戻って来た中国人観光客
この夏、イルクーツクでふたたび中国人ツアー客を見かけるようになった。新型コロナが流行した頃にぷつりと姿を消した後、昨年ぐらいまではさっぱり目にしなかったのだが、今年に入ってから北京―イルクーツク間の航空便が復活したことが後押ししたらしい。
もちろん、新型コロナが流行してからも、イルクーツクは観光都市であり続けた。海外旅行を諦めた旅好きのロシア人富裕層がイルクーツクやバイカル湖へと流れてきたからだ。だが、やはり海外からの旅行者たちが行き交う様子は旅の中継地、イルクーツクの復活を感じさせる。客層の多様性や数量の面では、まだコロナ前には遠く及ばないものの、筆者の知人も含め、観光客頼みの商売をしてきた多くの人々にとっては、ひとまず最悪の時期は乗り越えられたことになる。街角にふたたび風景画を売る画家が現れたり、商店街に活気が戻ったりしたことは、少なくとも開戦以来街につきまとってきた閉塞感を和らげる作用があり、精神衛生上もありがたい。
著名人が憩った街
そもそもイルクーツクは、世界に名だたるバイカル湖の近くに位置しているだけでなく、歴史的景観の美しさでも知られた観光都市だ。そのため、ソ連やロシア帝国の時代から、シベリアを通過する国内外の旅行客の多くがイルクーツクを訪れてきた。ソ連の時代には著名な政治家や革命家も数多く訪れており、その訪問当時の様子は、今もイルクーツクの人々の語り草になっている。
その代表格が、新中国を建設したばかりの毛沢東だ。毛は1950年、イルクーツクでピオネールの施設や中国とゆかりの深い茶葉工場を訪れた。彼の訪問後、工場では中国茶の出荷量が増えたという。
そもそもイルクーツクを含めたシベリアでは、ブリヤート族などが緑茶を好むことから、歴史的に緑茶の人気が高い。カフェなどで茶を頼むと、必ずといっていいほど「紅茶ですか、緑茶ですか」と聞かれるほどだ。筆者の友人にも中国茶の愛好者は多い。かつてイルクーツクは中国との茶葉貿易で栄えた街でもあり、毛の訪問は、貿易面での促進効果を生んだだけでなく、中露の歴史的な繋がりをも再確認させたのだった。
数年後には、ベトナム民主共和国のホー・チ・ミンも公式にイルクーツクを訪れた。公式、非公式を含め、何度もソ連邦を訪れているホー・チ・ミンは、ロシア各地に彼の名がついた場所が残されたほど、ソ連で人気が高かった。ちなみに筆者が短期留学したイルクーツク国立大学の外国語学部も、前身は正式名称が「ホーチミンにちなんで名付けられたイルクーツク州立外国語教育学院」だった。しかもベトナムとの友好関係を反映してか2017年にはモスクワ、2017年と2023年にはサンクトペテルブルグ、そして2019年にはウラジオストックにホー・チ・ミンの紀念碑が建てられるなど、ここ数年、ホー・チ・ミンへの注目はふたたび高まっているように見える。
現在、ロシアはCIS諸国からの移民の減少によって、労働力不足に直面しており、北朝鮮、ベトナム、アフリカの諸国などから労働者を呼び寄せている。イルクーツクでも街角でベトナム人労働者などを見かける機会は増えており、ホー・チ・ミン人気は時代の流れを象徴しているのだろう。ホー・チ・ミンが「独立と自由」を強く重んじたことを思えば皮肉にも感じられるのだが。
ホー・チ・ミン訪問の後も、著名政治家の訪問は続いた。1957年、スターリン批判を行った翌年のニキータ・フルシチョフがイルクーツクを訪れた際は、町の目抜き通りをパレードしたため、多くの民衆が通りを埋め尽くしたという。
チェ・ゲバラやカストロも
1960年にはさらに、キューバ革命を達成したばかりのチェ・ゲバラがイルクーツクを訪れ、1963年にはフィデル・カストロもやって来た。当時、イルクーツク空港はキューバの国旗で飾られ、大勢の人々が仕事を放り出して駆け付けた。空港から中心街へと続く道沿いでは、何千人ものイルクーツク市民が花や旗やポスターを手に出迎え、その間をカストロは幻のソ連車「チャイカ」のオープンカーを運転しながら進んだという。その後、カストロはバイカル湖へと向かい、現地の博物館を訪問したり、釣りを楽しんだりした。現地で小熊をプレゼントされたので、「バイカル」と名付けてキューバに連れ帰ったが、キューバの気候に慣れず、残念ながら1カ月後に死んでしまったらしい。
