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写真満載の多田麻美さんのコラム、大きなサイズでお楽しみください。
意外に強い南北のつながり
昨年秋、ずいぶん久しぶりに訪れた広州は、私の期待を裏切らなかった。
以前、私が広州に抱いていたイメージの多くは、香港との近さと関係があるものだ。海を介して世界とつながっていて、製造業や物流の要でもあり、いろんな情報が豊富で、自由な表現をめぐる許容度も高い町。
広州は南にありながら、北方の人々との結びつきも強い。かつては多くの東北人が広州に働きに出ていた。北京―ハルビン間の列車に乗ると、広州との間を行き来する東北の人とよく出会ったものだ。そして、まるでその延長でもあるかのように、広州は私の周りのシベリアっ子たちにも人気の町だ。
厳しい取り締まりの結果、今でこそ流通は下火だが、海外の音楽情報に飢える人々にとって、かつて広州は海賊版CDのもっとも重要な供給源だった。その影響力は北京はもちろん、遠くシベリアにも及んでいたらしい。イルクーツクは質のいい中国産の海賊版CDがあれこれ手に入るからと、わざわざロシア西部からイルクーツクにCDを収集しに来る音楽ファンもいたほどだ。
そんな、名誉というよりはむしろ不名誉な知名度をイルクーツクにもたらした広州の海賊版文化だが、プラスの影響もあって、それは今も音楽ファンを始めとする多くの人々に、広州に対する好印象を残していることだ。
そもそも「広州は今も面白い町だ。ぜひ行ったらいい」と言って今回、夫と私の背中を押したのも、イルクーツク在住のビジネスマンの友人だった。私たちには共通の元ミュージシャンの知人がいて。子供の頃から中国文化が好きでたまらなかったという彼が、移住先に選んだのも広州だった。
整備された旧市街
もっとも、私にとって広州の魅力といえば騎楼建築だ。歴史の余韻に富み、陽ざしや雨を避けながら街歩きができる騎楼は。とても実用的であると同時に、広州の町を特徴づけるシンボルでもある。昔から有名なのは「上下九街」だが、ここ以外にも近年、旧市街の街並みを楽しめるよう整備された観光スポットは増えていて、今の一番人気は「永慶坊」らしい。
とはいえ、私が今回真っ先に訪れたのは、やはり馴染みのある上下九街だった。
整備された中国の旧市街の例として、面白いのは整備された通りそのものより、その裏側や周辺にある、やや雑然としていて、生活臭たっぷりのエリアだ。旧市街というと平屋や二階建てが多い北方と違い、広州の旧市街はもっと垂直型だ。大通りだけでなく、路地に入っても、頻繁に上を見上げながら歩くことになるのが、いかにも人口が密集する大都市という感じがする。
それもそのはず、「広州―深圳大都市圏」は、私が再訪したまさにその2025年に、長年世界一だった「東京―横浜大都市圏」を凌ぎ、都市圏として世界一の人口規模の座を獲得したのだった。
上下九街エリアでは、整備された繁華街の方も歩いてみた。まるで映画のセットのように整った騎楼建築を見上げる位置には、街の文化や歴史と結びついた彫刻作品がいくつも配され、街並みに変化を添えていた。北京の王府井にも銅像が配されているが、ここでも銅像たちは、ユーモラスなシーンを表したり、時には座る場所を提供したりと、いろんな意味で街を訪れた者たちに憩いをもたらしていた。
今回のもう一つの収穫は、以前訪れた時は車の窓から眺めただけだった沙面島をゆっくりと歩けたことだ。かつては英仏両国の租界で、各国の領事館や銀行なども並んだ沙面島は、異国情緒あふれるフォトジェニックな場として、今の若い人々に人気だとは聞いていた。だが、その人気の高さは予想以上だった。ペアを組んでコスプレ姿で歩いている若者までいる。彼らにはここの歴史的背景はもう、歴史書の中のものだけなのかもしれなかった。
沙面島は、堀を掘ることで一般の街区と区切られた人工島で、1862年に竣工し、かつては島の西部がイギリス租界、東部がフランス租界だった。その他の国の領事館や企業も次々と競うように拠点を構えたため、今も外観上はまるでヨーロッパの街の一角のように見える。だがその独特の地形や威風ある西洋建築の数々が醸し出す揺るぎない存在感にも関わらず、沙面島が広州市の歴史文化街区に指定されたのは2014年と、比較的最近だ。
