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中国の連続無差別殺傷をどう報じるべきか

編集室より

小社刊『アップデートされた反日の法則』の著者・安江伸夫氏によるメディア総合研究所『放送レポート』掲載(2025年1月号)の記事「中国の連続無差別殺傷をどう報じるべきか」を著者の許諾を得てここに転載いたします。

書名:アップデートされた「反日」の法則
著者:安江伸夫
発行:集広舎
発売日:2024年09月04日
製本:並製/A5判/432ページ
ISBN:978-4-86735-051-5 C0031
価格:2,700円+税

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世界で最も安全で犯罪発生率が低い

児童が殺害された深圳日本人学校(2024年9月:中国メディア『財新』より)児童が殺害された深圳日本人学校(2024年9月:中国メディア『財新』より)

中国では2024年9月から11月にかけて無差別に人を狙った殺傷事件が続いた。日本人男児殺害の9月18日の深圳事件に続き11月11日には同じ広東省の珠海で35人が死亡する車の暴走事件が起きた。11月16日には江蘇省無錫の職業訓練学校で21歳の元生徒の男が学生たちに刃物で切りつけ8人を殺害した。11月19日には湖南省で児童らが登校中の小学校に39歳の男が車で突っ込んだ。10人以上がけがをした。「日本人だ。また反日だ」だけでは説明がつかない。日本で自殺が連鎖するのと同じように思いつめたものを感じる。

珠海事件の二日後、記者会見で事件への評価を質問された中国外務省報道官は「事件については警察省が発表している。中国は世界で最も安全で犯罪発生率が低い国の一つだ」と述べた。これは2024年5月に中国の政府系シンクタンク「社会科学院」が「法治発展報告」で発表したものだ。日米中での殺人事件件数は日本の外務省発表のデータによると米国が最多で2021年に1万3537件だ。警察白書によると日本は2022年に817件、2023年は874件起きている。中国は2022年に5293件で数としては多くても人口比では日本よりも少ない。問題は事件にどう向き合い犯罪予備軍をどう抑止して行くのかだ。珠海事件の62歳の容疑者は離婚後の財産分割に不満を抱いて事件を起こしたことが警察から発表されている。これ以上の情報公開はない。共産党政権の安定、揺るぎない国家安全を何よりも重視する国として容疑者を罰することで応報感情にこたえ社会を震え上がらせることばかりに力点を置いている。そしてお上を恐れる社会ではこれらの数字も情報も現場から上級に正直に報告されたものなのかは誰もわからない。なぜなら強権は強さが過ぎれば硬直する。都合の悪いことは報告しなくなるからだ。本来は事件を教訓として社会を前に進めていくことを目的として処罰することも重要だ。加害者になるまで人間を追いつめた社会環境を政府がどう改善していくか。個々人が抱える問題にどう寄り添うのか。民主主義社会ではこれが行われている。

結論が出るまで公開されない事件情報

珠海事件の翌日、北京の日本大使館は在留邦人向けに安全対策情報をメールで発信した。注意喚起のために直近に起きた代表的な3件の事件情報を公表した。「北京市海淀区の小学校付近の路上(10月28日)、広東省広州市天河区華強路の路上(10月8日)、上海市松江区内のスーパーマーケット(9月30日)」だ。だが日本からは全体像の一部しか見えていない。珠海の暴走事件はたまたまステルス戦闘機「殲35A」が公開される「国際航空宇宙ショー」開催で外国メディアが集まっていた場所で起きたことから注目された。西側メディアが現場にいなければ事件の発表はさらに遅れていた可能性がある。

中国で社会が犯罪事案や事故の発生を知るにはすべて結論が出た段階で党中央宣伝部が発表し新華社が原稿を発信するまで待たねばならない。古くからの「よらしむべし知らしむべからず」という論語の世界が共産主義中国でもなじんでいるからでもある。共産党のエリートによる議論だけで完結させようとしている。門外漢の大衆まで含めた議論がもまれて交通整理され建設的に積み上げられていくシステムが構築できていない。情報公開は国内社会の動揺につながる。だから透明化することをできるだけ避けたいという認識になる。

この情報統制に対する考え方が刑罰への向き合いにも反映されていると言えよう。中国では遅れている。情報公開することにより人間は同情しあい社会の改善のために知恵を出し合い、社会のために犯罪を思いとどまることもできるはずだ。