バイカル湖の次に、カストロはアンガラ川の水力発電所も巡った。シベリア鉄道でブラーツクの発電所に向かう時、カストロは地元の人々にキューバの葉巻をプレゼントしたそうだ。
この他にも、ヨシップ・ブロズ・チトー、インディラ・ガンディー、金日成、ニコラエ・チャウシェスクなど、現代史でおなじみの顔ぶれがイルクーツクを訪れており、ダイアナ妃までが足を運んだ。当時、たまたま彼女を見かけたという住人は、ダイアナ妃がごくカジュアルな服装で街を歩いていたことに驚いたそうだ。
政治家の訪問といえば首都か大都市というのが一般的なので、人口60万人台のイルクーツクに著名人物がこうも次々と訪れたというのは、興味深い。もちろん訪問の目的には、契約の締結や産業・政治関係の視察など、純粋な観光とは言えない要素も多分にあった。だが、シベリアの他のどこでもなく、イルクーツクが選ばれた理由に、近くにバイカル湖という名だたる観光資源があること、ゆえにイルクーツクがソ連時代もずっと国内外の観光客に開かれた都市であったことが影響しているのは確かだ。
アジア接近のルカシェンコ
そして今年の6月、そんな錚々たる訪問者の顔ぶれに並んだのが、ベラルーシの大統領、ルカシェンコだった。今年正式に上海協力機構に加盟したベラルーシは、アジアとの結びつきを強めつつあり、その一環としての訪問だったようだ。
ルカシェンコはイルクーツクでガスや航空機関連の施設を訪問しているが、ベラルーシのテレビ局は、その報道でイルクーツク州が石油や金などの鉱物資源に豊むことにも触れていた。もちろん観光も欠かさなかったようで、ニュースの映像にはルカシェンコが船でバイカル湖を巡る様子も含まれていた。
シベリアにはもともと、多くのベラルーシ人が住んでおり、農業国ベラルーシの食品を売る店や市場も人気がある。チェルノブイリ原発の事故の影響を知る筆者は最初、なぜベラルーシ産の食品に特別人気があるのか不思議だったが、ロシアの多くの人にはソ連時代の食品の品質や衛生の管理基準を、今よりも厳格だったと考える傾向があり、ベラルーシはその基準を今も守っていると信じているからのようだ。
ちなみに当のベラルーシは、農業国家からの転換をはかっており、ルカシェンコ大統領に至っては、仮想通貨の方が農業より国に収入をもたらすという発言さえしている。つまり制限を強化してきたロシアと異なり、ベラルーシでは大統領自身が仮想通貨の利用を奨励している。その点を考慮すると、イルクーツク州に仮想通貨のマイニング施設が集中していることも、ルカシェンコがイルクーツクを訪問先に選んだきっかけに含まれている可能性がある。
だが正直なところ、ルカシェンコの訪問は比較的地味なもので、友好国の領袖が訪れた割には、イルクーツクの人々の歓迎ムードもあまり盛り上がっていなかった。何らかの配慮があってか、マスメディアでの報道が少なかったことも影響しているのかもしれない。
増え続ける中国製品
ここでふたたび、中国人観光客の話題に戻りたい。今世紀に入り、中国で海外旅行熱が急激に高まったことは、日本にもその影響が押し寄せたので、広く知られている。そんな中、中国と長い国境でつながっているロシアも、とりわけソ連文化にノスタルジーを抱きがちな世代の中国人たちにとって、長らく人気の訪問先だった。
先述のように、コロナ禍の影響で中露の国境が閉鎖され、ロシアのウクライナ侵攻の影響でその閉鎖が長引くと、中国人観光客の姿はいったん消える。だが国境がふたたび開かれた時、イルクーツクの街に現れたのは、観光客だけではなかった。彼らの復活に先立ち、中国車や中国食品など、中国から運ばれる商品の存在感が急激に高まったのだ。経済制裁のあおりで、欧米の製品が姿を消していく中、その隙間を埋めるものとして重宝されたのだった。とくにこの半年ほどは中国食品の店の増加が顕著だ。スーパーの一角やモールの中の店舗では現在、さまざまな中国食品が売られている。とくに目立つのはインスタントラーメンや調味料、菓子類の類だが、中国産コカ・コーラなども目にする。