指定が時間的に遅れたのには、文化財を保護するという意識の問題以前に、やはりここがかつて英仏をはじめとする西洋列強の中国侵略の拠点であったという歴史的背景が影響しているに違いない。2010年代に入り、首都北京においてもようやく旧租界地区が観光エリアの一つとして注目され始めたのと呼応するように、沙面島でもその建物群を保護する歴史的意義が大々的に見直されるようになったのだ。
2020年にはさらに新たな保護計画が公布され、新しい建物の高さ制限、歩行者中心の街とすること、道路の拡幅の禁止などがその内容に盛り込まれた。筆者が訪れた時の印象では、その規制はしっかり守られており、沙面島エリアは車の通行が制限され、古いままの区画の街並みをゆったりと散策できる地区となっていた。
川辺に向かって歩くと、公園の一角から珠江を挟んで対岸の高層ビル群を眺められた。夜はやはり対岸にある、2024年に開館したばかりの斬新なフォルムの白鵝潭大湾区芸術センターもライトアップされる。古い時代の広州と新しい広州が川を挟んで対照的に向かい合っていて、どこか上海の外灘を想起させるようなスケール感だ。
団子も花もお任せ
一方、食の都としての広州もまだまだ健在だった。庶民に人気の屋台から、大型の老舗レストランまで選択肢は豊富で、上下九街の顔ともいえる飲茶屋も、相変わらず客で賑わっていた。内装もかなり高級できらびやかなものになっていて、飲茶の一品一品の値段も、量のわりには安くないので、注文したものをすべて合わせるとなかなかの値段になった。
そういった有名どころはもちろん、ふらりと入った庶民派の店などでも、味に失望することは稀で、しかも値段はお隣の香港と比べると全般的に安めだ。食事だけでなく、物価全般がそうだから、最近は香港の人々がよく週末を過ごしに広州を訪れると言われているのも、十分うなずける。
ちなみに広州では昔から、その温暖な気候を生かした観賞用植物の栽培が盛んだ。香港の旺角花墟などを始めとする花卉市場を訪れると、冬でもヒマワリの花が元気に咲いていたりして、広州の花卉産業の活力を感じることができる。しかもその勢いはここ数年、さらに強まっているようで、花や草木は街のあちこちで景観にも生かされていた。ただ、気候が気候だけに、北方の花壇と比べ、花壇も街路樹も人工的に植えられたというよりは、まるで自分でそこから生えて来たかのような生命力が感じられたのが印象的だった。
実際の政策としても広州では2024年、「広州の花卉産業が高いクオリティで発展するための提案」が議会に提出され、これまで以上に新しい品種の開発や市場の開拓に力を入れるようになっている。その勢いは北京をも席巻しつつあり、「南方日報」によれば「広貨行天下、花街進北京」と称して、この3月、北京の北海公園に大量の花を送り込んでいるそうだ。
そこで思い出したのが、イルクーツクでも同じ時期から花卉産業の成長に力を入れ始めたことだ。イルクーツクと中国の政府間の提携関係というと、中国の東北地方や内陸部の省や都市との間のものが多いが、民間の交流や提携はもっとずっと広い範囲で行われているのだろう。
アートの町広州
じつは広州は、古い歴史だけでなく、広州トリエンナーレが3年ごとに開かれるなど、現代アートをめぐる試みも盛んな町だ。先ほど言及した2024年開館の白鵝潭大湾区芸術センターなどは、建物自体が広州の新たなランドマークとなっている。同センターでは、大きな船に喩えられることも多い巨大な建物の中に、広東美術館の分館、広東省無形文化遺産館、広東文学館がすべて収まっており、外に出なくても多様な展示を目にすることができる。筆者が訪れた時は、広東美術館で人気画家、ボテロの展覧会が開かれていた。ボテロは人や物をすべて丸みのある豊満な形に描く、コロンビア生まれの画家兼彫刻家だ。
一方、より一層前衛的な現代アートについても、優れた展示空間はあった。その代表格が広東時代美術館だ。
私が訪れた昨年の秋には、ここで孫遜の『魔法星図』展が開かれていた。孫遜はこれまで水墨画の技法を生かしたアニメーション作品などで知られてきたが、今回、その表現や技法はより多様で厚みのあるものとなっており、もとから強かったメッセージ性も力を増していた。
