
書名:玄洋社・封印された実像
著者:石瀧豊美
発行:海鳥社/2010年
玄洋社に対する無知、誤解に挑戦する一書
本書は玄洋社研究の先駆的立場にある石瀧豊美氏(1949~)の著作だ。冒頭の「まえがき」から、一般社会における玄洋社に対する誤解、無知に対しての実例が並ぶ。まず、評論家の田原総一朗氏(1934~)からの電話紹介に始まるが、田原氏は玄洋社が「大陸侵略の先兵」であると考えていたことを述べたという。更に、井川聡、小林寛という読売新聞の記者(当時)による『人ありて』(海鳥社、2001)を読んで、頭山満という人物に強烈な関心を抱いたと吐露した。豊富な知識を有する田原氏をもってしても、玄洋社に対する無知、誤解がいかほどのものであったかが窺いしれるエピソードではないだろうか。
本書は、次の3部で構成されている。
Ⅰ 今なお、虚像がまかり通る玄洋社
Ⅱ 玄洋社発掘 福岡近代史のある断面
Ⅲ 玄洋社の周辺
そして、資料が巻末につき、人名録、玄洋社員名簿が付されている。
石瀧豊美氏は半世紀余の歴史を誇る「福岡地方史研究会」会長を長く務めており、いわば、福岡県の郷土史家のような印象を受ける。事実、福岡県下の郷土史にも詳しいことから、そう思われても致し方はない。しかし、自由民権運動団体から派生した玄洋社は、その活動領域は日本国内にとどまらず、アジア、世界にと活動の場を広げている。そう考えると、玄洋社研究の石瀧氏を郷土史家という範疇に組み込むのは無理がある。少なくとも、日本国史、アジア史の研究者と位置づけるのが正解だろう。
玄洋社はアジアの植民地解放を進めたことから、植民地支配を数世紀にわたって続けた欧州にとっては利権を奪い去った仇敵となる。加えて、新興国アメリカの帝国主義を阻害する団体が日本の玄洋社であった。アメリカは日本の経済成長を抑えるために、ありとあらゆる規制を掛け、日本占領の対策を考えてきたが、その最終解決方法がいわゆる太平洋戦争だった。そのことは、アメリカ海軍戦略家のマハンの理論に詳しいが、明治39年(1906)頃には、「オレンジ計画」として着々と日本侵略作戦が遂行されていたのだ。当然、アメリカにとって目の上のタンコブである玄洋社、黒龍会は徹底して封印し、歴史から抹消しなければならなかった。故に、日本の敗戦後、「右翼」「秘密結社」「大陸侵略の先兵」というレッテルを貼って、日本人が蔑視、敵視する団体に仕立てあげたのだ。
結果、本書巻末の玄洋社員名簿に記載がある安川第五郎のように、評伝やインターネット情報でも「玄洋社員ではない」「玄洋社理事には関知しないところで名前を使われた」「玄洋社付属の柔道場での関係のみ」などと記述されることになった。しかし、玄洋社墓地(福岡市博多区の崇福寺)の一画に立つ「玄洋社社員銘塔」という銅板には安川第五郎の名前があり、建立責任者としての安川第五郎の名前もある。これだけでも、いかに虚偽に満ちた情報が一人歩きしているかが容易に分かろうかというものだ。これが、冒頭の田原総一朗氏が語ったところの「無知、誤解」である。先入観でものごとを語るにも程があるというものだが、「無知、誤解」が重要な史実を埋没させてしまうことに気づいて欲しい。
先入観といえば、外相時代の大隈重信に玄洋社の来島恒喜が爆裂弾を投じて、大隈の片足を奪った。このことから、大隈と玄洋社が敵対関係にあると固く信じている人がいる。しかし、玄洋社初代社長の平岡浩太郎の葬儀では大隈は弔辞を詠み、平岡の墓碑(福岡市博多区聖福寺)向かいにある顕彰碑篆額は大隈重信の手跡として名前が刻まれている。
余談ながら、筆者は佐賀市で「大隈重信と玄洋社」との関係で講演したことがある。来場された方はこの平岡の墓所に遺る大隈重信の手跡を知らなかった。これも先入観から、大隈と玄洋社は敵対関係にあると頑なに信じ込んでいたからに他ならない。
本書は、玄洋社に関心を抱く方には必携の一書である。著者が収集した貴重な資料も含まれている。一例を挙げれば昭和18年(1943)の正月、朝日新聞に掲載された中野正剛の「戦時宰相論」である。これは東條英機を批判するものだが、朝日新聞が発行する縮刷版(バックナンバー)にも納められていないものだけに一見の価値がある。
平常、筆者も玄洋社が理解できなければ日本の近現代史は読み解けないと語っているが、本書はその資料集として有用である。