無差別事件、公務員に被害

女性財務庁長の訃報(湖南省政府HP 2024年9月)女性財務庁長の訃報(湖南省政府HP 2024年9月)

筆者が9月から10月にかけて「殺人」をキーワードに大きな事件を探したところある程度拾い上げることができた。中国の民衆が、政府の情報統制の思惑とは裏腹にお上の顔をうかがいながらも公開情報を探し出しているからだろう。中国メディアも最低限の情報は提供しようと問題意識を持っているのが伝わって来る。

筆者は米国に本部を置く「法輪功」系メディア『人民報』にまとめられているのを発見した。ここには国内にいる反体制志向の中国人らが内密に情報提供してくるのだ。さらには米国政府の対外メディア『VOA』やフランスの対外メディア『RFI』、台湾の独立系メディアの『関鍵評論網』などにも掲載されていた。ただし情報のファクトや偏りがないかを確認するには公的な情報源での裏付けが必要だ。中国国内メディアの事件報道は共産党中央宣伝部の許可のもと新華社の情報をもとに報じているので一般論としてフェイクニュースはない。したがって両方の情報をクロスさせれば実態がかなり見えてくる。整理できた事件は以下の通りだ。動機の内容については弁護士の力が弱いためどこまで公正かは不明だ。

9月2日、吉林省長春市の公民館で刃物を持った45歳の男が通行人を威嚇し続け、止めに入った警察官を殺害した。容疑者もその場で射殺された。9月3日には山東省泰安市で新年度授業が始まったばかりの中学校で生徒と保護者の列にスクールバスが突っ込み、11人が死亡した。運転手は逮捕されたが原因や年齢は明らかにされていない。9月5日には陝西省咸陽市で逃走している20代から30代の男5人の容疑者を指名手配したと警察が発表した。「法輪功」系の『人民報』によるとネット上に「5人は咸陽市の副市長の一家が7月に殺害された事件と関係している」という情報が拡散しているという。そして9月18日に広東省深圳で日本人学校男子児童の殺害事件が起きた。同じ9月18日には貴州省黄平県の小学校で教師が刃物で殺害される事件があった。警察は同僚の51歳の教師の男が容疑者だとして指名手配した。9月19日には湖南省の財務庁庁長で地元の58歳の共産党書記の女性が男2人とともにビルから転落して死亡した。中国の検索サイト『百度』によるとこの女性庁長は住居の高層マンションを訪ねてきた35歳と31歳の男2人に13階のバルコニービルに連れ出された後3人とも転落したのだという。男2人の動機や女性庁長との関係は不明だ。金銭問題でもめていたという情報がある。無差別殺傷に次いで多いのがこうした公務員が犠牲になる事件だと指摘されている。9月23日には江蘇省南通市で54歳の村民の男が村役場の25歳の女性幹部職員を刺殺。刺した男は自殺したという。男は村から生活保護の受給資格を剝奪されており支給再開を巡って村に説明を求めていたという。そして9月30日に上海市のスーパーウォルマート内で37歳の男が刃物で買い物客を切りつけ3人が死亡した。10月1日には湖南省卲陽市の52歳の警察局長が国旗掲揚式の最中に36歳の部下に銃撃を受けた。警察局長は病院に搬送された。部下はその場で自殺を図ったという。動機は不明だ。2人の容体も明らかにされていない。10月2日には江西省景徳鎮で車が住宅街の入り口付近に突っ込み道路を渡っていた乳児を含む親子3人が死亡した。運転していた20歳の男は危険な運転を行った容疑を認めているという。10月8日には広東省広州市内の小学校の前で60歳の男が刃物を振り回し児童2人を含む3人がけがをした。男は拘束された。男は交際相手に対する殺人未遂の罪で服役後釈放されたばかりで裁判のやり直しを訴えていたと中国メディアの『財新』が報じている。10月20日には武漢市の商店街を車が暴走し3人がけがをした。警察はブレーキ故障が原因だとしているが引き続き運転手の飲酒と薬物使用の可能性も調べている。運転手の年齢は明らかにされていない。10月24日夜には山東省青島市の道路上をミキサー車が複数台の車に次々と衝突しながら暴走した。3人がけがをした。48歳の運転手は飲酒運転の疑いで逮捕された。ミキサー車のドラレコには運転手が「共産党は俺を生かしてくれない。だから人を殺す」と叫び続けていたのが記録されネットにアップされていると米国『VOA』や在米反体制メディア『人民報』が報じている。そして10月28日に北京市の海淀区の小学校付近で刃物を持った50歳の男が通行人に切りかかり未成年者3人を含む5人がけがをした。