まず広いホールでは勢いのある筆遣いで描かれた大型の絵巻物風の水墨画などが順に展示され、次に木版画から漫画風のタッチに至るまでのさまざまな作風の絵が並んでいた。バーチャルリアリティや過去のビデオの作品もあり、さらに進むとフィルムが上映されている空間があった。その画面を目にして初めて、これまで観ていた絵画はアニメーションの原画だったと判明する。
孫遜の動画作品はこれまで何回も鑑賞してきたが、今回の作品は質の面でも量の面でも、これまでの集大成と言えるほどの充実ぶりと完成度だった。
宇宙をテーマとしつつ、実際には人間世界を描くというスタイルは、最近の中国の現代アートでは時折見られるものだが、今回の作品では、時空的広がりのある「世界」を提示したいという作家の意気込みがとくに強く感じられた。これには、もともとは映画監督になりたかったという孫遜の経歴が関係しているのだろう。フィルムには歴史の新たな解釈や平和を願う気持ちが込められており、現代的な課題にもしっかりアプローチしていた。なみにこの『魔法星図』の制作過程については、日本のウェブメディア『artscape』に詳しいインタビュー記事があり、参考になる。
館内の奥まった場所では香港の昔と今をテーマにした鄧広[火を三つの下に木]と袁雅芝のビデオアート展『浮図』も開かれていた。最初のスクリーンに映し出されていたのは作品「此時某処」で、ビクトリア女王が刻まれた香港の古い2ドルコインの穴をピンホールにしたカメラで、香港または香港での生活にゆかりのあるさまざまな古い品を撮影したものだ。
一方、最新作「西沙南田」は、香港の郊外にあるニュータウン、沙田がかつて、農業や漁業を営む辺境だった頃のことをテーマにした作品だ。その他の作品も含め、比較的ミクロな視点と土地や歴史や地形全体を見るマクロな視点を敢えて同時に示しつつ、かつての香港の生活や景観、地理、および時代の空気や歴史をあぶり出しているという点は共通しており、それらは、この四半世紀余りの間に香港が経た変化をもしんみりと思い起こさせた。
北京に波及したもの
実は2002年に開かれた第一回目の広州トリエンナーレを訪れた時、私は非常に前衛的な展示が、広東美術館という公営の美術館で開かれていることにショックを受けた。そして、中国における自由で新しい文化の波は南から来るだろうと感じた。その予感はさほど外れず、その後、新聞報道については、2003年11月に光明日報と南方報業が合同で「新京報」を創刊。同紙を通じ、比較的自由で批判精神に富む報道が北京でも行われるようになった。都心の再開発問題を熱心に取り上げ、一つの胡同の取り壊しについて一週間にわたって追跡報道を行うこともあった「新京報」の報道姿勢は素晴らしく、私や、同じく胡同の行方を見守る者たちを励ました。
時代は大きく変わり、自由で批判精神に富む報道を受け入れる空気は今の北京では消え去って久しい。新京報の創始者で2006年から2012年まで編集長でもあった戴自更氏は、2019年以降、政治的規律や規範に反し、さまざまな汚職、違法行為を行ったとして職を解かれた。「ラジオ・フリー・アジア」の2021年11月の報道によれば、戴氏はその後、8年の刑を言い渡され、北京市の刑務所に収監されたという。もしそれが本当なら、今も服役中ということだ。
その罪名の妥当性を確かめる術は筆者にはないが、かつては「新京報」の愛読者であり、その報道姿勢に共感を覚えていただけに、「あの時代は本当に終わってしまったのだ」という感慨を抱かずにはいられなかった。ちなみに、今の中国では、著名な知識人が急に拘束されるケースは珍しくないそうだ。
しかし、今回の広州で見た作品は、アートの世界ではまだ何とか自由な表現力を発揮できる余地があり、しかも公共機関を巻き込んだ大きなプロジェクトの形でその成果が発表されていることを証明していた。
その作品の数々から感じる熱量に励まされつつ、私は希望を胸に広州を後にした。





























































