11745kHzは、長い間日本向放送の基幹周波数として、聴取者の間にも親しまれた。

番組の多様化、実況中継番組の開始
 この時期の日本語放送は、使用可能な経費の増加と担当者の増員もあって、番組は多様化し、その充実度も高まって来た。
 1976年1月の放送時間増加に伴い、日本語放送では夜の2回(20:00、23:00からの各1時間)の番組でニュースを含む一部放送内容の差替えを開始すると共に、「中国語学習講座」や「レターボックス」の放送枠を増設した。「蔣総統秘録」が終了した後、この番組に充てられていた放送枠は基本的に「レターボックス」の使用する所となり、1977年1月からは日曜日を除き、聴取者からの便りが毎日紹介されることになった。これは明らかに聴取者数、来信数の増加を反映したものであった。

中国広播公司の局史『中廣五十年』(1978年)

中国広播公司の局史『中廣五十年』(1978年)

 この時期に起った番組編成上の注目すべき変化として、実況番組の増加したことが挙げられる。その皮切りとなったのは、1976年10月31日の台中港開港記念番組である。この番組は、現地へ赴いた石橋優が音声を録音、演奏室で編輯して放送したものであった。石橋はその翌年8月に行われた初の野球中継、リトルリーグ極東地区の代表を決定する日本チーム対中華チームの実況も担当した。
 曩に挙げた両番組はいずれも実況録音番組であったが、1978年には遂に現場からの生中継による番組が登場した。蔣經國総統が主役として初めて登場する同年10月10日の中華民国67年双十国慶節に当り、日本語班では初の特別放送を実施したが、10:50~12:50に実施されたその放送の中で、最後の部分を除く約1時間半は、記念式典の現場からの実況中継に充てられた。中継を担当したのは、卓菁湖と許純美であった。11825、7130kHzの両波で放送されたこの番組の日本での受信状態は散々であったものの、特別放送自体は周波数を調整した上で翌年以降も続けられ、現在に到っている。
 実況番組だけでなく、一般の番組中でも臨機応変の措置が執られた。1977年7月7日  に中共人民解放軍の范焱園飛行士が台湾へ亡命した際、日本語班では「中国語学習講座」を中止し特別ニュースを放送、また1978年12月16日に米国が中共政権と国交を樹立する旨発表した際には、当日放送予定の録音番組を中止し特別番組を放送したことなどがその例である。
 こうした動きを経て、1979年1月、日本語班では番組の全面的改編を実施した。改編後の番組編成は、次の通りであった。

 甲/20:00~21:00、乙/23:00~00:00、翌日/06:30~07:30
 下線は甲乙同一内容、ニュースは土日以外一部別、音楽の広場は甲乙内容別

表3

(1979年1月3日改訂)

 この時の改編は、現在の番組編成にも繫がる大きな意味を持つものであった。

周知活動と聴取者の反応
 たびたび述べている通り、1970年代初期から中期にかけ、BCLブームもあって、自由中国之声に届く日本からの信書や受信報告の数は激増したが、局の方でも聴取者との間により深い相互理解と永続的な交流を図るため、日本語による機関誌を発行することになった。こうして1976年3月2日に創刊されたのが『自由中国之声』である。B6判24頁のこの月刊誌には、放送で採上げられたニュース、論評や写真、聴取者からの信書・受信報告、中国語学習講座の教本、日本語放送の番組表等が掲載された。初代の編輯担当者であった劉麗蕙によれば、当時の台湾ではすでに日本語の理解出来る印刷工が少くなっており、毎月の最終校正時には現場に張り付いていなければならない状態であったという。尚、同誌は日本語版の創刊に先立ち、中国語、英語の両言語版を発行していたが、日本語版の発行部数は、他の言語版の発行部数を大きく上回るものであった。
 一方、日本側においても、自由中国之声の周知に資する各種印刷物が刊行されていた。
 老舗のラジオ雑誌などに加え、1975年末に発売された『短波』誌(創刊号は1976年1月号)には日本語放送のコーナーが設けられ、自由中国之声の番組表や同局に関する話題・受信報告も掲載され、聴取希望者への便宜を図っていた。また、受信機の購入時に電機メーカーが提供する各局日本語放送の放送時間・使用周波数表なども、初心者にとっては有益な資料であった。
 こうした双方の活動と好循環もあって、1972年時点では2934通に過ぎなかった日本語班への年間来信数は、76年には54049通、翌77年には57031通に達し、局全体に占めるその比率はそれぞれ76%(76年)、77%(77年)という高い数値を記録した。

中広五十周年と日本語放送
 1978年8月1日、自由中国之声の運営母体である中国広播公司は、創立50周年記念日を迎えた。創立50年に当り、中広では放送資料展を開催、『中廣五十年』等図書3種と記念レコードを刊行するなど様々な記念事業を実施したが、その中、日本語班や日本語番組、日本語放送の聴取者に関係した事項としては、次のようなものがあった。

  • 受章 日本語班責任者の卓菁湖は、中広職員としての最高栄誉である「中広奨章」金賞を受賞した。その功績が、日本語放送に対する夥しい来信数の獲得にあったことはいうまでもない。また、東京都在住の垣見重三は、優れた中広聴取者に与えられる「中広之友」(海外放送部門…該当者3名)の一人に選出され、表彰を受けた。
  • 記念論文募集 日本語班では中広50周年を記念して、「私と自由中国之声」、又は自由中国之声の放送の中から「一番印象に残った放送」と題する懸賞論文を募集した。139本の応募があり、10名の論文が入選、大阪府在住の西浦成和の文章が最優秀論文に選ばれた。
  • 特別番組 複数の特別番組が制作、放送されたが、その中で最も注目されたのは、「蔣介石総統の想い出」と題する岸信介元首相の談話であった。この談話は、元首相が日本の経済界首脳の集会で行った「世界の巨星を語る」と題する講演の録音を、中広が亜東関係協会東京弁事処経由で入手、日本語放送の中で特別番組として日本向けに流したものであった。

担当者の異動
 1970年代前半以来、日本語班の構成員は増加傾向を辿っていたが、放送に対する聴取者側からの反応が大きかったことから、退局者が現れた場合の補充も早急に実施された。
 1976年から79年までの間に入局したのは、馬中苑、石田町子、黃順香の3名、退局したのは許純美と門馬博の両名である。この中、76年に入局した馬は専ら来信の整理を担当した。また日曜日の音楽リクエスト番組「歌の散歩道」を担当した石田、門馬の後を承けて土曜日の「ミュージックアンドトピックス」を担当した黃の両名は、79年に日本の千葉テレビが「国交なき友好国」と題する報道番組で日本語班を紹介した際、通訳を兼ねて記者と同行した。尚、80年には、ラジオ東京(現TBSラジオ)の一期生で同局を停年退職した稲川英雄が入局、日本語番組の革新に貢献することになる。

 

〔主要参考文献〕
コラム全般
中國廣播公司『中廣五十年』『中廣六十年大事記』
中央廣播電臺『中華民国台湾地区における日本語国際放送開始50周年記念特集』
陳江龍『廣播在台灣發展史』
北見隆『中華民國廣播簡史(上冊)』
今回のコラム
若菜正義『明日の台湾』
菅野敦志『台湾の言語と文字』
井川充雄「BCLブームの盛衰」(『応用社会学研究』第58号所収)
月刊『自由中国之声』各号