社会に対する報復、ドロップアウトした人々、ナショナリズム

列挙した事件のうちの多くは「無差別の人や車を対象にした事件」だ。

珠海の事件は2008年に東京秋葉原でトラックを暴走させるなどで17人が死傷した無差別殺傷事件を想起させる。この事件の元死刑囚は「ネット掲示板で嫌がらせを受けて怒りを覚えていた。誰でも良かった」と述べていた。2019年の36人が死亡した京都アニメーション放火殺人事件の被告は秋葉原事件に共鳴し「自分と同じ苦しみを多くの人間に味わわせてやりたい」と述べていた。中国でも一連の事件を受け「報復社会(社会に対する報復)」という言葉がトレンドになっている。さらには市民らが事件の様子をネットにアップし拡散させるときに「社会に対する報復」だというコメントをつけて拡散させ、容疑者の行動に同調している。「社会に対する報復」とは疲弊する中国経済や長かったコロナ禍でのロックダウンで失われたものに対する鬱憤晴らしだといわれている。

「社会に対する報復」と並んでネット上のトレンド・ワードになっているのが「五失人員(ごしつじんいん)」というドロップアウトした人を意味する社会科学の専門用語だ。中国の学者たちが「五失人員(五つを失った人々)」の救済を訴えた。「五失」とはすなわち①投資に失敗し経済的困難に直面している人々。②生活全般に満足感を得られず失意を感じている人々。③心理的平衡感覚(精神的なバランス)を失い心の健康問題を抱えている人々。④人間関係に失敗した人々。家庭や職場など対人関係に問題を抱えている人々。⑤精神的な正常な状態を失った人々。精神疾患を抱えている人々。「人員」は人々をさす中国語だ。いずれも「失」の文字が入る。

「共産党は俺を生かしてくれない。だから人を殺す」の声がドラレコに(山東省青島 2024年10月。中国のSNSより)「共産党は俺を生かしてくれない。だから人を殺す」の声がドラレコに(山東省青島 2024年10月。中国のSNSより)

中国政府が社会統制と犯人処罰ばかりに重点を置き事件を起こした社会環境の改善を後回しにしたその付けが回って来たといえよう。事件翌日に深圳や珠海のある広東省トップの党委員会書記が素早く声明を発表した。市民が抱える家庭内や隣人トラブル、金融トラブル、訴訟問題などを調査し解決にあたれ。困窮者に寄り添い救済策の強化にあたれと訴えた。民政省も生活保護法の充実を図ると発表するなどにわかに動き始めた。11月13日には習近平国家主席も「リスク防止の強化」に関する指示を出した。中国はスローガンで動く国だ。支援が末端の役人によって執行されるときには面従腹背となり問題人物を隔離、排除する懸念もある。

拡散するフェイク動画

中国で続く事件にはもう一つ重要な落とし穴がある。ネット世論対策だ。犯罪は中国でも日本と同様にSNSを通じて拡大しているのだ。SNSでは匿名の不特定多数がつながり大胆な実際行動で結びついていく。放置すればネットで妄想や陰謀論を膨らませた集団が理性的な声を潰しながら暴走することは米国の連邦議会襲撃事件でも実証済みだ。日本でも相手の姿が見えないままSNSでつながり悲惨な事件を引き起こす匿名・流動型犯罪(とくりゅう)での対策で苦しんでいる。ネット上のヘイトスピーチから発し外国人参政権に反対する運動が広がっている。中国でも同じ現象が起きていると考えたほうが良い。

9月に広東省深圳市で日本人学校の男児が殺害された事件では「日本人学校を敵視した動画」が動機になったのではとみられている。深圳事件より前の7月に『ニューヨーク・タイムズ』は日本国内の小学校の運動会で撮影されたと思われる宣誓式の様子をフェイク動画に加工したものが拡散していると報じていた。日本の児童たちによる「日本語」の音声であるもかかわらず「上海は私たちのものだ。中国も私たちのものになる」と叫んでいる中国語の文字テロップが表示されていた。1000万回再生されたところで削除されたという。