売られている軽食やカップ麺などの多くには、成分や食べ方などのロシア語の表示がない。そのため、どんな食品で、どのように準備すればいいのかなどが、ほとんどのロシア人にとっては解りづらい。カップ麺の作り方を間違えるくらいなら害は少ないが、食品アレルギーがある人などには、消費するリスクはさらに大きいことだろう。
だがそれでも、イルクーツクの人々はおおむねそれらを歓迎しているようだ。ある日、スーパーの中国食品コーナーで、知り合いのおばあさんと会った時、そのおばあさんは「幸い、中国は私たちを食べさせてくれるわよね」と冗談交じりに言った。そのおばあさんはどう見ても商品棚にある中国食品を購入したがるタイプには見えなかったので、暗に経済制裁の厳しさを皮肉ったのだろう。
最近のシベリアでは中国車の数も以前よりずっと増えている。かつてはトヨタのランドクルーザー派だった友人も、今は中国車を乗り回している。日本車は部品が手に入らないので、故障が怖くて乗れないのだそうだ。今年はイルクーツク州において、中露共同での電動バスの生産も始まった。
結びつく官と商
こういった変化の背景にはイルクーツク州政府も関係した、組織だった動きがあるようだ。2022年には、貿易関係者同士の情報交換や政府との関係構築を目的とした非公式のクラブも設立されている。クラブの会合では、中国、モンゴル、韓国の総領事館の代表のほか、イルクーツク地域の20社以上の企業、中国系企業70社、モンゴル系企業30社が一堂に会したという。
中露間の人や物の流れの活発化によって、イルクーツクでは中国領事館が担う役割も大きくなっている。2009年以来、イルクーツクに置かれてきた中国領事館は、2020年11月に新しい建物に移った。新しい建物は味わい深い伝統建築で、中国政府関係の建物だとは信じられないほど愛らしく親しみやすい外観をしている。ちなみにこの建物は長らく幼稚園として利用されていたため、筆者が初めて訪れた頃は、敷地の庭に遊具が残っていた。その後は領事館に改装されるまで、中国料理の高級レストランとして使われていた。幼稚園から中国レストラン、そして領事館へという、建物の用途の激変ぶりもまるで冗談のようだが、さらにひねりが効いているのは、中国料理の高級レストランだった頃の店名が「ホンコン」だったということだ。
つまり現在、中国からイルクーツクに流れ込んでいるのは、観光客だけでなく、各種の製品や産業や飲食文化や外交関係を含む、中国からのさまざまな影響力だ。そもそもイルクーツクはロシアと中国やモンゴルとの間の貿易の中継点として栄えた街なので、伝統的な地位に戻っているのだとも言えるが、ロシアにおける中国製品の流通が、ロシアの中国へのエネルギー売却と相関関係にあるのだとしたら、情況はそう単純ではない。
高まるシベリアの重要性
ちなみに、イルクーツクはロシアと中国を結ぶ通商路の要衝にあるだけでなく。現在は北朝鮮との間を結ぶ町だとも指摘されている。戦争やそれに伴う経済制裁によってエネルギーの供給先や輸送網が変わったこともあり、シベリアや極東の都市、とくにイルクーツクのような中継地点にある都市や国境と隣接する地域が、以前より重視されるようになっている。
米国のジョン・マケイン上院議員はかつて冗談交じりにロシアを「国を装ったガソリンスタンド」と呼んだそうだが、そのガソリンの大半はシベリアにある。にも関わらず、これまでシベリアは発展が滞りがちで、中央政府から軽視されている感さえあった。そのシベリアが、今回の戦争によってエネルギーの供給源としての価値や存在感を高めてしまっているのは皮肉だ。
そもそも、戦時下において戦略的に重要な地域だと認識されることは、複雑かつ危険な情況に巻き込まれやすくなることを意味する。実際、戦争を終わらせるには、シベリアー中国間のパイプラインを爆破するだけでいい、などという極論さえ、最近はネット上で目にする。
イルクーツク州からは多くの兵士がウクライナの前線に送られており、クレムリンもより多くの軍人を前線に送り込むため、志願者に多額の契約金を約束したりしている。だが志願者らもまさか、自分自身のみならず故郷までもが戦火にさらされることは望んでいないだろう。
筆者の不安が杞憂で終わることを祈るばかりだ。