筆者がその情報をさらに追跡してみると確かに中国のまとめサイト『テンセント』上である個人が問題点を指摘した2023年3月の投稿記事が見つかった。記事には「フェイク動画が2022年9月から拡散している」と書いてある。つまり2年前からあったというのだ。この記事の投稿者は良心から投稿したとみられる。それによると動画は日本に住む中国人が加工したと推定され関東地方に実在する小学校の運動会で撮影されたにもかかわらず、「中国国内の『日本人学校』の動画」と誤認させる構成になっているというのだ。動画写真にある当該小学校に関する情報をさらに検索すると確かにあった。運動会の「選手宣誓」の場面を撮影した実際の動画であるとみられ、学校関係者らしい人が「この光景を使って上海の日本人学校で子供たちが中国侵略を誓う儀式をしているみたいなデマ動画が流されている」「教育委員会に動画の確認と警戒を呼び掛けた」と記している。「日本人学校はスパイ養成学校だ」と指摘する心無い書き込みもあったと別の米国政府系ネットメディアの『歪脳(Why not?)』は9月の深圳事件後に報じている。

これらの動画投稿をめぐる情報が事実だとすれば9月の深圳、そして6月の蘇州の日本人学校で事件を起こした容疑者らの行動に影響を与えた可能性がある。中国政府の対応の仕方によって事件は避けられただろう。日本での犯罪行為とも関連があるかもしれず自治体など行政機関の対応には抜かりはなかったのかという点も気になる。いや中国政府は動いたがコントロール不能の状態になっていた可能性もある。すなわちページビュー数、誰がいつどんなサイトを見たかその数に応じて莫大な広告収入を得られるビジネスモデルは中国にも定着している。ページビューは中国語で流量という。そこから「愛国流量」という言葉が生まれた。ナショナリズムを煽ることでカネを稼ぐ。雪だるま式に愛国心・すなわち反日が高揚する。中国政府は問題となったSNSやポータルサイトなどのプラットフォームに規制を命じた。だがプラットフォームやアカウントが規制され閉鎖されたこと自体を攻撃する新たな「愛国流量」が登場するという。そこでは理性的な声は遮断されるのだ。これがSNSアプリやツールの発達により現実の事件として爆発した。シンガポールの中国語メディア『端傳媒』は「モグラたたきが追い付かない状況にある」と報じている。政府の情報統制が逆に習近平政権をコントロール不能にさせたという指摘もある。習近平政権ではオフラインのリアルな暴動を防ぐために当局がオンライン上での発散に意図的に誘導したという経緯があるのだ。これには反日感情の発散も含まれる。なぜネットに誘導したのか。それは民主主義に理解のあった前任の胡錦涛政権の時に街頭デモがたびたび暴動になったことを反省したからだ。過去3回あった街頭での反日暴動はいずれも胡錦涛政権の時に起きている。

「反日」であれば一つになれる

妄想や陰謀論はナショナリズムと結びつきやすい。中国では「反日」だ。政府にとっては「中国には反日教育は存在しない」。共産党の原点を教える教育であり反日の暴走を助長するための教育ではないというのだ。中国ではなぜ「反日」に傾いていくのか。それは近代中国の歴史が反日から始まったからだ。砂のようにバラバラだった中国人は「反日」を経て初めてまとまりができたと中国国民党が結党した当時、孫文は述べている。中国共産党が党勢を拡大し中国を建国した歴史そのものも反日運動の拡大と重なる。「反日」を抑え込むことは共産党の「自己批判」であり反体制運動を助長しかねないという関係にある。「愛国無罪」という言葉がある。五四運動当時のスローガンだ。今日、ネット上に書き込みを行う中国のネトウヨもこの言葉を使う。政府の弱みに気付いているからだ。ネトウヨにとっては「プチ民主主義」なのだ。よって歴史を知らない若者たちの間でも「反日」であれば同調でき受けを狙おうとして過激に走る部分もある。

「反日ナショナリズムは政府の火遊びだ」と中国ではしばしば指摘される。社会の団結を図ろうとするときに愛国心、いわばナショナリズムを使うことはどの国にもある。ナショナリズムを使ったポピュリズムだ。社会の接着剤に落ち着いていればいい。しかしナショナリズムはページビュー数が増大することでカネ稼ぎになる。これが行き過ぎれば政権はこぶしを振り下ろせなくなる。政府に対する弱腰批判に発展する。反日の暴走は放置されるが弾圧が手遅れになることもあるのだというのだ。

中国社会には日本と似た「同調圧力」というものもある。社会がいったん一つの方向に向かうと悪い方向にも皆が同調し暴走する。前述のニューヨーク・タイムズの記事は、日本の処理水放出で「汚染水批判」が拡散した当時、中国国内でこれはフェイクだと理性的に判断し指摘した人が取締りを受けたケースについて報じた。上海辰山植物園に所属する科学リテラシーの専門家・劉夙りゅう・しゅくが、拡散する情報に疑問を呈する文を投稿した。劉夙が投稿し削除された論文の「魚拓」を筆者も米国のサイトで読んだ。客観的に日本の処理水に対してトリチウムの問題点を指摘し情報の透明化を求める一方、「汚染水」という言葉に象徴される科学的根拠のない言動を中国側に慎むよう訴えていた。ところがある人物の告発により上海のネット監視機関が動き、劉夙はこの記事の削除とアカウントの6か月停止を申し渡されたと報じている。

日本の「処理水の海洋放出」に対する2023年8月の「国際電話による反日嫌がらせ行動」を覚えているだろう。中国政府は「汚染水」という言葉を使い日本政府に抗議した。恐らく処理水放出は、日米豪印のQUADという米国主導の中国包囲網構築と同時進行で進められたため、このことに対する牽制という政治的な意味合いもあったと思われる。対日圧力に民衆・大衆も動員し日本への批判の度合いを高めた。ネット上や電話での反日言論を容認し放任した。善意に解釈すれば政府が日本を批判しているので、ネットの世界で激しい反日に走ることがトレンドになった。事実無根の情報が拡散し不安と怒りが一気に広がり、反日行動は間違いだという声が遮断されたのだ。暴走した反日言論を政府は止めることができなくなったという可能性もある。日本でも似たような「事件」が起きても不思議ではない。だが日本にはそれを批判するメディアも野党政治家もいる。中国では指導部自ら気が付くまで変わらない。

忖度する外交官

実際のところこの一連の反日の暴走に中国政府自身が困惑しているはずだ。なぜなら中国はいま日本と対立すれば損になる状況にある。日本の同盟国の米国と中国が対立しており、そこにトランプ大統領の再登場という荒波が押し寄せることと関係している。この米国との橋渡しを行う協力者として米中の間にいる日本を取り込んでおきたいはずだ。すでのこれは実行されている。石破茂政権になって国際会議の場で李強首相や習近平主席が相次いで石破総理大臣と会談し、岩屋毅外務大臣が短時間の訪中を行うと李強首相、王毅外相が連続会談し両国間でビザ条件の緩和など人的・経済的交流の活発化へ向かい始めた。

9月中旬の深圳・日本人学校児童殺害事件の直後、中国外務省報道官は「偶発的な事件だ」「個別の事件だ」と述べた。王毅外相は9月下旬の日本との会談で「事件を政治問題化するな」と発言した。この言葉は中国にとって損になりますと王毅外相にアドバイスする外交官は中国にはいなかったのだろうかと考えてみた。

コロナ禍での米中関係悪化の中から中国で発生した「戦狼外交」の影響が今も残っているのだろう。すなわち外交官が中国に歯向かう国に対して敵対的な言動を浴びせる外交行動だ。官僚の世界には忖度もある。ところが東京の中国大使館は踏ん張った。呉江浩大使は9月末の国慶節のレセプションで「我々は先日深圳で起きた児童襲撃事件に心を痛め、不幸にして亡くなられた子供に深い哀悼の意を表します」と1000人以上の招待客やメディアの前でスピーチを行ったのだ。政治体制や社会構造の異なる日本社会に対してどういう言葉を投げかけなければならないのかが出先の大使館には分かっていた。自国が日本にどう映っているかをイメージし外交官としてどう発信すべきかを考える総合演出力が備わっていた。しかし本国には現地の状況を伝えアドバイスするだけの力はなかったのだろう。いやもう一つ成り立つ仮説がある。本国の王毅外相と出先の呉江浩大使とで役割分担している。王毅氏は日本大使を経験し日本のことはよく分かっている。その上で日本には微笑むが国内向けには敢えて日本に厳しい顔を見せ続ける。つまりSNSという新しい情報環境において明らかに中国政府は民衆のコントロールが不能になる事態に直面しているのだろう。日本の選挙などで起きたことと同じだ。いま進もうとしている日本との交流活発化がこの硬直した中国国内の社会変革のきっかけになることを望む。外交官や司直関係者に求められているのは国内と相手国の民衆に対する心の通った言葉であり政策なのだ。

安江伸夫(元・テレビ朝日北京支局長)